聖徳太子が遣隋使を派遣し、17条の憲法を作った後、天皇家は蘇我氏に外戚として牛耳られてきました。高校生時代、「大化改新虫5匹(ムシゴヒキ)」と645年のことを覚えたものでしたが、皇極天皇の同母弟軽皇子(孝徳天皇として即位)、皇極天皇の長子、中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)と中臣鎌足らが天皇家をわがものにするような権勢を誇る渡来系の蘇我氏を打倒したものでした。三韓の使者を迎える儀式で蘇我入鹿を韓人が討ったのです。古人大兄皇子(舒明天皇の皇子)が「韓人、鞍作臣(蘇我入鹿)を殺しつ、わが心痛し」と現場に居合わせ、自身の宮に逃げ帰って家人に告げた、とあります。この後、入鹿の父、蘇我蝦夷は自刃しました。
中大兄皇子は天皇を圧迫する外戚の勢力を駆逐して、天皇に権力が集中するように、唐の制度を参考として、律令制(律とは刑法、令とはそれ以外の国家的基本法)を作っていきます。646年(①公地公民制・・・土地人民が豪族の所有地・民から天皇に属するように考えた②国郡里の行政制度の導入③班田収受制④租庸調の税制統一・・・戸籍がつくられます。)大化改新後、孝徳天皇が皇位を継承し、難波に都を移しますが、後に、中大兄皇子が百済・倭軍が663年白村江(はくすきのえ)で唐・新羅軍に敗れ、668年天智天皇となり、近江に都を移し、長子天皇相続の不改常典をつくり、権力の中心となり、日本の統治機構の基礎をつくったといえましょう。年号は大宝律令以降、制定されますが、「大化」という私的年号で大きく化する節目を強調したようです。吉村武彦氏によると、「乙巳の年のクーデター」は、①唐の強大化②朝鮮半島の情勢(百済の弱体化)③国内の天皇外戚の圧力 等の諸点より背景を見なければならないといわれている。
「万葉集」は630年頃から759年までの歌が約4500首収録されていますが、上は天皇から下は防人までほぼ全階層を網羅しています、国民的な文化的財産です。「雑歌」の中の額田女臣(ぬがたのおみ)と天智天皇の弟、大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)の2首を取り上げましょう。額田女臣と大海人皇子の間には十市皇女(といちのひめみこ)が生まれていた。後に、額田女臣は天智天皇の女となる。またその後に、十市皇女は天智天皇の子の大友皇子に嫁す。
あかねさす 紫の行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや きみが袖ふる(額田女臣)
668年5月5日、天智天皇は滋賀県の蒲生野の標野(一般の人が入れない、しめ縄で区切られ番人がいる。)で薬猟を行った。女性が薬草をとり男性が狩をする。狩をしていた大海人皇子が天智天皇の妃の一人の額田女臣をめざとく見つけて、袖を振ったのを野守が見ませんでしたか、と問う歌です。これはその後の宴会で歌ったようです。万座の中で大海人皇子が返歌します。
むらさきの 匂えるきみを にくくあらば 人妻ゆえに われこいめやも
堂々と、人妻だけれど、恋するよと額田女臣に返歌します。これらの歌が「相聞」に分類されていないので、相聞歌とは見られていません。
天智天皇は、はじめのうちは後継者を弟の大海人皇子としていましたが、しだいに、自分の子の大友皇子に天皇をつがせたくなり、太政大臣を制定し、任命します。また前述の皇位が長子に移るという「不改常典」もつくられますので、身の危険を感じた大海人皇子は頭を剃り、吉野に引退することを天智天皇に求め、了承されて、吉野に隠棲します。
次回でとりあげますが、大海人皇子は天智天皇没後の672年、壬申の乱をおこし、天智天皇の子、大友皇子に勝利し、天武天皇となります。大化改新で天皇に権力は集中しましたが、天皇家内部の骨肉の争いのたえぬ時代でした。(参考図書「古代王権の展開」吉村武彦 「日本史」新人物往来社 JTB「万葉集への旅」新人物往来社「日本史」他)
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