2009年12月18日金曜日

(思い込み古代史) [反論] 「邪馬台国について」(その1)  富田 弘氏  

 09.12.17 連載中の「思い込み古代史」の「邪馬台国」「ハツクラシラススメラミコト」に対し、畏友 富田 弘氏より(反論)を拝受しました。今回より3回にわけて、ご紹介します。筆者がサラリーマン時代、富田 弘氏と知り合った30年前、既に邪馬台国ヤマト説を主張され、当時、上役にあたる九州論者と丁々発止の論戦をされていました。それから30年の月日が経ち、静かに富田氏の「邪馬台国論」に読者諸氏と共に耳を傾けてみたいと思います。長文ですが、よろしくお願いします。(いにしえのことに勝手に思い込む人 中川 昌弘)

 邪馬台国論争は端的にいえば“どこにあったのか”ですから、畿内説の立場で考えを述べます。ただし、今後も新しい状況証拠を積み重ねることで蓋然性は高まるとしても、超一級の史料たとえば中国本土、あるいは帯方郡治があったという平穣南方あたりから邪馬台国に行く地図などが見つからない限り、確定はできないと思います。ということは半永久的に論争が続くことになりますが、歴史のロマンとしてそれはそれでおもしろいと思います。

1 魏志倭人伝から
■方位・里程
 帯方郡を出てから邪馬台国までの道筋について、まず倭人伝は郡から途中の経過する諸国間の方角・距離を示し最後に郡から邪馬台国までの総距離を記しています。不弥国までは距離を示すのに里を用い、それより遠方の投馬国・邪馬台国は里ではなく水行・陸行に要する日数を記載しています。この違いはなぜでしようか。陳寿の依った情報の違いによると考えられます。倭人伝は伊都国を郡使常に駐(とど)まる所としています。従って通常郡使は伊都国から先へは行っていません。伊都国近隣の奴国・不弥国は役目がら郡使が自ら調べるなどして距離を把握できたとしても、投馬国・邪馬台国はあまりに遠大であるため、倭人の話・伝聞などで行き方(水行・陸行)、方向と日数を掴んだと考えられます。もしくは、親魏倭王に任命する詔書を持参した郡の高官や、狗奴国との争い時に激励の詔書や幡を渡した高官は重要さから邪馬台国まで出向いているので、この時の報告が記事の元になっているかもしれません。倭人の話や伝聞、数回程度の郡高官の体験では里で距離を把握することは無理で、不弥国以遠の道程は大枠の記載になったと考えます。

 それではなぜ郡から邪馬台国までを万2千余里としたのでしょうか。すでに松本清張が看破していますが、これは「遠く長大な距離という観念的な数字」に過ぎないということです。具体的には漢書「西域伝」で西域諸国の王城までの距離について、「ケイヒン国(カシミール)」長安を去る万2千2百里「ウヨクサンリ国(ペルシャの東)」長安を去る万2千2百里、「コウキョ国(キリギス)」長安を去る万2千3百里、「ダイエン国(タシケント)」長安を去る万2千五百五十里などとなっています。漢書は三国志より前ですから陳寿は当然参考にしており、邪馬台国は遠く離れた国として実距離ではなく慣例的に万2千余里としたに過ぎません。

 連続式で読んだ場合不弥国から邪馬台国までは1300里ですが、水行30日さらに(または)陸行1月かかるとなります。放射式で読むと伊都国から1500里ですが、水行10日さらに(または)陸行1月要するとなります。記事の里数から実距離を推定すると1300里から1500里は130kmから150kmくらい。これを連続式では水行30日さらに(または)陸行1月、放射式では水行10日さらに(または)陸行1月かかるとなりますが、これでは日数がかかり過ぎです。万2千余里が観念的な距離であることを証明しています。

 さらにいえば、魏時代の1里は約430mです。これを基準にするととんでもなく遠くになりますが、国と国との比率はおおむね妥当です。比率が妥当ということは郡使の報告は正しいが、里数について陳寿による誇張があったと考えざるを得ません。(前述の検討は実距離に合わせて1里=100mとしました)

 このように誇張の混じる里数が混在する中で、観念的な万2千余里にこだわっても意味はないと思います。
なお、放射式読み方には致命的な弱点があります。まず、放射式で水行すれば陸行すればと読んだ場合、投馬国は邪馬台国より南となり、投馬国は邪馬台国の北にあるという倭人伝の記事と矛盾してしまいます。さらに、放射式とは目的地までを方向→国→距離の順で記すことですが、道程の最初の記載である狗邪韓国までは放射式の記載です。次の対馬国から伊都国までが連続式、次の奴国から邪馬台国までは放射式となります。目的地の邪馬台国までの道程を放射式→連続式→放射式の意味付までして使い分けるものでしょうか。「梁書」(7C代)や「太平御覧」(唐代)などの中国の史書は三国志を引用した箇所は道程を連続式に読んでいるとのことです。漢文の本家の中国でそうですから、連続式に読むことが自然で妥当です。

 それでは万2千余里にこだわらず連続式に読むとどうなるか。九州説も畿内説も対馬国、一支国、末慮国、伊都国、奴国の推定地は一致しています。末慮国推定の唐津、伊都国推定の前原、奴国推定の福岡の博多湾一帯は、それぞれ次の国に向かう実際の方向は東北です。ところが倭人伝記載はすべて東南です。九州説も倭人伝の記載に忠実ではありません。さて、倭人伝は奴国から東100里で不弥国ですが、有力な候補地は南方の宇美です。ただし投馬国に行くべき水行できる川があったのでしょうか。筑後川はかなり南を流れています。私は水行の記事から不弥国を奴国北東の博多湾沿岸津屋崎と見ます。ここから玄界灘を東行、周坊灘を南下、瀬戸内海を東行し、投馬国(吉備玉ノ浦あたり)を通り邪馬台国(ヤマト三輪山山麓)へたどりつくと考えます。倭人伝のとおりに宇美から南水行30日では、どの地をとっても九州を通り越してしまいます。九州説どころか倭人伝の道程を否定してしまいます。このため、畿内説は宇美からの倭人伝の方向を南から東に読み替えますが、九州説は水行や日数を倭人伝に合わすため、末慮国まで戻り五島列島を経由、島原湾、有明海をとおり筑後川河口の邪馬台国(九州説の有力候補地)にたどり着くという不可解な説明になります。あるいは水行の日数を短縮するなどの修正をすることになります。
 
