2009年12月26日土曜日

(思い込み古代史) [反論]邪馬台国について(その2) 富田 弘氏

 30年以上の邪馬台国追跡の後が裏打ちされる富田 弘氏の次の論文(2)をご覧ください。にわか古代史思い込み人の短絡思考には到底及ばぬ深さがあります。(中川 昌弘)

2 考古学から
  考古学のシンポジュームで九州の専門家が「九州の考古学者で、邪馬台国が九州にあったと考えるものは一人もいません」と発言したらしいです。これはオーバーでも考古学からは畿内説が断然有利です。

■巻向遺跡
ヤマト三輪山山麓の100haから200haの広大な遺跡です。40年前から本格的に発掘調査が始まっていますが発掘面積はまだ1%程度です。今までの調査で注目すべき点は
①土器の範囲が、関東から北陸、東海、山陰、瀬戸内西部まで広がっており、外部からの搬入率は20%を超えていること
②計画的な都市設計として幅5mの二条の大溝が発掘されたこと
③初源期の高塚古墳が出現したこと
               
 更に今年の3月、11月に3C最大の建物跡が発掘されました。南北19mあり飛鳥時代の建物に匹敵するとのこと。高床式の建物跡と見られ卑弥呼の宮殿の可能性があります。巻向遺跡は当初4Cの遺跡と見られたが、土器から3C初頭から中期とみなされたことが最も重要なことと思います。近年箸墓古墳も3C中/後半の造営と時代がさかのぼったことも畿内説にとっては有利です。

■三角縁神獣鏡
これほど話題になるが結論が出ないものは少ないと思います。魏鏡であっても国内鏡であっても、畿内から各地の有力者に分与されていることは事実です。国内鏡説の学者も畿内から分与されていることから畿内説です。この中で、①戦国から西晋時代(BC3C~4C)の中国鏡69枚と、三角縁神獣鏡8枚、古墳時代(3C~5C)の日本製鏡18枚を科学的に分析した結果、製造年代の古い三角縁神獣鏡6枚が中国西晋時代(3C~4C)の魏や呉の年号をもつ中国鏡と、青銅に含まれる銀とアンチモンの量が近い数字となった。残る三角縁神獣鏡2枚は古墳時代の日本鏡と近い数字となった。また、②静岡県出土の三角縁神獣鏡の銘が中国河北省出土の中国鏡の銘とまったく同一であったことがわかりました。銘は14文字、これに含まれる「甚「独」「奇」という字は魏鏡の特徴ということ。③黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡で、らくだを描いた鏡があったはずです。鏡の分析は精緻に進んでおり、中にはどうみても国内ではできそうにない優れたものもあるようで、①の三角縁神獣鏡に中国鏡と国内鏡があったらしいという分析は興味があります。私は古い時代の三角縁神獣鏡は魏からの倭国への特注品と考えていいと思います。

■北九州の遺跡
奴国が漢に朝貢するなど北九州が国勢・文化の中心であったことは事実です。中国鏡の量、鉄器・青銅器の総量、重厚な甕棺墓の副葬品などがそれを証明します。問題はこれらの遺跡が2C末を境にきえていくことです。吉野ヶ里遺跡も3Cには集落の内溝に後漢の鏡が放棄され、弥生時代末期にはムラは廃絶されてその位置に畿内型古墳(前方後円墳)が造営されたことがわかっています。(続く)

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