2009年10月24日土曜日
「思い込み古代史」2.日本にどこから人はやってきたのでしょうか?
中国南部を含む東南アジアに生存していた古モンゴロイド人が島嶼づたいにも、中国大陸を北上し陸続きの日本列島へ南から九州へも、シベリア方面から北海道へもやってきました。(図 池田次郎「日本人の起源」参照ください。)タミール古語に57577の和歌の形式があることによって、日本語はタミール古語に起源があると大野晋氏が発表しています。更に古くは、東南アジアへはインドから移動したのかもしれません。
旧石器時代から縄文時代草期には小山修三氏の遺跡等からの人口試算によると約2万人住んでいたことになりますが、近畿以西では約3,000人弱(15%)となります。縄文時代を通じて15-25万人の人が住んでいたとのことですが、縄文晩期には7万6千人が住んでいたと試算されています。ちなみに近畿以西には約11,000人(15%)です。近畿以西の人口比率は15%程度で縄文時代を通じて、変わらなかったことになります。(ちなみに縄文時代の区分は草創期BC10000-8000年、早期BC8000-4000年、前期BC4000-3000年、中期BC3000-BC2000年、後期BC2000-BC1000年、晩期BC1000-BC300年)
BC4500年頃、気温が現代より2度ほど上昇し(その後しだいに下がっていきます。)、海水面も現在より2~3メートルも上昇していたとされる。(その後しだいに低下していきます。)本州の中央部以北は針葉樹林が北へ移動し南にあった落葉広葉樹林が北上してきて、ブナ・ナラ林のどんぐりが豊富でした。また、鮭、鱒の漁獲にも恵まれ北の地域に人々が多く住んでいました。本州中央部より南はシイ・カシ照葉樹林でした。人口は食環境に影響されます。狩猟採集による移動中心から食糧を保存するワザを開発して、しだいに定着へ向かっていきます。時代がBC500-BC300年頃になると大陸で稲作が開発されて大陸から朝鮮半島へ、更に、弥生時代(BC300ころ-)、本格的に、朝鮮半島から稲作文明を持った人々が移住してきます。これらの人々は新モンゴロイドといわれる東北アジア人です。縄文人は四角な顔で眉が濃いのですが、弥生人の顔は面長で一重まぶた、まゆはそれほど濃くはありません。寒冷仕様といった顔の骨がそなわっていました。食糧が安定的に確保されるようにより、弥生時代(BC300-AD300年ころ)の人口は約60万人となり、近畿以西は約30万人で50%を占めるに至りました。森を切り開き、稲作用の田んぼにして、人々は一定の土地に定着していきました。弥生時代の終りには、発掘頭骨の調査により当時の日本人は弥生人が7:縄文人が3の比率になっていたと推計されています。旧モンゴロイドの縄文人は新モンゴロイドの弥生人と混血しつつ弥生人に吸収され、混血をしない旧モンゴロイドの縄文人は、北と南に押しやられていきました。北はアイヌとして、南は熊襲として現在その痕跡が見られます。
故鳥越憲三郎氏は揚子江下流から中国南部にした「倭族」が紀元前10世紀以降に中国沿岸部を北上し、山東半島から朝鮮南部に住み着き、日本に渡ってきたといっておられます。神社の原形も東南アジアにあるとのことです。古日本語は仮にタミール語~タイ等を含む東南アジア語であったとしても、半島からきた人々は古代朝鮮語を話したはずですから、古日本語に古代朝鮮語が交じり合ってきたのではないでしょうか。
[日本人はどこからきたのでしょうか?時代と共に次のようにやってきたと思われます。BC3-1万年頃、東南アジアから古モンゴロイドが大陸づたいに北と南から、また島嶼づたいでも日本にやってきた。縄文時代の人口は約5-25万人と推計されている。BC5-3世紀ごろから新モンゴロイドが半島から九州に稲作文明を持つて渡来してきた。稲作文明は人と共に東へ、中国地方、近畿、東海、関東に移動していった。弥生時代の終りには食糧事情好転で人口は約60万人と急増し比率は弥生人7:縄文人3となっていた。](参考図書文春文庫「エッセイで楽しむ日本の歴史(上)」 鳥越憲三郎「古代朝鮮と倭族」 池田次郎「日本人の起源」佐々木高明「日本史誕生」他)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