2011年2月12日土曜日

[本棚から]シモーヌ・ド・ボーヴォアール「ある女の回想-娘時代」

 シモーヌ・ド・ボーヴォアール(1908-1986)「ある女の回想-娘時代」をこのほど読みました。

 フランスの20世紀の「知」の人。サルトルと交友があり、50歳代になって 幼児から20歳前後の自分の魂の遍歴を著述したのは、おさえがたい娘時代の思いがあったのだと思う。

 彼女は、哲学であるいは文学で、他者に訴えようと10代の頃から沸々としたものをもっていた。そのほんの一部をひも解いてみよう。

 父母とは、理解し得なかった。宗教とは何か?何度も問いかけている。20前の結論は「神はいるのか」という疑問を持ち続けている。友は、女性にも男性にも絞り込んだ人がいた。将来の夫は誰なのか?で会う男性で、絞ろうとしたが、絞りきれなかった。真の女性の友は、20前後のその頃、亡くしてしまった。意中の男性は、煮えきらず、結局、分れてしまう。その男性は、40代のころ、事業に失敗して、亡くなってしまう。

 この二人はシモーヌ・ド・ボーヴォアールの青春の時代の魂を反問・行きつ戻りつした希望の人であった。

 20代以降に生涯を通じて、インスピレーションを与えつづけたのは、知友サルトルであるということを、終章でだけ述べている。

 まわりくどくなったが、20歳までのこころの遍歴と、20歳以降のこころの遍歴は違うということだ。しかし前者の思いは生涯を通じて消えなかったということである。

 緻密な振り返りは、3歳くらいからはじまっている。シモーヌ・ド・ボーヴォアールの精神の遍歴を辿る時、若い人たちが読めば、益すことが多いと思う。熟年の人が読むとき、毎日の大切さを思うかもしれない。

 ローマは一日にしてならず、である。(11.2.12 中川 昌弘)


 

2011年2月4日金曜日

「Let’s Watch Movies」「息もできない」監督・脚本ヤン・イクチュン2008年韓国映画

 家族の苦しみと戦いを描く物語。世界の映画祭(ロッテルダム・東京フィルメックスなど25以上)で賞をとっている。

 主人公はチンピラヤクザ(ヤン・イクチュン監督が主役を演ずる)、道を行き交う少女につばをかけた。ここから物語りは始まる。少女は高校3年生。ただものではない。家庭に悩みを持つ。父はベトナム帰還兵で、心の障害を持つ。チンピラヤクザの父も家族に暴力をふるって妹を死にいたらしめ刑務所に服役して孤独に生きている。両方とも、母が死亡。殺伐たる家族たちの風景。チンピラヤクザは不良債権を暴力を使って回収するのを業としている。こころのよりどころは姉の息子である。高校生少女の兄も定職につかず、少女を悩ませる。

 こんな二人がソウルを流れる漢江の土手でしみどみと語り痛みを癒しあう。

事態は急転していく。

 雑誌の2010年度の優秀外国映画一位をとり、シネマート心斎橋で異例の延長上映を行っていたので見る事が出来た。最近、台湾映画「モンガに散る」という映画も観たが、若いヤクザの抗争で、家族がからんでいた。一般的に、現役世代の家族が平穏であることは少ない。日本の園子温監督(「冷たい熱帯魚」2/5封切り)は「おだやかな家族が登場する日本の映画やTVドラマは、現実を癒す麻薬であり、麻薬は常用すれば更なる癒しを求める。」という主旨のことを日経新聞1月12日夕刊に載せていた。符合するかのように韓国のこの映画は、日本のそれらとは逆にどろどろ生々しい家族の闘争を描いている。

 混沌としているはずの日本の家族の今と、混沌としている世界の今を考えさせる映画だった。(11.2.4中川 昌弘)

