2009年12月26日土曜日

(思い込み古代史) [反論]邪馬台国について(その2) 富田 弘氏

 30年以上の邪馬台国追跡の後が裏打ちされる富田 弘氏の次の論文(2)をご覧ください。にわか古代史思い込み人の短絡思考には到底及ばぬ深さがあります。(中川 昌弘)

2 考古学から
  考古学のシンポジュームで九州の専門家が「九州の考古学者で、邪馬台国が九州にあったと考えるものは一人もいません」と発言したらしいです。これはオーバーでも考古学からは畿内説が断然有利です。

■巻向遺跡
ヤマト三輪山山麓の100haから200haの広大な遺跡です。40年前から本格的に発掘調査が始まっていますが発掘面積はまだ1%程度です。今までの調査で注目すべき点は
①土器の範囲が、関東から北陸、東海、山陰、瀬戸内西部まで広がっており、外部からの搬入率は20%を超えていること
②計画的な都市設計として幅5mの二条の大溝が発掘されたこと
③初源期の高塚古墳が出現したこと
               
 更に今年の3月、11月に3C最大の建物跡が発掘されました。南北19mあり飛鳥時代の建物に匹敵するとのこと。高床式の建物跡と見られ卑弥呼の宮殿の可能性があります。巻向遺跡は当初4Cの遺跡と見られたが、土器から3C初頭から中期とみなされたことが最も重要なことと思います。近年箸墓古墳も3C中/後半の造営と時代がさかのぼったことも畿内説にとっては有利です。

■三角縁神獣鏡
これほど話題になるが結論が出ないものは少ないと思います。魏鏡であっても国内鏡であっても、畿内から各地の有力者に分与されていることは事実です。国内鏡説の学者も畿内から分与されていることから畿内説です。この中で、①戦国から西晋時代(BC3C~4C)の中国鏡69枚と、三角縁神獣鏡8枚、古墳時代(3C~5C)の日本製鏡18枚を科学的に分析した結果、製造年代の古い三角縁神獣鏡6枚が中国西晋時代(3C~4C)の魏や呉の年号をもつ中国鏡と、青銅に含まれる銀とアンチモンの量が近い数字となった。残る三角縁神獣鏡2枚は古墳時代の日本鏡と近い数字となった。また、②静岡県出土の三角縁神獣鏡の銘が中国河北省出土の中国鏡の銘とまったく同一であったことがわかりました。銘は14文字、これに含まれる「甚「独」「奇」という字は魏鏡の特徴ということ。③黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡で、らくだを描いた鏡があったはずです。鏡の分析は精緻に進んでおり、中にはどうみても国内ではできそうにない優れたものもあるようで、①の三角縁神獣鏡に中国鏡と国内鏡があったらしいという分析は興味があります。私は古い時代の三角縁神獣鏡は魏からの倭国への特注品と考えていいと思います。

■北九州の遺跡
奴国が漢に朝貢するなど北九州が国勢・文化の中心であったことは事実です。中国鏡の量、鉄器・青銅器の総量、重厚な甕棺墓の副葬品などがそれを証明します。問題はこれらの遺跡が2C末を境にきえていくことです。吉野ヶ里遺跡も3Cには集落の内溝に後漢の鏡が放棄され、弥生時代末期にはムラは廃絶されてその位置に畿内型古墳(前方後円墳)が造営されたことがわかっています。(続く)

2009年12月18日金曜日

(思い込み古代史) [反論] 「邪馬台国について」(その1)  富田 弘氏  

 09.12.17 連載中の「思い込み古代史」の「邪馬台国」「ハツクラシラススメラミコト」に対し、畏友 富田 弘氏より(反論)を拝受しました。今回より3回にわけて、ご紹介します。筆者がサラリーマン時代、富田 弘氏と知り合った30年前、既に邪馬台国ヤマト説を主張され、当時、上役にあたる九州論者と丁々発止の論戦をされていました。それから30年の月日が経ち、静かに富田氏の「邪馬台国論」に読者諸氏と共に耳を傾けてみたいと思います。長文ですが、よろしくお願いします。(いにしえのことに勝手に思い込む人 中川 昌弘)

