2009年6月19日金曜日

「幻の加耶と古代日本」文春文庫ビジュアル版を読んで


 江上波夫氏(1906-2002)他、分担して朝鮮半島南の加耶と古代日本のかかわりをまとめた本で吹田図書館で借りてよみました。その内の、江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝」説をご紹介しょう。

 「日本の大和朝廷をつくった天皇族は中国の東北地方(旧満州)北部の騎馬民族扶余が南下したものだという。戦後、発表された。南下した騎馬民族の一族は高句麗をつくり、もう一族は朝鮮半島の南部に辰王国を建てた。辰王国は百済に残り、他の一部は加耶を本拠として、対馬、壱岐、筑紫にわたり、5Cの初め、応仁天皇の頃に大阪平野から、大和の豪族と合体して大和朝廷をつくったというのが、「騎馬民族征服王朝」説の概要です。

 牧畜騎馬民族は歴史的記念物を作らず、パオでは異人でも歓迎する。横に広がっていく。

 農耕民族は、城壁をめぐらし、伝統的な固定した悠久の文明を築く。家に門を持ち異人は門前払いをする。縦に深める。

 日本は熟成しない農耕民族の上に立った騎馬民族が建てた国だろうか。農耕民族の集団主義の上に騎馬民族の武が立った国なのかもしれない。(WELL BE)

定訳「菊と刀」ルース・ベネディクト長谷川松治訳 を読んで

 ルース・ベネディクト(1887-1948)は第2次世界大戦の折、米軍の委嘱を受けて、日本及び日本人のことを研究した。その研究成果が「菊と刀」として戦後出版された。日本人の捕虜や日系人の取材を重ねて、日本の歴史を勉強してとりまとめたもの。本題は「菊」に代表する文化の伝統と「刀」に代表する武・鍛錬が表裏のように織り成しているのが日本人だとしている。戦後の日本人の特質を以下に5つご紹介しょう。

① 日本人は天皇の命(めい)をうけ、戦争をやめることができた。しかも、とりたてて何の混乱もなく。戦争に負けたのを、誰も天皇のせいにしなかった。
② 鬼畜米英と叫んでいたのに、コロッと態度を変え、アメリカ軍に好意的であった。このことをアメリカ人は予期できなかった。
③ 「各々ソノ所ヲ得」と階級を是認し、世界に適用しょうとして戦争をはじめたが、失敗した。(世界の国々を序列して、その場所を得さしめると、日本の理屈を強要)
④ 恩の貸し借りで常に緊張している。(ちいさな貸し借りを覚えイーブンとしょうとする。)
⑤ 日本人の幼児期は、天真爛漫に過ごし、年を取るに従い、自己を抑圧(しんぼう)する。(西欧人は逆で、幼児期はしつけられ、年を取ると自由。)時として、二重性(従順にして傲岸)となる。

 日本人としてドッキリする指摘をされている。戦後65年経ったが、コロッと考え方
変える点、ビジネスで革新を叫び、過去の常識は、現在の非常識として変えようとするエネルギーが今も存在する。ニートのように生き方を知らない若者が、ある日、突然にめざめ、変身することがある。日々、恩の貸し借りで計算し疲れ、無礼講として大騒ぎする。我々日本人には根本的な宗教的な精神の支えがなく、それはアニメに解を求めにいったり、村上春樹の小説に向かったりする。つまり「道標」を探しているのだ。われわれ日本人は、現在のところ経済のグローバリズムをむかい、個人さえよければ他人はどうなってもよいとなっているようである。

 日本人とは何かを知るのによい今や古典的書籍である。(WELL BE)

2009年6月14日日曜日

高島俊男著「漢字と日本人」を読みました=日本人は漢字の輸入により精神的発達をとめられた=

 興味深い内容のある本でした。いくつかの高島さんの主張のポイントをご紹介しましょう。

1 民族の発展段階があり、「先に開けた」からといって「優れている」わけでない。
⇒中国は文明が先に開けたからといって、日本は後からだといって民族としての優劣は「早い」「遅い」にない。

2 日本に「孝」とか「信」とか「仁」とかの思想が人々によって作られていない時期に紀元後500年ころ漢字として入ってきた。
⇒そのため、「孝」とか「信」とか「仁」という概念がつくりこまれなく、借り物の概念としてはいり、人々の間で熟成されることがとまってしまった。