2011年1月24日月曜日

Let's watch movies 「海炭市叙景」監督 熊切 和嘉 原作 佐藤 泰志

 十三第七芸術劇場で「海炭市叙景」監督 熊切 和嘉 原作 佐藤 泰志 を観ました。次のような感想を持ちました。

 どこでもある風景、例えば、電車に乗り合わせた隣の人、向かえ側の人 それぞれの人生がある、そんな日常を、作者佐藤 泰志は自身の故郷の函館を模して海炭市として、さまざまな普通の人を登場させ「海炭市叙景」を残し、41歳の若さで自らの命を絶った。

 話は1989年頃、好況の日本経済も曲がり角に立っていた。造船会社では首切りの話、地上げしてショッピングセンターにしょうとする動き、燃料屋は浄水器などを扱って売り上げ低迷を打開しょうとするしたり、定年前の市電運転手が黙々と働いているし、プラネタリウムの職員は妻の夜の仕事に悶々としている・・・・ そんなこまごました日常をつなぎあわせた物語だ。

 画面に出てくる男女や子供がどんな関係かを画面の細部から推理していく。くどくどしい説明はない。

 その家にはひっこししてきたと思わせる包装材につつまれた家具がある。奥さんは30前後か、子供が小学高学年のようだ。夫は暴力をふるう二代目社長。夫婦仲は悪い。そこで観客は次のような想像をする。最近再婚した後妻か?妻がつらく子供にあたるのは継母だからか?夫が浮気しているからか?このような人間関係をそれぞれに類推させるシーンで多くが構成されている。その点、画面に見入ることになる。

 熊切監督は大阪芸大出身の若手である。バブル後の一都市のできごとを精力的にしかし淡々と描いた。

 2009年カンヌ映画祭でグランプリを取った第一次世界大戦前の次代を描いたドイツ映画「白いリボン」も、同様な手法で、主人公の先生を除く登場人物たちに、次々と事件が起こるが、余計な説明がなく観客が推理していく。その回答もない。子供たちが不気味なのは、後のナチスの登場を暗示しているという。

 「海炭市叙景」は低迷のしりすぼみなこの20年の原点を暗示していると読むのか?その答えは観客にゆだねられている。どっしりと重たい。(11.1.24 中川 昌弘)

2011年1月8日土曜日

[Let’s Watch Movies]「最後の忠臣蔵」監督杉田成道 主演役所広司 桜庭ななみ

人形浄瑠璃「曽根崎心中」を絡めながら、討ち入らなかった二人の侍(寺坂吉右衛門=佐藤浩一、瀬尾孫左衛門=役所広司)と大石内蔵助の隠し子 可音(かね)= 桜庭ななみ で展開される物語。
梅田ピカデリーで観ました。当時の武士道を想い、現代の日本にかけてしまったことを憂います。
瀬尾孫左衛門の子孫に20代の頃、仕事でお会いして、一食のご恩があります。瀬尾種苗店が赤穂にあり、先祖の孫左衛門さんが諸所全国を回り長門にもたちより、自分の立場を説明してまわったと、お食事をいただきながら、子孫からお聞きしました。この映画の、内蔵助の隠し子可音(かね)を育てたという内容とは異なるように思います。瀬尾孫左衛門は大石内蔵助の1500石とりの家臣で、浅野家の陪臣でした。そんなエピソードを思い出しています。
可音(かね)が結婚する花嫁行列に、次々と元浅野家の家臣がはせ参じるところは感動的でした。
梅田ピカデリーをでた後、泉の広場から梅田地下道を通り、地下鉄梅田駅に向かいました。途中、リニューアルした富国生命ビルB1Fフコクフォレストに立ち寄りました。ちょうど18時58分くらいより、時報を知らせる音楽が鐘の音のように心に荘重に響き、木のフロアに映じられる花々の映像を見ながら、「最後の忠臣蔵」の余韻を反芻していました。この数分の音楽は私の子息の作曲によるものです。その人のこころのありように共鳴します。(10時ころより22時くらいまで、映像と音楽が時報を知らせます)

忠臣蔵と鐘のような時報を告げる音楽が私の心で不思議な共鳴をしていました。よい時をもつことができたと心が喜んでいました。(11.1.8中川 昌弘)

