倭の五王の一人と目される仁徳天皇から数えて10代目の武烈天皇に子供がいなかった。この王位を継いだのが6世紀の初めの継体天皇である。継体天皇は越(福井地方)の支配者として皇位継承をめざして、近畿地方に進出し、大和をうかがう形で507年、河内の樟葉で即位したと日本書紀にあります。次いで山城の筒城(京都府田辺町)、さらに弟国(長岡市)へと宮を移し、尾張の連草香の娘、目子媛を妃にして2子をもうけている。のちの安閑天皇と宣化天皇である。即位後大和王権につながる手白香皇女をめとり、正当性を得て。欽明天皇を生む。天皇の漢字号は8世紀後半に創られた。名は体を表し、従来の皇統から越の支配者に皇統が移ったことを「継体」といっている。
512年 百済に朝鮮半島南部の任那4縣を割譲します。
513年 百済が五経博士を派遣します。
527年、新羅に侵略された朝鮮半島の南加羅を復興させるため、近江臣毛野を将軍とした6万人の軍勢を朝鮮南部にあったと思われる任那に派遣しょうとした。ところが、新羅が北九州に勢力をはっていた筑紫君磐井に連絡を取り、西下軍を阻止しょうとした。近江臣毛野が筑紫君磐井に共に朝鮮にむかおうと説得すると「昔は、君は同輩として大王に仕えた。それが、私に命令し朝鮮に軍をすすめよというのか。お断りする」といったのだろう、戦となった。結果は筑紫君磐井が敗北した。継体天皇は九州の不穏な動きを封じて531年薨去された。
継体稜といわれている、今城塚古墳(高槻市)に行ったことがあります。今では公園のようになっていて、近くに埴輪工場もあり、大きな領域をしめる古墳でした。継体天皇は、古代史において、天皇の系譜が替わる節目の天皇と位置づけされると思います。
継体天皇と大和王権につながる手白香皇女の間に生まれた欽明天皇の時代の552年 百済の聖明王が仏像を伝えました。百済が新羅とのせめぎあいの中で倭に近寄る一つのシンボルだったのでしょう。仏教はしばらく後に、国の統治に役立たせようとする動きとなっていきます。
新たなパワー仏教を保護しょうとする渡来系の蘇我氏と仏教を排斥しょうとする物部氏が主導権を握ろうとして、新たな抗争が起こっていきます。
次回は、古墳時代の総括として、富田 弘氏より「古墳について」の資料を拝受していますので2回ほどにわけて掲載予定です。(参考図書 「古代王権の展開」吉村 武彦 「日本の歴史(上)」文芸春秋)
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