3 江戸時代に考えられた熟語は音と漢字がリンク。聞いてそのままわかる言葉が多く、中国人には意味がわからない。
⇒野暮、世話、心中、無茶、家老、家来、勘当、所帯。立腹、粗末・・・
(江戸時代につくった熟語は漢字が意味を表さない。心中とは心の中ではないし、野暮とは野が暮れるわけでもない。)

4 明治時代に英語を翻訳した熟語は、字義によっ漢字をつくった。そのため字義を瞬時に前後の脈絡から判断して漢字を思い浮かべてしゃべっている。中国がその多くを輸入することとなった。
⇒政治、法律、裁判、産業、建築、交通、機関、通信、金融、輸送、陸上、審判・・・
“シンバン”と聞いて審判と解釈するか新盤と解釈するかは、前後の話による。野球のシンバンといえば“審判”と解釈し、レコードのシンバンといえば新盤と解釈する。“シンバン”という言葉からは2種の熟語からどの漢字の言葉かを判断して、話をしている。 

5 明治時代以降、西欧が優れ、東洋が劣るとして過去を払拭しょうとした一環で漢字を排する考え方があった。その流れで戦後、1850字の当用漢字を使い、いずれ かな またはローマ字に移行しょうとした。
⇒国語審議会は当初の思想を忘れてしまい、今では かな ローマ字に移行する考えはなくなっている。言語は民族の考え方がつまっていて、表記する かな も同様である。敗戦で過去を抹殺しょうとしたが、幸いそうはならなかった。

 どうやら日本人には、つらいことが起こった後、過去を簡単に捨てようとする傾向がある。明治維新で西洋に遅れを感じたとき、「脱亜入欧」アメリカに敗れた時、国粋主義から180度転換し「アメリカ崇拝」へ。
どうやら根本のこれだけは動かない、というものが民族発展段階で止まっている可能性がある。

 ともかくも、幾多の示唆に富んだ本です。(WELL BE)

 

2009年6月2日火曜日

吉川幸次郎著「漢文の話」=漢文は近代まで95%、白話(口語)文は5%、現在はその逆(中国でのおはなし)=

 自家の書庫から、ちくま文庫の吉川幸次郎(1904-1980 京大教授)著「漢文の話」を取り出して毎日少しづつ読み進め、ようやく読了しました。中国では、漢文は近代まで95%、白話(口語)文は5%、現在はその逆の口語文95%、漢文5%とのことです。

 漢文とは何かを原文を中国の歴史から「史記」「資治通鑑」等サンプリングし解説し、伊藤仁斎等の日本人の漢文までを論評している。その中より司馬遷「史記」(人物ごとの編集で、年代別ではない)の「呂后本紀」から恐ろしい話を要約して記してみましょう。

 紀元前202年、漢の高祖(劉邦)が天下をとり、安泰となると戚姫を妾とした。本妻の呂后には孝恵皇太子がいた。高祖は戚姫の間に如意がさずかったが、戚姫は孝恵皇太子を排し、如意を替わりに皇太子とするよう、ひつこく高祖に迫っていた。とりあえす、趙王としたが、高祖は崩御してしまった。皇帝に孝恵皇太子がついたが、呂太后はここぞとばかり、戚姫と趙王に仕返しをしていく。詳細は省きますが、すさまじい権力者の業によって、呂太后は戚姫と趙王を滅ぼし、この一部始終を知った息子の孝恵帝も政務をみず、自暴自棄となり、病を得たということでした。

 中国の歴史家は時の王朝から命じられ、前王朝の時代をそれぞれ書き残し、24紀の漢文で書かれた歴史書をつくっています。。今後、先に滅んだ清が書かれると第25紀となります。清の歴史書は口語体となるのでしょうか。司馬遼太郎さんのペンネイムが司馬遷にはるかに及ばないとのことでつくられた由です。司馬遼太郎さんもなくなられてからも、日本人の心に生きていますが、司馬遷も中国人のこころの中に2000年も生き続けているのでしょうが、中国文明とは、およそ3500年前の漢字の発明一つとって見ても、すごいものだと思います。日本は漢字の恩恵を受けておよそ1500年です。感謝したいですね。公害防止技術等日本の先進技術部門で少しはお返しせねばならないのではないでしょうか。(WELL BE)