 邪馬台国論争は端的にいえば“どこにあったのか”ですから、畿内説の立場で考えを述べます。ただし、今後も新しい状況証拠を積み重ねることで蓋然性は高まるとしても、超一級の史料たとえば中国本土、あるいは帯方郡治があったという平穣南方あたりから邪馬台国に行く地図などが見つからない限り、確定はできないと思います。ということは半永久的に論争が続くことになりますが、歴史のロマンとしてそれはそれでおもしろいと思います。

1 魏志倭人伝から
■方位・里程
 帯方郡を出てから邪馬台国までの道筋について、まず倭人伝は郡から途中の経過する諸国間の方角・距離を示し最後に郡から邪馬台国までの総距離を記しています。不弥国までは距離を示すのに里を用い、それより遠方の投馬国・邪馬台国は里ではなく水行・陸行に要する日数を記載しています。この違いはなぜでしようか。陳寿の依った情報の違いによると考えられます。倭人伝は伊都国を郡使常に駐(とど)まる所としています。従って通常郡使は伊都国から先へは行っていません。伊都国近隣の奴国・不弥国は役目がら郡使が自ら調べるなどして距離を把握できたとしても、投馬国・邪馬台国はあまりに遠大であるため、倭人の話・伝聞などで行き方(水行・陸行)、方向と日数を掴んだと考えられます。もしくは、親魏倭王に任命する詔書を持参した郡の高官や、狗奴国との争い時に激励の詔書や幡を渡した高官は重要さから邪馬台国まで出向いているので、この時の報告が記事の元になっているかもしれません。倭人の話や伝聞、数回程度の郡高官の体験では里で距離を把握することは無理で、不弥国以遠の道程は大枠の記載になったと考えます。

 それではなぜ郡から邪馬台国までを万2千余里としたのでしょうか。すでに松本清張が看破していますが、これは「遠く長大な距離という観念的な数字」に過ぎないということです。具体的には漢書「西域伝」で西域諸国の王城までの距離について、「ケイヒン国(カシミール)」長安を去る万2千2百里「ウヨクサンリ国(ペルシャの東)」長安を去る万2千2百里、「コウキョ国(キリギス)」長安を去る万2千3百里、「ダイエン国(タシケント)」長安を去る万2千五百五十里などとなっています。漢書は三国志より前ですから陳寿は当然参考にしており、邪馬台国は遠く離れた国として実距離ではなく慣例的に万2千余里としたに過ぎません。

 連続式で読んだ場合不弥国から邪馬台国までは1300里ですが、水行30日さらに(または)陸行1月かかるとなります。放射式で読むと伊都国から1500里ですが、水行10日さらに(または)陸行1月要するとなります。記事の里数から実距離を推定すると1300里から1500里は130kmから150kmくらい。これを連続式では水行30日さらに(または)陸行1月、放射式では水行10日さらに(または)陸行1月かかるとなりますが、これでは日数がかかり過ぎです。万2千余里が観念的な距離であることを証明しています。

 さらにいえば、魏時代の1里は約430mです。これを基準にするととんでもなく遠くになりますが、国と国との比率はおおむね妥当です。比率が妥当ということは郡使の報告は正しいが、里数について陳寿による誇張があったと考えざるを得ません。(前述の検討は実距離に合わせて1里=100mとしました)

 このように誇張の混じる里数が混在する中で、観念的な万2千余里にこだわっても意味はないと思います。
なお、放射式読み方には致命的な弱点があります。まず、放射式で水行すれば陸行すればと読んだ場合、投馬国は邪馬台国より南となり、投馬国は邪馬台国の北にあるという倭人伝の記事と矛盾してしまいます。さらに、放射式とは目的地までを方向→国→距離の順で記すことですが、道程の最初の記載である狗邪韓国までは放射式の記載です。次の対馬国から伊都国までが連続式、次の奴国から邪馬台国までは放射式となります。目的地の邪馬台国までの道程を放射式→連続式→放射式の意味付までして使い分けるものでしょうか。「梁書」(7C代)や「太平御覧」(唐代)などの中国の史書は三国志を引用した箇所は道程を連続式に読んでいるとのことです。漢文の本家の中国でそうですから、連続式に読むことが自然で妥当です。

