2009年11月1日日曜日
「思い込み古代史」 3.縄文時代の衣食と住
1879年、E.S.モースが大森貝塚を発見した際、出土した土器に世界でも類例の無い縄目模様が入っていたことで、(cord marked pottery)と名づけ、縄文土器と称するようになった。縄文土器が発掘されたBC10,000年からBC300年を縄文時代という。
(衣)植物の繊維で布を織り、衣服を作っていたが、寒い時期は動物の皮を人間の歯でなめして衣服としていた。そのため、歯は道具の一つとなり歯は極端に磨耗していた。
(食)食は、採集でドングリ、トチ・栗の実くるみや、クズ、ワラビ、ヤマイモ等のいも類、狩猟は、鹿、猪などであった。漁労では鮭、鱈、コチ、ハモ、クロダイ等魚類や貝類であった。
<中国大陸東北部、朝鮮半島から列島中央以北のコナラやブナの落葉広葉樹帯をナラ林文化圏>ドングリは深鉢の縄文土器により、列島中央以北は、あく抜きを煮炊きによっていました。
<シイ、カシ等常緑照葉樹帯は東南アジアや中国雲南から長江下流域から列島中央部以西を照葉樹林文化圏> 列島中央以西では、どんぐりは水でさらしていました。なれずしや、鵜飼、納豆、歌垣の照葉樹林文化の芽生えがこのころにあったのでしょうか。(これらは朝鮮半島ではみられませんでした。)(図は佐々木高明「日本史誕生」より)
不思議に思うことは、時代が下た江戸時代の一般庶民のほうが、縄文人より栄養状態が悪かったことです。歯のエナメル質の形成が江戸時代の庶民より、縄文人の方がよく形成されていたというデーターがあります。江戸時代は平均寿命30歳くらいだったようですから、
縄文時代はもう少し長生きでしたでしょうか?福井県の鳥浜縄文人の生活は発掘されたものから図(池田次郎「日本人の起源」より)のようなものであったと想定されています。春夏秋は魚の季節、春は山菜取り、秋は木の実取り、冬に向けて貯蔵し、冬は狩の季節だった。案外、快適であったようです。花粉分析によると、BC4,500年ごろ、温暖化し、この地域ではブナ等の落葉広葉樹からしだいにシイ・カシの照葉樹やスギの花粉が増えてきたとのことでした。照葉樹林帯は焼畑で、二次林が生育し、ひょうたんやリョクトウ、エゴマやシソが栽培されていました。
(住)保存用の縄文式土器が作られて、BC9000~8000年頃から定住をはじめており、縦穴式住居に住み、最初は数戸からしだいに戸数を増やし、20戸くらいでムラをつくっていました。
(祈り)発掘された土偶は破損されていて、女性をイメージされ、粉砕して埋められていました。貝塚も捨てられた貝や骨などは、単にゴミとして捨てられたのではなく、土偶も共に、再生して欲しいという祈りがあったのではないでしょうか。
世界でも珍しい縄目を利用した装飾土器は呪術の対象ともなる土器も作っていました。火炎型土器や踊る精霊を描いたと思える土器が発見されています。縄文人の根底には、精霊に対する祈り、それらが描かれた土器等のものへの執着と再生への祈りの心が芽生えていたと思われます。青森県にあった三内丸山遺跡では共同で集落を営んでいたことがわかっています。
(差別化はじまる)縄文晩期には、歯を抜く風習が見られます。広く中国でもあったようですが、歯の抜き方で地位をあらわしていると学者は指摘しています。共同生活によって支配するものと支配されるものが分化してきます。
縄文人の歯は木の実をすりつぶして食べていたので磨耗が激しかったことが知られています。現在のように前歯の上下が前後に交合せず、向かい合っていました。
やがて、稲作技術をもった渡来人が日本列島にやってきて縄文人と混血しながら西から東へ定着していきます。[約1万年も続いた縄文時代は、土器の開発により定住が可能となり、狩猟・漁労・採集で比較的、豊かで静かな平和な時代であったようです。列島中央以西地域の照葉樹林帯では今につながる、なれずしや納豆、歌垣が中国大陸南部地方からもたらされたと想定されます。以降に稲作文明が登場しますが、支配と被支配の社会に変容していきます。]
(参考図書 佐々木高明「日本史誕生」、池田次郎「日本人の起源」、埴原和郎「日本人の骨とルーツ」土器イラストは関係HPより借用しました。BLOG上からお礼申し上げます。)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