2009年12月6日日曜日

(思い込み古代史) 8.ハツクニシラススメラミコト

 歴史を辿る場合のもう一方の文献では、中国の史料のほかに天武天皇の意を受けて、712年、太安万侶(おおのやすまろ)と稗田阿礼(ひえだのあれ)による「古事記」、天武天皇の皇子の舎人親王を総裁とする大事業によって約40年かけて720年に編纂された「日本書紀」があります。武光 誠「古事記・日本書紀を知る事典」によると、古事記・日本書紀は天皇統治を正当化するため編纂された。天皇家の記録といくつもの部族の記憶が都合よく、神話として織り込まれ、豪族の記録の系譜を天皇家の系譜の中にとりこんで統合し、封じ込め一本化したとのことです。

 筆者が高校生のとき、日本史の先生から、「日本書紀」「古事記」にハツクニシラススメラミコトの名のある神武天皇と崇神天皇の内、初代神武天皇は実在しなく、第10代崇神天皇が最初の天皇といわれて、そのまま信じて今日に至っています。初代の天皇、ハツクニシラススメラミコトとは?、そのまぼろしの建国の仮説を作ってみました。

(天孫降臨)日本書紀によるとアマテラスオオミカミがニニギノミコトを「真床御襖(まことおふすま)」という寝具にくるんで、日向の高千穂の峰に下らせたとある。五伴緒(いつとものお)という神々(大王の下の同列のお友達)が従った。古事記では「筑紫の高千穂のクシフルタケ」に降りたとあり、朝鮮南端の加羅の建国神話にも、神の子が紅幅(あかいきれ)につつまれてクシフルに降りた、とある。古事記に「この地は韓国(カラクニ)に向ひ笠沙之御前に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、故にこの地ぞ甚吉(いとよ)き地(ところ)」とある。故国伽耶の神話をそのまま持ち込んで、韓国に向かい合う、筑紫に降り来たって、「よきところ」といっていると解釈できるのではないだろうか。

[=騎馬民族説=故江上波夫氏「騎馬民族征服国家説」(中国東北地方にいた扶余の騎馬民族が朝鮮半島を南下し、朝鮮南に拠点をつくり、崇神天皇の時代に九州に進出し、後に応神天皇の頃ヤマトに進出し、諸所の豪族たちと折り合いをつけて現在の天皇家の元になる王国を創ったという説)によれば、「古事記」にハツクニシメス ミマキノ スメラミコトのミマキ(「常陸風土記」御真木、美麻貴、⇒御間城)として御間城に宮のあった場所として朝鮮南部の任那(みまな)を充て、そこを拠点とした大王が北九州に進出したと解釈されている。「旧唐書」で「日本もと小国、倭国の地を併わす」とあるのは、朝鮮南部に本拠があり、後に倭国を合わしたと解釈されている。]

(神武東征説)神武東征の話は初代の大王、神武天皇[初代:60年で循環する干支の辛酉説=重大なことが辛酉年に起こるという説=天武天皇がた大友皇子に勝利した壬申の乱(673年)から天皇系譜をさかのぼりBC660年に初代即位もとめてつくられた天皇](その後の8代は欠史8代といい、在年数が異常に長く実在が疑われている)は実名を磐余彦(イワレヒコ)といった。かれは物部氏の祖神にあたる饒速日命(にぎはやひのみこと)が東方に天下ったという話を日向国で聞いた。そのとき、兄たちに当方も日本の中心地に移ろうといった。そして軍勢を率いて備前国の国神(くにつかみ)の椎根津彦を道案内とした。磐余彦(イワレヒコ)は大阪湾にはいり、難波に上陸し、一気に大和を目指そうとした。幾多の戦いの後、大和に入る。神武東征伝説は、磐余彦(イワレヒコ)の最大の敵を長髄彦(ながつねひこ)とする。長髄彦(ながつねひこ)は奈良盆地西北部の小豪族でもある縄文時代的酋長であった。磐余彦(イワレヒコ)は長髄彦(ながつねひこ)を打ち破り、纏向に入る。

 神武天皇は実在が疑われ、ミマキイリヒコの実名を持つ3世紀から4世紀はじめに実在したとみられる崇神天皇が該当するとされる。

[(大神(おおみわ)神社)「みわ」の語は元来高級な酒を表す言葉であった。「みわ」はなまって「みき」になる。神様に供える酒をお神酒という。よい酒が出来る旨い水の湧く山が「みわ山」であった。「三輪」は当て字である。崇神天皇は纏向の三輪山がよく見える場所を大神(みわ)神社とし、御神体を三輪山として朝廷の祭祀を整えた。伊勢神宮の天照大神信仰が広まるまでは三輪山の神が唯一の「大神」であった。大神神社の祭神は、いまは大物主神とされている。その神は出雲大社の大国主命がかりに姿をあらわしたものといわれる。三輪山の神は古くは「天皇霊」と表記された。]

(仮説)ハツクニシラススメラミコトの系譜を仮説として、組み立ててみました。紀元前300-紀元前100年頃、中国江南地区より先進文明をもつ人々が九州にわたってきて、稲作を伝え、クニを作った。その頃断続的に、朝鮮半島人々稲作文明を持って北九州にやってきた。紀元前後、奴国が北九州に勢力をつくっていた。中国にも使いをだした。小さな環濠を武具でもって武人の守るクニグニが九州から、本州に乱立していた。100年代、倭国は戦乱の世だった。2~3世紀にかけてのある時期に中国東北部の扶余に源を持つ、騎馬民族の集団が高句麗を経由して朝鮮南端の伽耶に勢力を蓄え、その一団が青銅・鉄文明に武装して海を越え、馬を連れて北九州にわたってきた。先進的な兵器と騎馬軍団で周囲のクニグニを圧倒していった。既存のクニを征服したり、話し合って和解したりして、吉備地区に移動した。出雲王国とも折り合いをつけて、しだいに勢力を大きくして、3世紀ころ、大和の豪族たちと戦い、勝利してヤマト巻向に拠点を創っていった。大神(オオミワ)神社をつくり、天皇家の元をつくった。

 以上の過程に、邪馬台国が、九州またはヤマトの敵対して征服されるクニとして、または、母体として存在した。ハツクニシラススメラミコトは、ヤマトに制覇した勢力のエポックを画する大王であった。制覇した人達の記憶や記録と連合を結んだ豪族の記憶はきれぎれとなってパッチワークのように大王家中心の古事記や日本書紀にまとめられていった。それぞれの豪族の記憶は塗り替えられ、天皇(スメラミコト)の専制性の日本が、7世紀の終りに天武天皇の下に確立されることとなる。以降の稿で順順に、解きほぐして辿っていきたいと思っています。以上は、あくまで断片的な知識の集積とある種、高松塚古墳の壁画等を見ての思い込みの仮説ですので、真偽の程を問うものではありません。割り引いて自由にご考察ください。(参考図書 江上波夫「騎馬民族国家」 新人物往来社「必携古代史ハンドブック」 武光 誠「古事記・日本書紀を知る事典」)

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