2010年3月6日土曜日

(思い込み古代史) 17. 古代史の総括

 天皇親政は、聖武天皇から、女帝孝謙天皇へ移り、道鏡が病気治癒といって孝謙天皇に接近して、法王までのぼりつめ、称徳天皇(孝謙天皇重祚)の崩御で道鏡は地位を失ってしまう。その後、百済系の高野新笠を母とした、桓武天皇が即位する。弟の相良親王を皇太子としていたが、奈良の仏教勢力から距離をおくため、784年、長岡京に遷都をするが、遷都に際して藤原種継の叛乱があり、連座して相良親王が罪を着せられ、廃皇太子となる。これらの出来事に、嫌気がさし、桓武天皇は京都平安京に中国の都、長安を模し、794年遷都をした。当時、疫病がはやり、母や皇后も死に桓武天皇は苦しんだ。占ってもらったところ、相良親王の怨霊がたたっているとの宣託をうけた。配流地の淡路に手厚く葬りなおしたのだった。平安京は風水上で優れたところと見立てられ、その後1000年の都となった。

「もの」のあわれ、「もったいない」思想の源流

 縄文時代から、奈良時代までの日本の基層文化に、現在現れている諸相(「もの」のあわれ、微細技術、もったいない思想他)の原点があるのでしょうか。

1. 縄文人は、自然の恵みに生かされた。森の恵み=どんぐり=を食し、森の栄養一杯な川には鮭鱒が上ってきて川と海の幸をいただけた。アイヌ人がそうであるように、万物の命を尊ぶ精神が養われ、現在に繋がっています。緑が国土の約70%弱をキープできているのは、そのような自然信仰があったからと思える。自然信仰は自然の個々に魂が宿るという精霊信仰といえる。また、海洋民族としての入れ墨文化等は、魔よけとして絶対的な神への畏れと憑依の気持ちの表れではないでしょうか。

2. 反面、自然に生命がある(神が宿る)という考えは、論理的な思考の結果ではありません。願望であり、包括的な概念です。思考・激論の後の答えではありません。日本語は、会話による思考の交歓・練成が少なく、一方的な伝達に向いていると日本語を学んだ外国人がいっています。また、日本語をしゃべるとやさしくなるといっています。論争用の言語でない。思考が内攻すれば、原子の世界の構造解明という理論物理学でノーベル賞学者を多く生むことにつながっています。
 統治の手段として神が宿るべき「もの」が必要となり、祈る対象としての出雲文化圏の銅剣銅鉾、近畿文化圏の鏡・銅鐸の神格化と銅鐸の地下への埋納は「もの」へのこだわりを生んでいます。卑近な例で感じますのは、NHKTV「龍馬伝」とNHK衛星TV韓国ドラマ「イ・サン」を比べますと、「龍馬伝」は主人公や一人の詠嘆の映像が多く「もの」や風景を映し、「イ・サン」は主人公たちの激論と感情推移が映し出されます。普段、感情の葛藤・激論にさらされていないため、むしろ感情表現の「イ・サン」に引き込まれ、「龍馬伝」にものたりなさを感じるのは、裏返しの日本人の感情なのでしょうか。飛躍しました。日本人は論理思考に弱く、寡黙となりその分、「もの」に向かいます

3.縄文時代は、争いがすくなかったと想像します。ところが、稲作技術が大陸・半島より伝来し、物質的に貧富の差ができてくると、争いが起こります。紀元前後は100余国にわかれ、境界線は溝を掘り、逆も木を配して、人々が争いました。これに一つの終止符をうつのが邪馬台国の卑弥呼でした。卑弥呼亡き後、再び乱れます。我々の祖先は、その言語の特性もあり、話し合いが不得意で、言葉がまわらない結果、手が出ます。6世紀ごろ、百済から傭兵として倭の人々が雇われ、軍事行動集団として、活躍?しました。もっと時代が下ると、倭寇として、指揮官の扇の一振りで、整然と侵略行為を働いたようです。江戸時代は侍が2本刀を持ち、いざというと切腹という極端な心の論理を持つに至っています。赤穂浪士の討ち入りを美談として、現在までも称揚しています。先の大戦も、話し合いができず、国際連盟をかっこよく?脱退して孤立し、アメリカとも話し合いを成立させず、開戦に踏み切り、惨憺たる結果を国民に強いました。武に訴える、極端性を奥底に秘めていると残念ながら考えます。儒教で言う、中庸が、なかなかできない民族性をもつているようですので、注意したいです。

