BC6Cのころ南方の楚が力をつけてきた。楚とは疎林(まばらな照葉樹林)という意味で、その林にわけいって木の実をとりヤマイモを掘り焼き畑耕作をいとなんでいた人たちであった。
BC4世紀の頃、楚の荘王が洛水のほとりまで勢力を伸ばし周の都の郊外に迫った。そこで盛大な観兵式をおこなって、周に圧力をかけた。周の王室は、王孫満という人を使者に立て、荘王をもてなした。荘王は「夏」から「殷」「周」と伝わっている宝鼎を見てみたいと王孫満に次のように行った。
「鼎の軽重はいかほど?」すると王孫満は次のように答えた。
「夏の昔、鼎を鋳て百物を象る。のち鼎は殷に移り、600年をへたり、殷の紂王、暴虐にして、鼎は周に移る。徳の立派なる時は、国小なるといえども鼎は必ず重く、国乱れる時は、鼎は軽し。周の成王、鼎を洛北に定めてより30世700年、これ天の命ずるところなり。周の徳、衰えたりといえども、鼎の軽重は尚、問うべからざるなり。」
その答えを聞いて、荘王は軍を引き返したという。南方の人たちは、金と石の文化で鍛えられた北人の強引さが欠けている。植物文化の「押しの弱さ」がやがて楚を滅亡へ向かわせる。以上は藤堂明保著「中国名言集」(上)より転載しました。南の植物文化がひっかかります。(WELL BE)
0 件のコメント:
コメントを投稿