 それでは万2千余里にこだわらず連続式に読むとどうなるか。九州説も畿内説も対馬国、一支国、末慮国、伊都国、奴国の推定地は一致しています。末慮国推定の唐津、伊都国推定の前原、奴国推定の福岡の博多湾一帯は、それぞれ次の国に向かう実際の方向は東北です。ところが倭人伝記載はすべて東南です。九州説も倭人伝の記載に忠実ではありません。さて、倭人伝は奴国から東100里で不弥国ですが、有力な候補地は南方の宇美です。ただし投馬国に行くべき水行できる川があったのでしょうか。筑後川はかなり南を流れています。私は水行の記事から不弥国を奴国北東の博多湾沿岸津屋崎と見ます。ここから玄界灘を東行、周坊灘を南下、瀬戸内海を東行し、投馬国(吉備玉ノ浦あたり)を通り邪馬台国(ヤマト三輪山山麓)へたどりつくと考えます。倭人伝のとおりに宇美から南水行30日では、どの地をとっても九州を通り越してしまいます。九州説どころか倭人伝の道程を否定してしまいます。このため、畿内説は宇美からの倭人伝の方向を南から東に読み替えますが、九州説は水行や日数を倭人伝に合わすため、末慮国まで戻り五島列島を経由、島原湾、有明海をとおり筑後川河口の邪馬台国(九州説の有力候補地)にたどり着くという不可解な説明になります。あるいは水行の日数を短縮するなどの修正をすることになります。
 
 このジレンマの原因は倭人伝が里数に加え方位も正しくないことによります。倭人伝の前文で「倭人は帯方の東南大海の中にあり」となっています。古地図でも日本列島は南にぶらさがった形になっています。倭国は帯方郡から東南の範囲に収まらなければならないため、諸国への方位は南・東南・東のどれかで、遠方の投馬国・邪馬台国への方位はともに南です。陳寿は方位・里程記事は帯方郡の役人の報告などをベースにして、東南に長く続く国すなわち“その道里を計るとまさに会稽東冶の東にある“に修正したのだと思います。したがって倭人伝の方位・里程記事はそのまま信じることはできず、畿内説・九州説にとって有利・不利はなく、道程に合理的な補修をして、考古学などのからの候補地とスムーズに結びつくか判断することになります。

■倭国大乱
 倭人伝は2C後半に倭国大いに乱れると記しています。これは朝鮮半島からの先進物や鉄資源の交易ルートの支配権を争う北部九州諸国と畿内・吉備連合との戦いであったと考えます。畿内・吉備は平坦地で土壌が肥え開墾も盛んで人口増が続いていたと思います。人口増に対応するため生産性を高める必要があり、先進物や鉄製品を渇望していたはずです。特に鉄は当時は朝鮮半島南部でしかとれず、貴重な鉄も含めた交易権は北九州の諸国が握っていたと思います。吉備地域では2C後半には楯築形の墳丘墓などが造られ始め、墳墓を祀るときの地域共通の特殊壺や特殊器台が見つかっています。これは地域としての政治連合ができていたと考えられます。畿内でも弥生時代の唐古・鍵遺跡(奈良)や池上曽根遺跡(和泉)など大規模な環濠遺跡があり、有
力な国があったと思います。この畿内と吉備が共通利益のため、連合して北九州の諸国と戦ったと考えます。この畿内・吉備連合は後々までも続くことになります。同じ時期山陰でも四隅突出型墳丘墓が数多く発掘されており、山陰と吉備の関係から山陰勢力も吉備側に加担したとも考えられます。

 この争いは畿内・吉備連合が勝利し、北九州諸国を含めた盟主たる邪馬台国に従う倭国政治連合が出来上がったと考えます。畿内・吉備連合が勝利した理由は明らかに生産力の差です。連合の中心と思われる邪馬台国7万戸、投馬国5万戸という力です。