4.精霊崇拝は、時代が下り、古墳の出現で首長霊崇拝にもなっていきます。神社も、その変形融合したものと思われます。仏教の伝来・普及とあいまって、一般家庭には、祖先霊を崇拝するものとなっていきます。現代でも、神木や神石、山じたいがご神体の例があり、古来、神しかなかったところに、仏が入ってきて中世以降、神の上に仏が存在し、神に仏の位をさずけたりします。明治時代の到来で神が仏の上位となる廃仏毀釈が行われます。先の大戦に敗戦後は、仏が復権して、神も仏も、各々その位置を得ます。しかし、大筋は、祖先霊崇拝は仏がになっていて、現世利益は神様が担っているのではないでしょうか。私事ですが、毎朝、仏様に先祖の霊がおだやかであることを祈り、お世話になった亡き人々のご冥福を祈り、座禅を組み、宇宙の一単位として、道元禅師の教えにそつて自らが仏であると一瞬のことですが思います。そして、戸外の大気を吸い、腹式呼吸して天に向かって天空に宿る神に、課題の解決と世界平和を祈ります。先人たちから、めんめんとして続いてきた命の一しずくとして未来へつながっていきます。

5. 縄文土器の豪放さは、世界にも類がない前方後円墳の巨大化群、奈良の大仏、戦艦ヤマトに豪放の一点集中主義の発展的形態として見られます。これは洋々とした海を常に眺めうる海洋民族の故の心の広がりを表すのでしょうか。豪放さはおおらかさにつながり、このような感情は「万葉集」にも残っていますが、多くのものの犠牲の上になり立つ脇の甘さを伴っています。

6. 縄文土器に網目等の飾りをつけたのは繊細な感情の表出でしょうか。時代は下って古墳時代にあらわれる、当初のいけにえに代わって埴輪群は、始皇帝の権力の権化としての兵馬ようと異なり、故人へのきめこまやかな情の表れといえるでしょう。時代を経るごとに、繊細さが磨かれ、飛躍しますが茶の湯、華道等の様式美を作っていきます。

7. 「もの」へのこだわりは、「物体ない」(もったいが甚だしい)という感情を生み「もったいない」という節約精神につながっていきます。現在の例では、「もの」の在庫を最小に押さえる生産技術を開発したトヨタ生産システムとなっていると考えます。自己の「もったいない」が他者に製品に犠牲をしいることがあってはならず、いきすぎると製品のリコール問題という結果を招きますので、「もったいない」は、ほどほどの調和が前提だと思います。

8. 「もの」の上位が「論理」とすれば、「論理」への階段を登る過程を経ていませんので、理づめで物事を議論し深く考えず、「和」というぼやっとしたまとまりを重視します。そのためにコンセンサスを重視、腹芸、以心伝心という非論理的なことを周知のこととして相手に、要求します。

9. 故江上波夫氏の唱導される騎馬民族征服説に特有な他に学び、よいものを取り入れる伝統は、稲作の導入に始まり、青銅、鉄、治水、機織、瓦、須恵器、・・・漢字、仏教・・・の文化の輸入に積極的で、渡来人の寄与は大きいものがありました。中国にも遣隋使、遣唐使が派遣されます。他に依存するという精神性を基層とします。また、他に学ぶという姿勢は、元が無いということの裏返しとなり易く、とかく、自分の考えを持たず、付和雷同となりがちです。あの大戦争を日本人が、何故起したかと反省すれば、NOと声高に言う人が少なく、大勢に流された結果だと思えます。

