富田 弘氏寄稿
3 まとめ
<形について>
前方後円墳の原型は1Cから2Cの墳丘に張り出し・陸橋を伴った墳丘墓と思います。そして3C前半に最古級の前方後円墳と見なされる勝山古墳、巻向石塚古墳、ホケノ山古墳がヤマト三輪山山麓に現れます。いづれも全長100m級で前方部での儀式の痕跡、竪穴式石室や鏡の副葬などが見られます。続いて3C後半には全長280mと最古級古墳の倍以上ある箸墓古墳が出現し、続いて全長200m以上の巨大前方後円墳が巻向を中心とした桜井市、天理市にまたがり相次いで造営されます。そして、4Cからの各地の首長墓古墳はヤマトや河内の王墓を一定の比率で縮小し、石室、副葬品、埴輪も同形式の地域最大の前方後円墳です。その一方で、円墳などその他の既存古墳も並行して造営され続けています。これらは時代の推移による自然な変遷とは到底考えられず、古墳の造営に一定の約束事が出来上がったと考えることが妥当です。特に埋葬者の単なる追悼ではなく権威の継続を重視し、前方後円墳を王墓、首長墓として特定し、そのランクに応じた大きさ、副葬品、石室の形態、葺石、埴輪などのルールができたと考えます。その時期は最初の巨大古墳である箸墓古墳造営前の3C前半から中期と思います。これは邪馬台国(ヤマト)と、張り出しや埴輪の原型を持つ吉備との邪馬台国連合の意志が強く働いていると考えます。以上から私は④説を支持します。
<邪馬台国から初期ヤマト政権・河内政権へ>
前方後円墳造営の約束事ができる3C前半から中期は邪馬台国は狗奴国との戦いの時で非常に不安定な状態だったと考えます。魏志倭人伝ではこの戦いの結果は記載していませんが、邪馬台国有利の内に和解したと推定します。根拠は狗奴国想定地の濃尾平野では前方後方墳はその後も継続しますが、この前方後方墳は発展することなく徐々に前方後円墳が主流となります。濃尾平野で最大の古墳はやはり前方後円墳です。三角縁神獣鏡の分与も同様です。卑弥呼や台与はこの不安定な状態を乗り切るため、邪馬台国の権力を支えている鬼道のシンボルであろう三角縁神獣鏡などの鏡を各地の首長へ分与し、共通の祭祀の証しとすること、さらに邪馬台国勢力圏の秩序を図るため、前方後円墳を王墓、首長墓と決め、大きさ、石室様式、副葬品などのルールも作ったと考えます。これには盟友の吉備勢力の協力があったと思います。卑弥呼の晩年の時代に始まり後をついだ台与の代にルールが各地に浸透したと考えます。その象徴が箸墓古墳だと考えます。
そして邪馬台国の呪術的な権威から、更に強い政治権力をもった初期ヤマト政権が三輪山山麓に誕生することになります。卑弥呼、台与、それに続く数代の王の墓が箸墓古墳に始まる巻向を中心とする桜井市、天理市に見られる全長200mを超える前方後円墳と思います。
そして、5C以降ヤマト政権は、朝鮮半島との交易を通して勢力が増大した河内を本拠とした河内政権に移っていきます。河内地域の前方後円墳は400mを超える巨大古墳となります。河内の百舌鳥や古市の巨大古墳群は、大阪湾や当時の幹線だった古道から偉容を見ることができます。葬送や儀式だけではなく、権威の象徴として「見られる古墳」へと移っていったと考えます。大林組の試算によると、全長486mの大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の造営には、古代工法をとる場合、2000人/日の作業者で16年要するとなっています。その巨大さが読み取れます。
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