2009年2月23日月曜日

映画「三国志」を観ました。

 先日、中国映画ダニエル・リー監督の「三国志」を観ました。

 常勝将軍と呼ばれた、3国(魏蜀呉)蜀の趙雲の物語です。

 AD201年の「赤壁の戦い」以降、20年経過し、軍師諸葛孔明は、魏に徐々に侵食されている状況から蜀として魏に攻め入るしかないと判断して、5将軍のうち最後まで生き残っていた趙雲を大将にして、戦いをいどみます。この頃には、蜀王劉備、猛将、関羽、張飛はなくなっており、後継者の時代となっていた。

 この映画で感じたことは、3つあります。1つは、中国の人たちが、特別な友人に特別の情をもっていることです。故郷を共にでてきた、常勝将軍と畏敬された趙雲(趙子龍)とうだつのあがらぬ平安の嫉妬をものみこむ生死を越えた友情の強さです。
2つ目は魏王曹操から趙子龍が奪った剣に彫られていた、"孟徳"という言葉です。孟子の徳が剣にまでほられて、孟子の徳を標榜していることです。3国時代の儒家思想をかいまみました。
3つ目は、趙子龍がなくなるとき「わが人生は円であった」というせりふです。人生を一回りしてきて元に戻ったということなのでしょう。私は老荘思想が現れていると思いました。

 レッドクリフ(赤壁)前編も観ましたが、これはこれでよかったとして、「三国志」という物語はどこを切り取っても魅せるものを持っています。その根幹は中国の人たちがもつ人と人との友情の強さ美しさのような気がします。(WELL BE)

2009年2月14日土曜日

中国名言集 ⑪断髪文身⑫臥薪嘗胆


 BC5Cのころ長江下流でいがみあいをはじめた呉越の両国は原住民の層においては同種であった。

 「越王勾践(こうせん)禹の子孫で会稽に封ぜられ禹の祀りをし、文身(いれずみ)断髪 (髪はざんぎり)し、雑草をひらきて邑をつくる」(史記)越人は水の神、禹をまつる水の民であった。

 時代は下るが、3Cの「魏志倭人伝」に倭人のことを「男子は大小となく、みな鯨面(顔に入れ墨)・文身(体に入れ墨)す、倭の地は温暖にして冬も夏も生菜をくらう。・・・」人種的に関連があるのだろうか?

 BC496年呉王・闔閭(こうりょ)は大軍を率いて太湖のほとりを南下し今日の嘉興に進出した。越は決死隊をつのって、呉軍の前に3列となり、呉人の漢語がわかるものがきいてもわからない、えたいのしれない叫び声を挙げて次々と自殺する。その内に越の勇者の放った毒矢が呉王・闔閭(こうりょ)の中指を吹き飛ばした。呉王は都のある蘇州に引き返したが、毒が回って、死の苦しみにあった。太子の夫差(ふさ)に
「越王勾践(こうせん)が汝の父を殺したことをわすれるか」太子の夫差(ふさ)は
「忘れません。誓って仇をとります。」

 やがて呉王・闔閭(こうりょ)は死んだ。呉の太子の夫差(ふさ)は薪の中に寝て復讐心を燃やし、3年の後、会稽山に越王勾践(こうせん)を打ち破った。

 敗れた越王勾践(こうせん)は呉王夫差(ふさ)に妻妾を差し出し呉王につかえまつるといって、許しをこうた。呉王夫差(ふさ)は越王勾践(こうせん)を許した。

 越王勾践(こうせん)はこの敗北を忘れず復讐を誓って、鹿のにがい胆を毎日なめて、敗戦の苦しみを思い出してやがて21年後、BC473年、呉を滅ぼした。

 このことをもって「臥薪嘗胆」という故事が残ったということです。以上は藤堂明保著「中国名言集」(上)を主に転載し、一部三省堂「ことわざ慣用句辞典」を引用しました。(WELL BE)

2009年2月11日水曜日

中国名言集 ⑩鼎(かなえ)の軽重を問う

 BC6Cのころ南方の楚が力をつけてきた。楚とは疎林(まばらな照葉樹林)という意味で、その林にわけいって木の実をとりヤマイモを掘り焼き畑耕作をいとなんでいた人たちであった。

BC4世紀の頃、楚の荘王が洛水のほとりまで勢力を伸ばし周の都の郊外に迫った。そこで盛大な観兵式をおこなって、周に圧力をかけた。周の王室は、王孫満という人を使者に立て、荘王をもてなした。荘王は「夏」から「殷」「周」と伝わっている宝鼎を見てみたいと王孫満に次のように行った。
「鼎の軽重はいかほど?」すると王孫満は次のように答えた。
「夏の昔、鼎を鋳て百物を象る。のち鼎は殷に移り、600年をへたり、殷の紂王、暴虐にして、鼎は周に移る。徳の立派なる時は、国小なるといえども鼎は必ず重く、国乱れる時は、鼎は軽し。周の成王、鼎を洛北に定めてより30世700年、これ天の命ずるところなり。周の徳、衰えたりといえども、鼎の軽重は尚、問うべからざるなり。」

 その答えを聞いて、荘王は軍を引き返したという。南方の人たちは、金と石の文化で鍛えられた北人の強引さが欠けている。植物文化の「押しの弱さ」がやがて楚を滅亡へ向かわせる。以上は藤堂明保著「中国名言集」(上)より転載しました。南の植物文化がひっかかります。(WELL BE)

2009年2月8日日曜日

チェコ映画「英国王給仕人に乾杯」を観ました。

 チェコのイジー・メルツェル監督の映画「英国王給仕人に乾杯」を観ました。

 ある給仕人の若い頃から、年老いるまでのおりおりの就職したホテルの様々な客の動向を見せながら、第二次世界大戦でドイツに占領され、戦後の労働党の支配まで飽きさせず描いていきます。
 ある給仕人は年老いて引退した状態と、若いときから壮年までを2人の俳優が演じる。
タイトルの英国王給仕人とは、気骨のある人で、主人公の上司にあたる。ナチスに支配されても、その気骨は揺るがず、ドイツ語には聞こえぬフリをする。イジー監督は、主役ではない英国王給仕人を誇りとしているのがわかる。主役の給仕人は時流に右顧左眄する。多くの人々の代表として。

 チェコは1993年チェコスロバキアから分離された。これらのボヘミア地方には複数の人種が住んでいる。戦争前、チェコスロバキアにはドイツ人も住んでいた。映画を観て始めて知った。

 映画を観ていて、ラストらしいシーンでは「オワって欲しくない!」と思った始めての映画でした。

 イジー・メルツェン監督のことは、公開講座フェスタ2008で「映画における人生の時間~その縮小と拡大~」として羽衣国際大学安東教授から「老優の一瞬」(人生は10分以上は長くない、老優の若い頃と現在を対比して10分で描かれていた。)の紹介を受けて非凡な才能に感心していました。妻の主張する映画は監督で見るべしということも満更誤っていなかった。(WELL BE)