10. すべてのものを大切にし、「もの」に生命やあわれを感じるのが、平安時代以降「もののあわれ」となる伝統となります。「もの」にこだわる日本人の特性が、文化面では「もののあわれ」として、縄文~弥生~古墳~飛鳥・白鳳~奈良時代に生まれたと思えるのです。

 以上は他の読書で得た知識と古代史を通過しての所感、感じるままです。日本人とはなんぞやと考える時、その特質を理解して、対処すれば、無防備であるより、よいと思います。


 天皇家が3世紀以降祭祀を軸として権力を握っていきますが6-7世紀に、天皇家外戚に権力が移行し、揺り戻しで7世紀後半、天智天皇、天武天皇に権力が集中します。その後も天皇に権力が集中しますが、平安時代を経て天皇家の外戚として貴族が、鎌倉時代には武家が権力を掌握していき、天皇と時々の権力が二重の構造を作っていきます。

 平安時代以降、天皇は元々の祭祀に特化し国民の精神的支柱となっていきます。中世は古典文学を勉強し、後日、稿を重ねればいいなと思っています。

 つたないエッセーにお付き合いいただきました。ご愛読いただきました皆様に感謝申し上げます。 [歴史を辿るエッセー]上 (終)

(思い込み古代史) 16. 752年 「大仏開眼」

 552年、百済の聖明王が仏教を伝えた。渡来系の蘇我氏が仏教崇拝し、排仏派の物部氏の排除に成功する。その後、聖徳太子が仏教に帰依し、高句麗僧の指導を受けて三経ぎしょう(維摩経・法華経・華厳経)を著します。仏教寺院も創っていく。仏教は、国家の守護の元に、仏教によって、鎮護国家をしょうとして、地方には国分寺と國分尼寺もつくられていきます。

 天智天皇から弟の天武天皇に皇統が移って、天武天皇と持統皇后(後に天皇)との長子で28歳で没した草壁皇子系統の、文武天皇が697年に即位します。藤原不比等の娘、宮子が文武天皇の妃として入第します。このふたりの間に生まれたのが聖武天皇で、不比等の別の女性に産ませた後の光明子が妃となります。ここにいくまでには、天武天皇の他の皇子の陰に陽にの反目活動がありました。依然として兄弟に皇位をゆずるべしとの考えも強かったのです。有名な事変は「長屋王の変」でした。長屋王は天武天皇の高市皇子の子ですが、聖武天皇の皇后に光明子がなることを「光明子は皇族の娘でないとして、皇族が皇后になる、との前例に反する」と反対を表明します。729年、長屋王は国家転覆の計画有と密告され、濡れ衣をきせられ、自死においやられます。

 藤原氏は外戚として、しだいに宮中に入っていきました。いろんな課題と悩みをかかえていたと思われる聖武天皇は740年、平城京から難波の宮に行幸した。その途中、河内国大県軍の知識寺の本尊を礼拝し、深く感動された。その時から聖武天皇が毘盧遮那仏をつくろうという思いをいだくいたった。743年、華厳経の教理に基づいて東大寺に毘盧遮那大仏を造る詔を下した。4年後着工し2年の工期8回の鋳継ぎを経て752年に開眼供養がおこなわれた。大仏殿は、文献によると749年に着工され、758年に竣工している。約86メートルx50メートルであった。聖武天皇はいろいろと迷いの多い方であったのでしょうか、その一つが皇位継承問題と想像され、(藤原系の光明皇后との子孫に引き継ぎたい思いがあったが、男子は幼少で死に、阿部内親王が生まれた。・・・後に、748年孝謙(764年称徳)天皇として女帝として即位、天武天皇系統がとだえ、天智天皇の、志貴皇子(いわばしる 垂水の上の さわらびの 萌えいずる 春になりにけるかも が万葉集に残されている。)の子が770年、光仁天皇として皇統が戻り、現在の天皇に続く。)740年平城京から恭仁京、難波京、紫香楽宮を転々とし、最後に745年平城京に戻ってきます。仏教を国家鎮護の根本のものとして自らの迷いも封じ込めたのでしょう。この間、陸奥の国守百済王敬福が黄金900両を献上した。大仏開眼はインド僧菩提遷那を導師に、中国、朝鮮の舞や音楽で祝われ、導師の筆に結び付けられた紐には聖武太政天皇、孝謙天皇、光明皇太后が連なっていて。まるで華厳の世界を現出しているようだったでしょう。各地域に設けられた国分寺、國分尼寺の頂点が東大寺だったのです。