2010年12月28日火曜日

[Let’s Watch Movies]「武士の家計簿」森田 芳光監督 堺 雅人主演

 師走、今年のことも、目処をつけて「武士の家計簿」森田 芳光監督 堺 雅人主演を梅田ピカデリーで観てきました。

 加賀100万石の、あるソロバン武士3代のお話。その名も猪山直之(堺 雅人)という。小さい頃から父(信之)・・・東京金沢藩邸の門を前面のみ赤に塗り、コストを抑えたのが自慢の種・・・にお家芸のソロバンを仕込まれ、超まじめ。直之の子を直吉、後に成之という。子にもソロバンを仕込むはいうを待たず。直之は家計簿を残した。家計簿をつけることにより一家の借財を、思い切った切り詰め生活で完済していく。

 この家計簿が、後の現代に磯田道史という人が古書店で16万円で買い、長年にわたって研究された。その結果として、映画で私たちが江戸末期のソロバン武士の生活の苦闘を知ることとなる。今年もノーベル化学賞に2人の日本人が入ったし、過去にも多くのノーベル物理学賞学者もだしたDNAが、既に江戸時代に一生を藩の財政計算にささげたソロバン武士にあったのだという。

 金沢加賀藩100万石で150人のソロバン武士をかかえていた。明治の代になって、この後裔たちが軍のロジスティックの算術をまかされたという。金沢の会計人たちは、他国人に群を抜いて優れていたといわれる。見ごたえある映画でした。(10.12.28中川 昌弘)

2010年12月26日日曜日

[本棚から]モーパッサン「女の一生」ささやかな真実 斎藤 昌三訳

 高等学校の頃、その名を知っていた、モーパッサン。「女の一生」を読みました。

 1800年代のフランス、ノルマンディー地方の片田舎でのお話。
 ジャンヌの夢一杯の乙女の頃、いとしの君を想いうかべていた。
 結婚の現実は、夢が幻滅であったことを知る。
 夫の浮気。あきらめ。その後の夫の惨事。
 唯一の希望は子供ポール。ポールの成長後の、母ジャンヌからの離反。
 子を信じようとする母心。孫を得て、自らの継承を確認。
 ついに一生を終える。

 かっての女中ロザリーは、かっての夫の不倫の子を宿し、そのことをもって
 一財産と他の男を与えられ、一家をつくる。
 老後は、傷心のジャンヌの介護をする。ロザリーは語る。

 「人生ちゅうもんは、まんず、人の思うほど良くも悪るくもねぇもんだのう」
(10.12.26 中川 昌弘)

2010年11月3日水曜日

[本棚より]スタンダール 佐藤 朔訳 「赤と黒」

 このほど、スタンダールの「赤と黒」を読みました。高校生の頃、友人が読んでいて、ジュリアン・ソレルという名前は覚えていた。以下は、感想です。今後、読まれる方はあらすじを飛ばしてお読み下さい。

[あらすじ] 1830年代、フランスの片田舎の大工のせがれ、ジュリアン・ソレルは背の高い細身の美青年だった。家庭教師に入った家のレナール婦人と道ならぬ恋をし、パリに出ては、秘書となった公爵の娘マチルドと恋に落ちる。当時のフランスの貴族の女性がいだく、差別感、世間体、高貴な女性の乗り越える幾多の心理的葛藤、ついに2人の愛と恋にジュリアン・ソレルは自らが、断頭台の露と消える結末をもって、小説の幕が閉じられる。

[恋愛小説の一究極]スタンダールの女性心理を透徹した筆力に酔ってしまう。
わが国の平安時代の「蜻蛉日記」、「和泉式部日記」、「源氏物語」といずれが上とも下とも判断できかねますが、違いは、男性が書いているところがミソで、スタンダールの観察眼に感心して脱帽します。読むその年代により、感動の度合いは異なるだろうと思います。それは本との出会いですので、各人のおかれた環境に任されています。名作とよばれているものは、いつ読んでも素晴らしいものが多く、人生を豊かにしてくれます。人生の充実を感じた数日間と読後も心を奮い立たせてくれます。名作ってすばらしいものです。(10.11.3)