 このジレンマの原因は倭人伝が里数に加え方位も正しくないことによります。倭人伝の前文で「倭人は帯方の東南大海の中にあり」となっています。古地図でも日本列島は南にぶらさがった形になっています。倭国は帯方郡から東南の範囲に収まらなければならないため、諸国への方位は南・東南・東のどれかで、遠方の投馬国・邪馬台国への方位はともに南です。陳寿は方位・里程記事は帯方郡の役人の報告などをベースにして、東南に長く続く国すなわち“その道里を計るとまさに会稽東冶の東にある“に修正したのだと思います。したがって倭人伝の方位・里程記事はそのまま信じることはできず、畿内説・九州説にとって有利・不利はなく、道程に合理的な補修をして、考古学などのからの候補地とスムーズに結びつくか判断することになります。

■倭国大乱
 倭人伝は2C後半に倭国大いに乱れると記しています。これは朝鮮半島からの先進物や鉄資源の交易ルートの支配権を争う北部九州諸国と畿内・吉備連合との戦いであったと考えます。畿内・吉備は平坦地で土壌が肥え開墾も盛んで人口増が続いていたと思います。人口増に対応するため生産性を高める必要があり、先進物や鉄製品を渇望していたはずです。特に鉄は当時は朝鮮半島南部でしかとれず、貴重な鉄も含めた交易権は北九州の諸国が握っていたと思います。吉備地域では2C後半には楯築形の墳丘墓などが造られ始め、墳墓を祀るときの地域共通の特殊壺や特殊器台が見つかっています。これは地域としての政治連合ができていたと考えられます。畿内でも弥生時代の唐古・鍵遺跡(奈良)や池上曽根遺跡(和泉)など大規模な環濠遺跡があり、有
力な国があったと思います。この畿内と吉備が共通利益のため、連合して北九州の諸国と戦ったと考えます。この畿内・吉備連合は後々までも続くことになります。同じ時期山陰でも四隅突出型墳丘墓が数多く発掘されており、山陰と吉備の関係から山陰勢力も吉備側に加担したとも考えられます。

 この争いは畿内・吉備連合が勝利し、北九州諸国を含めた盟主たる邪馬台国に従う倭国政治連合が出来上がったと考えます。畿内・吉備連合が勝利した理由は明らかに生産力の差です。連合の中心と思われる邪馬台国7万戸、投馬国5万戸という力です。

 2C末には九州の環濠は、吉野ヶ里を含めすべて埋められていること、王の墓と思われる甕棺墓の重厚な副葬もなくなります。一方櫛目文式や庄内式という畿内様式の土器がこの頃から九州・中国・四国へ広がっており、広域の政治連合が出来上がった裏づけになります。この争いの北九州諸国の中心は伊都国と奴国と思いますが、伊都国は世世女王国に従うとなっていることから、争いの途中で邪馬台国側についたかもしれない。そして国には邪馬台国からの一大卒、大倭をおき、これらの派遣者とともに諸国(特に北九州諸国)を邪馬台国の代行として支配していたと考えます。なお、伊都国は戸数1000戸となっていますが、役割からはあまりに少なく陳寿が参考にしたといわれる「魏略」記載のとおり1万戸ではないかと思います。

 また、今年1月淡路市垣内(かいと)遺跡から1Cから3Cの鉄器工房跡10棟が発見されました。国内最大級で畿内・瀬戸内へ製品を供給したと思われます。6Cまで鉄器生産遺跡は見つかっておらず貴重な発見です。淡路島ということが瀬戸内の交易ルートを裏付けるとともに、畿内・吉備の政治連合のバランス感覚がみてとれます。

■狗奴国
 九州説・畿内説どちらにしても狗奴国を特定しなければなりません。九州説は楽ですが畿内説にとっては難問です。倭人伝で王が存在するのは邪馬台国、伊都国、狗奴国三国のみです。戸数7万戸の邪馬台国と長年争っているわけですからかなりの強国のはずです。この観点から狗奴国は濃尾平野にあったと考え、遺跡の発掘状況からその中心は岐阜市・一宮市あたりと見ます。濃尾平野は木曽三川の恩恵から土壌も肥沃で生産性も高かったと思います。この地域は2Cには畿内様式とは異なった銅鐸を製作していたこと、3C前半には前方後円ではなく前方後方墳丘墓を盛んに造るなど独自の文化をもっています。その文化は近江東部、伊勢地方まで広がっていたはずで、倭人伝にいう邪馬台国の南としておかしくないと考えます。畿内説論者の中にも狗奴国を官の名前の狗古智卑狗(きくちひこ)から熊本県菊池郡にあてる人がいます。この場合は伊都国が邪馬台国の代行として狗奴国と戦ったことになりますが、それならば帯方郡の高官はなぜ邪馬台国まで出向いたのかなどしっくりしません。狗奴国は濃尾平野にあったと考えたほうが合理的。案外狗奴国の位置を特定することが邪馬台国位置論の決め手になるのかもしれません。(続く)

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