 この頃の貴族の生活と、下級官吏の生活がどのようなものであったか、栄原 永遠男著「天平の時代」より食生活を紹介しましょう。

【長屋王】1988年に発見された平城京3条2坊にあった長屋王邸内の木簡によれば、あわび、各種野菜、蘇(牛乳を1/10になるまで煮つめたもの)その他豊富な食材を指定農地で栽培したものを食していた。邸宅は4町(約6万m2)東京ドームの約1.3倍でした。中央内部の中心的な建物は360m2の床面積でした。

【写経官吏】1日2食(白米と野菜海藻2皿)昼におもち出ることありで写経所に何十日も、泊まり込みで写経。家には、数日、病気届で帰れるのみ。腫瘍がよくでき、大変不潔であったよう。家族の住む宅地は中心部から離れているが、375m2-190m2であったと想像されます。

 律令制がひかれ、きつちりと租庸調がとられ、貨幣経済がスタートしはじめているが、大変庶民の生活は苦しかったようです。8000人程度の中央官吏で、日本が動かされていたよう。平城宮は人口10万人程度だったようです。

 国にとっても、庶民にとっても仏様がたよりだったのでしょうか、国乱れかけて孝子あらわる。庶民派の高僧となった人に行基がいます。布施屋をつくったり、道をつくったり、大仏勧進をされたりしました。聖武天皇は日本に大仏を作り、(1180平氏の焼き討ちで焼け、鎌倉時代に再建、戦国時代に又焼かれ、江戸時代の元禄期に再再建)光明皇后は、正倉院を残しました。財政が破綻寸前までいたる、不安を解消させるための膨張政策でした。しかし、現在まで人々に癒し続けていることは誠に立派なことだと思います。

 現代に置き換えると、ダムとかコンクリートのものは残っているが 1000兆円にも近々達すると思われる借金財政、増税は必須、官僚機構の統治の簡素化が、すぐにも始めなければならないのでしょう。そんなことが遥か13o0年前のことを考えると、焦燥感にかられます。「思い込み古代史」も平安時代が、すぐそこに近ずきましたので、次回で総括し、このシリーズのキーをおきたいと思います。

(参考図書 「天平の時代」栄原 永遠男 他)

(思い込み古代史) 15. 672年 「壬申の乱」

 吉村武彦著「古代王権の展開」より672年におこった、壬申の乱の経緯を写してみよう。

 「671年天智帝の様態が悪化した。そこで大海人皇子が病床によばれ、後事を託された。大海人皇子は子供のいない皇后倭姫王の即位と大友皇子の立太子を進言した。暫定政権の提案をし、天智のために出家して修行すると申し出、ただちに宮殿内の仏殿でひげとかみを剃り、天智から与えられた袈裟を身につけた。2日後、吉野での仏道修行を許されると、即日、島の宮(明日香村島庄)へ急行した。時の人は「虎に翼をつけてはなてり」といったという。大海人は吉野宮に向かった。」