 2C末には九州の環濠は、吉野ヶ里を含めすべて埋められていること、王の墓と思われる甕棺墓の重厚な副葬もなくなります。一方櫛目文式や庄内式という畿内様式の土器がこの頃から九州・中国・四国へ広がっており、広域の政治連合が出来上がった裏づけになります。この争いの北九州諸国の中心は伊都国と奴国と思いますが、伊都国は世世女王国に従うとなっていることから、争いの途中で邪馬台国側についたかもしれない。そして国には邪馬台国からの一大卒、大倭をおき、これらの派遣者とともに諸国(特に北九州諸国)を邪馬台国の代行として支配していたと考えます。なお、伊都国は戸数1000戸となっていますが、役割からはあまりに少なく陳寿が参考にしたといわれる「魏略」記載のとおり1万戸ではないかと思います。

 また、今年1月淡路市垣内(かいと)遺跡から1Cから3Cの鉄器工房跡10棟が発見されました。国内最大級で畿内・瀬戸内へ製品を供給したと思われます。6Cまで鉄器生産遺跡は見つかっておらず貴重な発見です。淡路島ということが瀬戸内の交易ルートを裏付けるとともに、畿内・吉備の政治連合のバランス感覚がみてとれます。

■狗奴国
 九州説・畿内説どちらにしても狗奴国を特定しなければなりません。九州説は楽ですが畿内説にとっては難問です。倭人伝で王が存在するのは邪馬台国、伊都国、狗奴国三国のみです。戸数7万戸の邪馬台国と長年争っているわけですからかなりの強国のはずです。この観点から狗奴国は濃尾平野にあったと考え、遺跡の発掘状況からその中心は岐阜市・一宮市あたりと見ます。濃尾平野は木曽三川の恩恵から土壌も肥沃で生産性も高かったと思います。この地域は2Cには畿内様式とは異なった銅鐸を製作していたこと、3C前半には前方後円ではなく前方後方墳丘墓を盛んに造るなど独自の文化をもっています。その文化は近江東部、伊勢地方まで広がっていたはずで、倭人伝にいう邪馬台国の南としておかしくないと考えます。畿内説論者の中にも狗奴国を官の名前の狗古智卑狗(きくちひこ)から熊本県菊池郡にあてる人がいます。この場合は伊都国が邪馬台国の代行として狗奴国と戦ったことになりますが、それならば帯方郡の高官はなぜ邪馬台国まで出向いたのかなどしっくりしません。狗奴国は濃尾平野にあったと考えたほうが合理的。案外狗奴国の位置を特定することが邪馬台国位置論の決め手になるのかもしれません。(続く)

2009年12月10日木曜日

(思い込み古代史) [閑話休題] 生活文化 、日本の東と西

 縄文時代を通じて、人口が15-25万人くらいでしたが、東に85%、西に15%と居住が片寄っていました。これは、気候による植生がおおいにあずかっていると思われます。文化人類学者の故中尾佐助氏、佐々木高明氏が1970年代以降唱導されている説で、現在より気温が2度ほど暖かくなった縄文時代前期(BC4,000年)以降、朝鮮半島から中国東北部から日本の富山県から新潟県県境あたりから三河湾、伊勢湾の境を通して、東をブナやナラのナラ林帯、アッサム、ブータン、ネパールから中国雲南~江南、海を越えて、日本の西半分には、シイ・カシ・ツバキの照葉樹林が優勢で、この地域に育った文化を照葉樹林文化といっています。(BC1000年の縄文晩期には現在より気温が1度低くなりますが、西:照葉樹林、東:ナラ林帯はとどまりました。近世となって木材利用のためのスギ・ヒノキ等針葉樹植林がさかんとなり、植生は変わっていますが、潜在植生は縄文晩期と変わっていません。人工林でも200年放置すると、潜在植生の森に戻るようです。)

