2010年2月12日金曜日

(思い込み古代史) 富田 弘氏寄稿 [前方後円墳について](上)

 2010.1.20、「反論邪馬台国」の富田 弘氏から「前方後円墳について」を寄稿いただきました。2回に分けて掲載いたします。             2010.2.13 中川 昌弘                               
                                     富田  弘寄稿
1 前方後円墳について
 古墳は全国で10万基以上あるといわれ、形も方墳、円墳、方墳の四隅が突出した四隅
突出墳、前方部が短い帆立貝式墳などさまざまですが、中でも前方後円墳は意味ありげな形に加え、その巨大さから大王墓や各地の首長墓となるものも多くあり、古墳の象徴といってもいいでしょう。この前方後円墳について考えてみます。

2 なぜこの形か
 諸説あるものの現在でもなぜこの形かはわかっていません。そもそも「前方後円」と方形部が前ということも慣例的にいっていることに過ぎません。江戸時代末期の学者が前方後円墳を横から見ると宮車に似ていることから、車(後円部)の引き手(前方部)を前として「前方後円」と名づけたものを今でも継承しているわけですが、これに代わる名称もないのでここでも前方後円墳として扱います。次に主な説とその補足をします。

①墳丘の張り出し部・陸橋の拡大説 
発生期の多くの墳丘墓には墳丘への墓道として張り出し部が敷設されていますが、これが発達して前方部となったというものです。張り出し部で行われていた葬送の儀式の重要さが増してきたことにより、張り出し部が拡大したという説です。同じ意味合いで周溝を伴う墳丘の溝の一部を堀り残して外と墳丘をつなぐ陸橋としたものが発達したという考えもあります。面白さはないですが学説の主流です。

②中国、朝鮮半島の古墳の移入説
だれにも浮かぶ考えですが、現段階ではこれを裏付ける発掘はなくこの説を積極的に主張する学説はありません。朝鮮半島の墳墓は石積塚が特徴でかつ埋葬位置は地下が多いようです。まず地下に埋葬してその上に石を積んでいく手法で、日本のような墳丘を造った後墳頂を浅く掘って埋葬する竪穴式石室とは根本的に異なります。高句麗の墳墓で最大のものは一辺62mの段築式石塚の太王陵古墳です。隣接の一辺30mの将軍塚古
墳とともに、近くに好太王碑が立っていることから、どちらかが広開土王陵と考えられています。高句麗の日本への影響は形態より古墳壁画だと思います。朝鮮半島南部に前方後円墳らしき古墳が見つかっていますがその様式は5~6Cの日本のものであり、埋葬者は朝鮮半島に進出した倭人か倭国に関係した韓人ではないかといわれています。
また、モンゴルにある紀元前後の匈奴の墳墓群に前方後方墳があるらしいですが、もとより日本への影響はわかりません。中国でも前方後円墳は見つかっておらず、始皇帝陵は一辺約500mの巨大な方墳です。したがって、葬送に関する思想は移入したと思いますが、現状では前方後円という形は日本独自のものと考えます。

③壺形説
 上から見ると壺に似ていることから、不老長寿の仙人の住む蓬莱山の形を模したものという説です。古代中国の神仙思想では、東の海に浮かぶ蓬莱山は壺の形をしていると想像されていることから、埋葬者の永遠の生命を願ったというものです。確かに最近の発掘で弥生時代には神仙思想が日本に伝わっていたことがわかっています。しかし当時の人々は古墳を上から見ることはできず、むしろ上からよりも側面から見た形に注目すべ
きでしょう。単純な疑問として、神仙思想の本家である中国では前方後円墳は見つかっていません。また、同じ方形の張り出し部を持つ前方後方墳はどう説明できるのでしようか。

④権力者の合意説
ヤマト(邪馬台国)の王、吉備、出雲の首長の会議により前方後円墳という形が決まったという説です。これは前方部は吉備に見られる墳丘の張り出しや各地の周溝墳の陸橋、出雲に多い四隅突出墳の突出部分を集約して、さらに古墳の要素である鏡などの副葬品、埴輪、石室なども各地の墳墓の特徴を盛り込んで前方後円墳を形造ったという考えです。
政治的に墓形が決まったとは現代的な感覚に過ぎないと思われそうですが、弥生時代には地域性のあった墳丘墓が、普遍的な前方後円墳に変わっていくという実態面からは合理的な説です。

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