 天智天皇薨去後の近江朝廷では、大友皇子が皇位につくべく、諸策が練られていたであろう。再び、吉村武彦著「古代王権の展開」よりその後の経緯を伝えよう。「近江朝では、天智陵の造営で民衆を挑発、武器をもたせているという。大海人が吉野に去って6ケ月経っていた。大海人皇子は伊勢、三重の東国入りを敢行した。 鸕野(うの)皇女(後の持統天皇)10歳になるかならぬかの草壁皇子と忍部(おさかべ)皇子、20余人の舎人、10余人の御宮の宮人が従った。途中、高市皇子とも合流し、豪雨の中も急行し、伊勢神宮に向かって遠く遥拝、大津皇子は鈴鹿関に到着、先発隊が不破道を防いだことも大海人に伝えられていく。」

 大海人動くとの報は大友皇子側にもつたわったはずだ。「群臣ことごとく怖れをなし、京の内騒ぐ」と「日本書紀」に記されている。対応策を協議する大友皇子の諮問に、一人の臣が、すみやかに騎兵により追撃を進言するが、大友皇子に受け入れられなかった。大友は国評(こおり)制で地域行政機構より兵を募ろうとして正攻法の戦いに勝利しょうとしたと思われる。しかし、吉備と筑紫で功を奏せなかった。大友軍は内紛もあり、結局、敗走し、大友は山前(大山崎町か)で自刃する。

 皇位を継いだ天武天皇は、飛鳥浄御原(きよみがはら)に都を置き、天皇に権力を集中させ、親政をしき、支配層は皇族で固め、律令体制へ漸進していく。679年、天武帝は持統皇后、草壁皇子、大津皇子、竹市皇子、*川島皇子、忍部(おさかべ)皇子、*施基皇子(*は天智帝の子)をひきつれ吉野宮に行幸した。皇子たちに千年後までの事なきを問い、6人の皇子の協同の誓いを約束させた。衣服の襟を開いて皇子たちをだきしめたといわれる。

 伊勢の勢力が、大海人の陣営に加担したことにより、大三輪神社にあった、天皇家をまつる祭祀が、伊勢神宮に移ったと考えられます。

 天武帝の大きなの仕事の一つは、国史の編纂指示である。世紀を越えて、712年「古事記」として720年「日本書紀」として大王家に伝わる歴史や、有力氏族に伝わる伝承を統合した日本史が編纂される。上述のように壬申の乱が詳細に経過がわかるのも、当時の現代史として、反乱ではない正当性をもたせる意味もあり、相当詳しく記録されている。

 唐・新羅からの侵略防止対策としてのインフラ整備として09.10.12放映のNHK衛星TV「古代の大道」によると総長6300km(現在の高速道路6500km)、巾12-14メートルの大道をつくったとのことでした。専門家の試算では延べ3000万人の動員があったとのことでした。この大道を通って、都の情報を地方へ、地方の租税が都へ上っていったのでした。しかもこの道は下層に枯れ木枯れ枝を敷き、両側に溝を掘り、何層も土をかためたものでした。68の国府をつないでいました。大化改新ごろは道の駅家(うまや)には馬を常備し、宿泊施設をもって官人の公用していました。30里(約16km)毎に駅家を設置することを原則にしており、当時の権力が大きな力をそなえていたことがわかります。

 古代大道を誰が設置の指示をし、いつ完成したかは不明ですが、大道はいずれその用を終り、農地等に転換されていきます。このような力は。663年、朝鮮百済の急援軍を出した白村江の戦いで2万8千人もの兵を送り込んで敗れますが、その後の対策ともいえましょう。今から考えるとびっくりするような実力が古代にはあったようです。

 東アジアを意識し、律令制度の整備を進め、国史を整理統合発刊指示をだし、大和から日本として飛躍させたのが、天智天皇の後を引き継いだ、天武天皇であったと思います。

 本稿の多くを吉村 武彦著「古代王権の展開」に依存しました。(参考 NHK10.12放映「古代大道」図書「日本史」新人物往来社 「古代王権の展開」吉村 武彦)