[ナラ林文化]
 東にブナ・ナラ林が多く、明るい森でした。冷温落葉広葉樹林で、冬には、落葉し葉っぱが土地に落ちる。その一部は、雨に流されて川にいたる。鮭やマスが大海から川を訪れ、産卵し、育ちゆく稚魚が枯葉の分解した植物プランクトンを食べて大きくなり、海に戻る。人間は、産卵に川に戻ってくる鮭や鱒を捕らえて貴重な蛋白源とした。ブナ・ナラ林にはどんぐりが沢山落ちていました。人間はこれを拾って保存し、あくを抜いて、食用にしました。猪を時には射て、後にブタとして家畜にします。貴重な蛋白源となりました。狩猟採集の人間のほっとする空間は、竪穴住居でした。1メートル程度、円形に土を掘り、柱を数本立てて真ん中を囲炉裏として、家族が団欒しました。数家族が一つのところに集団で住んだことが、青森県の三内丸山遺跡で確認できます。どんぐりや木の実を保存するための縄文式の容器も開発し、線刻や縄文で美しく飾りました。森とすべての生き物に感謝し、精霊が宿るものとして祈り、呪術の対象としての火炎型土器も製作しました。勾玉をつくって首にさげ、のろい除けとし、敬虔な祈りがありましたでしょう。男たちは川では鮭鱒を狙い、野山に狩猟は熊も捕らえたことでしょう。精悍でした。そのDNAは鎌倉武士団となり阪東騎馬軍団として、「東男に京女」の東男となります。縄文土器の精密な装飾のワザは手工業の発展の土台となり、職人集団をつくっていきます。その芸術性は岡本太郎の「太陽の塔」につながつていきます。アワ・キビ・ソバなどを栽培しました。土地柄も寒かったため、塩をつかった保存食が多く、しだいに濃い味となり、なじんでいきます。

[照葉樹林文化]
 西は、シイ・カシ・ツバキ等照葉樹林で、森は暗く、人は住みずらかったようです。人口も全体の1/2の面積に15%の人しか住んでいませんでした。照葉樹林を切り開き、焼き畑農業でエゴマ、ひょうたん、豆、茶、いも等を栽培しました。手間と労力がかかり、輪作で場所を変えていきました。この地域の人口はBC500年頃稲作が伝えられるまでは増えていきませんでした。稲作の人々が加わると、連作可能で保存の容易な米によって栄養が十分となっていき人口が増えていきます。水田の害虫駆除で鯉も一緒に大陸から入ってきます。保存用に豆からは納豆が、穀類と魚でなれずしが作られ今日の寿司につながっています。焼畑の後に茶の木が自然に育ったようで、食べ茶がありました。工芸では、うるしから漆器製作、マユから絹をつくる技法、麹からつぶ酒の醸造がしだいに発達します。高地にはそばが栽培されました。それぞれ照葉樹林のめぐみといえましょう。恋人に歌垣で意志を伝えたりするようになります。後に、貴族から防人(さきもり)や一般の人まで万葉集としてまとめられる素地となりました。また、鵜を使い、魚を取ることもおこなうようになりました。

 照葉樹林文化のセンターはインドのアッサムから中国の雲南を真ん中にした東亜半月弧にあり、照葉樹林に沿って、伝播したとのことです。その東端が日本の西部分にあたり、焼畑から栽培農業をするスタイルの中にみられる独特の文化であるようです。

 縄文時代は今日の文化の淵源をなすDNAとなったと思います。弥生時代(BC300年ころ-AD300年ころ)から大陸や、主に朝鮮半島から渡来人が稲作や先進技術を持って九州経由でやってきます。更にその後の古墳時代、飛鳥・白鳳時代(AD700)朝鮮半島の百済高句麗の滅亡によっても多くの半島からの人々が須恵器や土木・稲作水田・灌漑技術を持って日本へ渡ってきます。縄文後期16万余の人口がほぼ1000年間、年1000人平均の渡来人がやってきたとも試算されていますが、関西、中部、一部は関東に居住し、AD700年には人口、540万人ほどになっていました。結果として縄文直系 1 : 渡来人系3.6 と小山修三氏(1984)によって試算されています。照葉樹林文化の多くは、現在の朝鮮で例えばお寿司・納豆を見ることができないということは、渡来人の影響の受けない、縄文時代からのDNAであったことがわかります。

