縄文時代を通じて、人口が15-25万人くらいでしたが、東に85%、西に15%と居住が片寄っていました。これは、気候による植生がおおいにあずかっていると思われます。文化人類学者の故中尾佐助氏、佐々木高明氏が1970年代以降唱導されている説で、現在より気温が2度ほど暖かくなった縄文時代前期(BC4,000年)以降、朝鮮半島から中国東北部から日本の富山県から新潟県県境あたりから三河湾、伊勢湾の境を通して、東をブナやナラのナラ林帯、アッサム、ブータン、ネパールから中国雲南~江南、海を越えて、日本の西半分には、シイ・カシ・ツバキの照葉樹林が優勢で、この地域に育った文化を照葉樹林文化といっています。(BC1000年の縄文晩期には現在より気温が1度低くなりますが、西:照葉樹林、東:ナラ林帯はとどまりました。近世となって木材利用のためのスギ・ヒノキ等針葉樹植林がさかんとなり、植生は変わっていますが、潜在植生は縄文晩期と変わっていません。人工林でも200年放置すると、潜在植生の森に戻るようです。)
[ナラ林文化]
東にブナ・ナラ林が多く、明るい森でした。冷温落葉広葉樹林で、冬には、落葉し葉っぱが土地に落ちる。その一部は、雨に流されて川にいたる。鮭やマスが大海から川を訪れ、産卵し、育ちゆく稚魚が枯葉の分解した植物プランクトンを食べて大きくなり、海に戻る。人間は、産卵に川に戻ってくる鮭や鱒を捕らえて貴重な蛋白源とした。ブナ・ナラ林にはどんぐりが沢山落ちていました。人間はこれを拾って保存し、あくを抜いて、食用にしました。猪を時には射て、後にブタとして家畜にします。貴重な蛋白源となりました。狩猟採集の人間のほっとする空間は、竪穴住居でした。1メートル程度、円形に土を掘り、柱を数本立てて真ん中を囲炉裏として、家族が団欒しました。数家族が一つのところに集団で住んだことが、青森県の三内丸山遺跡で確認できます。どんぐりや木の実を保存するための縄文式の容器も開発し、線刻や縄文で美しく飾りました。森とすべての生き物に感謝し、精霊が宿るものとして祈り、呪術の対象としての火炎型土器も製作しました。勾玉をつくって首にさげ、のろい除けとし、敬虔な祈りがありましたでしょう。男たちは川では鮭鱒を狙い、野山に狩猟は熊も捕らえたことでしょう。精悍でした。そのDNAは鎌倉武士団となり阪東騎馬軍団として、「東男に京女」の東男となります。縄文土器の精密な装飾のワザは手工業の発展の土台となり、職人集団をつくっていきます。その芸術性は岡本太郎の「太陽の塔」につながつていきます。アワ・キビ・ソバなどを栽培しました。土地柄も寒かったため、塩をつかった保存食が多く、しだいに濃い味となり、なじんでいきます。
[照葉樹林文化]
西は、シイ・カシ・ツバキ等照葉樹林で、森は暗く、人は住みずらかったようです。人口も全体の1/2の面積に15%の人しか住んでいませんでした。照葉樹林を切り開き、焼き畑農業でエゴマ、ひょうたん、豆、茶、いも等を栽培しました。手間と労力がかかり、輪作で場所を変えていきました。この地域の人口はBC500年頃稲作が伝えられるまでは増えていきませんでした。稲作の人々が加わると、連作可能で保存の容易な米によって栄養が十分となっていき人口が増えていきます。水田の害虫駆除で鯉も一緒に大陸から入ってきます。保存用に豆からは納豆が、穀類と魚でなれずしが作られ今日の寿司につながっています。焼畑の後に茶の木が自然に育ったようで、食べ茶がありました。工芸では、うるしから漆器製作、マユから絹をつくる技法、麹からつぶ酒の醸造がしだいに発達します。高地にはそばが栽培されました。それぞれ照葉樹林のめぐみといえましょう。恋人に歌垣で意志を伝えたりするようになります。後に、貴族から防人(さきもり)や一般の人まで万葉集としてまとめられる素地となりました。また、鵜を使い、魚を取ることもおこなうようになりました。
照葉樹林文化のセンターはインドのアッサムから中国の雲南を真ん中にした東亜半月弧にあり、照葉樹林に沿って、伝播したとのことです。その東端が日本の西部分にあたり、焼畑から栽培農業をするスタイルの中にみられる独特の文化であるようです。
縄文時代は今日の文化の淵源をなすDNAとなったと思います。弥生時代(BC300年ころ-AD300年ころ)から大陸や、主に朝鮮半島から渡来人が稲作や先進技術を持って九州経由でやってきます。更にその後の古墳時代、飛鳥・白鳳時代(AD700)朝鮮半島の百済高句麗の滅亡によっても多くの半島からの人々が須恵器や土木・稲作水田・灌漑技術を持って日本へ渡ってきます。縄文後期16万余の人口がほぼ1000年間、年1000人平均の渡来人がやってきたとも試算されていますが、関西、中部、一部は関東に居住し、AD700年には人口、540万人ほどになっていました。結果として縄文直系 1 : 渡来人系3.6 と小山修三氏(1984)によって試算されています。照葉樹林文化の多くは、現在の朝鮮で例えばお寿司・納豆を見ることができないということは、渡来人の影響の受けない、縄文時代からのDNAであったことがわかります。
環境が植生を生み、植生が人間を育て、生活文化を作る。日本の基層文化は縄文時代につくられた。
"あらぶる侍の熱気"は、「ブナ林文化」から "みやびの文化" は「照葉樹林文化」から、"生産技術"の優秀性は「ブナ林文化」の緻密にして単純明快と、「照葉樹林文化」のねばりっけの根気よさの合流したもの。歴史をたどれば現在のある角度が見える、と思います。学者の研究成果を読ませていただき、一方的に思い込んだ拙論ですので、斟酌してお読みください。
ご覧いただきましてありがとうございました。(参考図書 佐々木高明「日本史誕生」上山俊平・佐々木高明・中尾佐助「続・照葉樹林文化」佐々木高明「照葉樹林文化への道」)
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