2010年3月5日金曜日

(思い込み古代史) 14.  645年 「大化の改新(乙巳の年のクーデター」

 聖徳太子が遣隋使を派遣し、17条の憲法を作った後、天皇家は蘇我氏に外戚として牛耳られてきました。高校生時代、「大化改新虫5匹(ムシゴヒキ)」と645年のことを覚えたものでしたが、皇極天皇の同母弟軽皇子(孝徳天皇として即位)、皇極天皇の長子、中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)と中臣鎌足らが天皇家をわがものにするような権勢を誇る渡来系の蘇我氏を打倒したものでした。三韓の使者を迎える儀式で蘇我入鹿を韓人が討ったのです。古人大兄皇子(舒明天皇の皇子)が「韓人、鞍作臣(蘇我入鹿)を殺しつ、わが心痛し」と現場に居合わせ、自身の宮に逃げ帰って家人に告げた、とあります。この後、入鹿の父、蘇我蝦夷は自刃しました。

 中大兄皇子は天皇を圧迫する外戚の勢力を駆逐して、天皇に権力が集中するように、唐の制度を参考として、律令制(律とは刑法、令とはそれ以外の国家的基本法)を作っていきます。646年(①公地公民制・・・土地人民が豪族の所有地・民から天皇に属するように考えた②国郡里の行政制度の導入③班田収受制④租庸調の税制統一・・・戸籍がつくられます。)大化改新後、孝徳天皇が皇位を継承し、難波に都を移しますが、後に、中大兄皇子が百済・倭軍が663年白村江(はくすきのえ)で唐・新羅軍に敗れ、668年天智天皇となり、近江に都を移し、長子天皇相続の不改常典をつくり、権力の中心となり、日本の統治機構の基礎をつくったといえましょう。年号は大宝律令以降、制定されますが、「大化」という私的年号で大きく化する節目を強調したようです。吉村武彦氏によると、「乙巳の年のクーデター」は、①唐の強大化②朝鮮半島の情勢(百済の弱体化)③国内の天皇外戚の圧力 等の諸点より背景を見なければならないといわれている。

 「万葉集」は630年頃から759年までの歌が約4500首収録されていますが、上は天皇から下は防人までほぼ全階層を網羅しています、国民的な文化的財産です。「雑歌」の中の額田女臣(ぬがたのおみ)と天智天皇の弟、大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)の2首を取り上げましょう。額田女臣と大海人皇子の間には十市皇女(といちのひめみこ)が生まれていた。後に、額田女臣は天智天皇の女となる。またその後に、十市皇女は天智天皇の子の大友皇子に嫁す。

 あかねさす 紫の行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや きみが袖ふる(額田女臣)

 668年5月5日、天智天皇は滋賀県の蒲生野の標野(一般の人が入れない、しめ縄で区切られ番人がいる。)で薬猟を行った。女性が薬草をとり男性が狩をする。狩をしていた大海人皇子が天智天皇の妃の一人の額田女臣をめざとく見つけて、袖を振ったのを野守が見ませんでしたか、と問う歌です。これはその後の宴会で歌ったようです。万座の中で大海人皇子が返歌します。

 むらさきの 匂えるきみを にくくあらば 人妻ゆえに われこいめやも

 堂々と、人妻だけれど、恋するよと額田女臣に返歌します。これらの歌が「相聞」に分類されていないので、相聞歌とは見られていません。

 天智天皇は、はじめのうちは後継者を弟の大海人皇子としていましたが、しだいに、自分の子の大友皇子に天皇をつがせたくなり、太政大臣を制定し、任命します。また前述の皇位が長子に移るという「不改常典」もつくられますので、身の危険を感じた大海人皇子は頭を剃り、吉野に引退することを天智天皇に求め、了承されて、吉野に隠棲します。

 次回でとりあげますが、大海人皇子は天智天皇没後の672年、壬申の乱をおこし、天智天皇の子、大友皇子に勝利し、天武天皇となります。大化改新で天皇に権力は集中しましたが、天皇家内部の骨肉の争いのたえぬ時代でした。(参考図書「古代王権の展開」吉村武彦 「日本史」新人物往来社 JTB「万葉集への旅」新人物往来社「日本史」他)