 環境が植生を生み、植生が人間を育て、生活文化を作る。日本の基層文化は縄文時代につくられた。

 "あらぶる侍の熱気"は、「ブナ林文化」から "みやびの文化" は「照葉樹林文化」から、"生産技術"の優秀性は「ブナ林文化」の緻密にして単純明快と、「照葉樹林文化」のねばりっけの根気よさの合流したもの。歴史をたどれば現在のある角度が見える、と思います。学者の研究成果を読ませていただき、一方的に思い込んだ拙論ですので、斟酌してお読みください。

 ご覧いただきましてありがとうございました。(参考図書 佐々木高明「日本史誕生」上山俊平・佐々木高明・中尾佐助「続・照葉樹林文化」佐々木高明「照葉樹林文化への道」)

2009年12月6日日曜日

(思い込み古代史) 8.ハツクニシラススメラミコト

 歴史を辿る場合のもう一方の文献では、中国の史料のほかに天武天皇の意を受けて、712年、太安万侶(おおのやすまろ)と稗田阿礼(ひえだのあれ)による「古事記」、天武天皇の皇子の舎人親王を総裁とする大事業によって約40年かけて720年に編纂された「日本書紀」があります。武光 誠「古事記・日本書紀を知る事典」によると、古事記・日本書紀は天皇統治を正当化するため編纂された。天皇家の記録といくつもの部族の記憶が都合よく、神話として織り込まれ、豪族の記録の系譜を天皇家の系譜の中にとりこんで統合し、封じ込め一本化したとのことです。

 筆者が高校生のとき、日本史の先生から、「日本書紀」「古事記」にハツクニシラススメラミコトの名のある神武天皇と崇神天皇の内、初代神武天皇は実在しなく、第10代崇神天皇が最初の天皇といわれて、そのまま信じて今日に至っています。初代の天皇、ハツクニシラススメラミコトとは?、そのまぼろしの建国の仮説を作ってみました。

(天孫降臨)日本書紀によるとアマテラスオオミカミがニニギノミコトを「真床御襖(まことおふすま)」という寝具にくるんで、日向の高千穂の峰に下らせたとある。五伴緒(いつとものお)という神々(大王の下の同列のお友達)が従った。古事記では「筑紫の高千穂のクシフルタケ」に降りたとあり、朝鮮南端の加羅の建国神話にも、神の子が紅幅(あかいきれ)につつまれてクシフルに降りた、とある。古事記に「この地は韓国(カラクニ)に向ひ笠沙之御前に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、故にこの地ぞ甚吉(いとよ)き地(ところ)」とある。故国伽耶の神話をそのまま持ち込んで、韓国に向かい合う、筑紫に降り来たって、「よきところ」といっていると解釈できるのではないだろうか。

[=騎馬民族説=故江上波夫氏「騎馬民族征服国家説」(中国東北地方にいた扶余の騎馬民族が朝鮮半島を南下し、朝鮮南に拠点をつくり、崇神天皇の時代に九州に進出し、後に応神天皇の頃ヤマトに進出し、諸所の豪族たちと折り合いをつけて現在の天皇家の元になる王国を創ったという説)によれば、「古事記」にハツクニシメス ミマキノ スメラミコトのミマキ(「常陸風土記」御真木、美麻貴、⇒御間城)として御間城に宮のあった場所として朝鮮南部の任那(みまな)を充て、そこを拠点とした大王が北九州に進出したと解釈されている。「旧唐書」で「日本もと小国、倭国の地を併わす」とあるのは、朝鮮南部に本拠があり、後に倭国を合わしたと解釈されている。]

