2009年2月14日土曜日
中国名言集 ⑪断髪文身⑫臥薪嘗胆
BC5Cのころ長江下流でいがみあいをはじめた呉越の両国は原住民の層においては同種であった。
「越王勾践(こうせん)禹の子孫で会稽に封ぜられ禹の祀りをし、文身(いれずみ)断髪 (髪はざんぎり)し、雑草をひらきて邑をつくる」(史記)越人は水の神、禹をまつる水の民であった。
時代は下るが、3Cの「魏志倭人伝」に倭人のことを「男子は大小となく、みな鯨面(顔に入れ墨)・文身(体に入れ墨)す、倭の地は温暖にして冬も夏も生菜をくらう。・・・」人種的に関連があるのだろうか?
BC496年呉王・闔閭(こうりょ)は大軍を率いて太湖のほとりを南下し今日の嘉興に進出した。越は決死隊をつのって、呉軍の前に3列となり、呉人の漢語がわかるものがきいてもわからない、えたいのしれない叫び声を挙げて次々と自殺する。その内に越の勇者の放った毒矢が呉王・闔閭(こうりょ)の中指を吹き飛ばした。呉王は都のある蘇州に引き返したが、毒が回って、死の苦しみにあった。太子の夫差(ふさ)に
「越王勾践(こうせん)が汝の父を殺したことをわすれるか」太子の夫差(ふさ)は
「忘れません。誓って仇をとります。」
やがて呉王・闔閭(こうりょ)は死んだ。呉の太子の夫差(ふさ)は薪の中に寝て復讐心を燃やし、3年の後、会稽山に越王勾践(こうせん)を打ち破った。
敗れた越王勾践(こうせん)は呉王夫差(ふさ)に妻妾を差し出し呉王につかえまつるといって、許しをこうた。呉王夫差(ふさ)は越王勾践(こうせん)を許した。
越王勾践(こうせん)はこの敗北を忘れず復讐を誓って、鹿のにがい胆を毎日なめて、敗戦の苦しみを思い出してやがて21年後、BC473年、呉を滅ぼした。
このことをもって「臥薪嘗胆」という故事が残ったということです。以上は藤堂明保著「中国名言集」(上)を主に転載し、一部三省堂「ことわざ慣用句辞典」を引用しました。(WELL BE)
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