(神武東征説)神武東征の話は初代の大王、神武天皇[初代:60年で循環する干支の辛酉説=重大なことが辛酉年に起こるという説=天武天皇がた大友皇子に勝利した壬申の乱(673年)から天皇系譜をさかのぼりBC660年に初代即位もとめてつくられた天皇](その後の8代は欠史8代といい、在年数が異常に長く実在が疑われている)は実名を磐余彦(イワレヒコ)といった。かれは物部氏の祖神にあたる饒速日命(にぎはやひのみこと)が東方に天下ったという話を日向国で聞いた。そのとき、兄たちに当方も日本の中心地に移ろうといった。そして軍勢を率いて備前国の国神(くにつかみ)の椎根津彦を道案内とした。磐余彦(イワレヒコ)は大阪湾にはいり、難波に上陸し、一気に大和を目指そうとした。幾多の戦いの後、大和に入る。神武東征伝説は、磐余彦(イワレヒコ)の最大の敵を長髄彦(ながつねひこ)とする。長髄彦(ながつねひこ)は奈良盆地西北部の小豪族でもある縄文時代的酋長であった。磐余彦(イワレヒコ)は長髄彦(ながつねひこ)を打ち破り、纏向に入る。

 神武天皇は実在が疑われ、ミマキイリヒコの実名を持つ3世紀から4世紀はじめに実在したとみられる崇神天皇が該当するとされる。

[(大神(おおみわ)神社)「みわ」の語は元来高級な酒を表す言葉であった。「みわ」はなまって「みき」になる。神様に供える酒をお神酒という。よい酒が出来る旨い水の湧く山が「みわ山」であった。「三輪」は当て字である。崇神天皇は纏向の三輪山がよく見える場所を大神(みわ)神社とし、御神体を三輪山として朝廷の祭祀を整えた。伊勢神宮の天照大神信仰が広まるまでは三輪山の神が唯一の「大神」であった。大神神社の祭神は、いまは大物主神とされている。その神は出雲大社の大国主命がかりに姿をあらわしたものといわれる。三輪山の神は古くは「天皇霊」と表記された。]

(仮説)ハツクニシラススメラミコトの系譜を仮説として、組み立ててみました。紀元前300-紀元前100年頃、中国江南地区より先進文明をもつ人々が九州にわたってきて、稲作を伝え、クニを作った。その頃断続的に、朝鮮半島人々稲作文明を持って北九州にやってきた。紀元前後、奴国が北九州に勢力をつくっていた。中国にも使いをだした。小さな環濠を武具でもって武人の守るクニグニが九州から、本州に乱立していた。100年代、倭国は戦乱の世だった。2~3世紀にかけてのある時期に中国東北部の扶余に源を持つ、騎馬民族の集団が高句麗を経由して朝鮮南端の伽耶に勢力を蓄え、その一団が青銅・鉄文明に武装して海を越え、馬を連れて北九州にわたってきた。先進的な兵器と騎馬軍団で周囲のクニグニを圧倒していった。既存のクニを征服したり、話し合って和解したりして、吉備地区に移動した。出雲王国とも折り合いをつけて、しだいに勢力を大きくして、3世紀ころ、大和の豪族たちと戦い、勝利してヤマト巻向に拠点を創っていった。大神(オオミワ)神社をつくり、天皇家の元をつくった。

 以上の過程に、邪馬台国が、九州またはヤマトの敵対して征服されるクニとして、または、母体として存在した。ハツクニシラススメラミコトは、ヤマトに制覇した勢力のエポックを画する大王であった。制覇した人達の記憶や記録と連合を結んだ豪族の記憶はきれぎれとなってパッチワークのように大王家中心の古事記や日本書紀にまとめられていった。それぞれの豪族の記憶は塗り替えられ、天皇(スメラミコト)の専制性の日本が、7世紀の終りに天武天皇の下に確立されることとなる。以降の稿で順順に、解きほぐして辿っていきたいと思っています。以上は、あくまで断片的な知識の集積とある種、高松塚古墳の壁画等を見ての思い込みの仮説ですので、真偽の程を問うものではありません。割り引いて自由にご考察ください。(参考図書 江上波夫「騎馬民族国家」 新人物往来社「必携古代史ハンドブック」 武光 誠「古事記・日本書紀を知る事典」)