吉村武彦著「古代王権の展開」より672年におこった、壬申の乱の経緯を写してみよう。
「671年天智帝の様態が悪化した。そこで大海人皇子が病床によばれ、後事を託された。大海人皇子は子供のいない皇后倭姫王の即位と大友皇子の立太子を進言した。暫定政権の提案をし、天智のために出家して修行すると申し出、ただちに宮殿内の仏殿でひげとかみを剃り、天智から与えられた袈裟を身につけた。2日後、吉野での仏道修行を許されると、即日、島の宮(明日香村島庄)へ急行した。時の人は「虎に翼をつけてはなてり」といったという。大海人は吉野宮に向かった。」
天智天皇薨去後の近江朝廷では、大友皇子が皇位につくべく、諸策が練られていたであろう。再び、吉村武彦著「古代王権の展開」よりその後の経緯を伝えよう。「近江朝では、天智陵の造営で民衆を挑発、武器をもたせているという。大海人が吉野に去って6ケ月経っていた。大海人皇子は伊勢、三重の東国入りを敢行した。 鸕野(うの)皇女(後の持統天皇)10歳になるかならぬかの草壁皇子と忍部(おさかべ)皇子、20余人の舎人、10余人の御宮の宮人が従った。途中、高市皇子とも合流し、豪雨の中も急行し、伊勢神宮に向かって遠く遥拝、大津皇子は鈴鹿関に到着、先発隊が不破道を防いだことも大海人に伝えられていく。」
大海人動くとの報は大友皇子側にもつたわったはずだ。「群臣ことごとく怖れをなし、京の内騒ぐ」と「日本書紀」に記されている。対応策を協議する大友皇子の諮問に、一人の臣が、すみやかに騎兵により追撃を進言するが、大友皇子に受け入れられなかった。大友は国評(こおり)制で地域行政機構より兵を募ろうとして正攻法の戦いに勝利しょうとしたと思われる。しかし、吉備と筑紫で功を奏せなかった。大友軍は内紛もあり、結局、敗走し、大友は山前(大山崎町か)で自刃する。
皇位を継いだ天武天皇は、飛鳥浄御原(きよみがはら)に都を置き、天皇に権力を集中させ、親政をしき、支配層は皇族で固め、律令体制へ漸進していく。679年、天武帝は持統皇后、草壁皇子、大津皇子、竹市皇子、*川島皇子、忍部(おさかべ)皇子、*施基皇子(*は天智帝の子)をひきつれ吉野宮に行幸した。皇子たちに千年後までの事なきを問い、6人の皇子の協同の誓いを約束させた。衣服の襟を開いて皇子たちをだきしめたといわれる。
伊勢の勢力が、大海人の陣営に加担したことにより、大三輪神社にあった、天皇家をまつる祭祀が、伊勢神宮に移ったと考えられます。
天武帝の大きなの仕事の一つは、国史の編纂指示である。世紀を越えて、712年「古事記」として720年「日本書紀」として大王家に伝わる歴史や、有力氏族に伝わる伝承を統合した日本史が編纂される。上述のように壬申の乱が詳細に経過がわかるのも、当時の現代史として、反乱ではない正当性をもたせる意味もあり、相当詳しく記録されている。
唐・新羅からの侵略防止対策としてのインフラ整備として09.10.12放映のNHK衛星TV「古代の大道」によると総長6300km(現在の高速道路6500km)、巾12-14メートルの大道をつくったとのことでした。専門家の試算では延べ3000万人の動員があったとのことでした。この大道を通って、都の情報を地方へ、地方の租税が都へ上っていったのでした。しかもこの道は下層に枯れ木枯れ枝を敷き、両側に溝を掘り、何層も土をかためたものでした。68の国府をつないでいました。大化改新ごろは道の駅家(うまや)には馬を常備し、宿泊施設をもって官人の公用していました。30里(約16km)毎に駅家を設置することを原則にしており、当時の権力が大きな力をそなえていたことがわかります。
古代大道を誰が設置の指示をし、いつ完成したかは不明ですが、大道はいずれその用を終り、農地等に転換されていきます。このような力は。663年、朝鮮百済の急援軍を出した白村江の戦いで2万8千人もの兵を送り込んで敗れますが、その後の対策ともいえましょう。今から考えるとびっくりするような実力が古代にはあったようです。
東アジアを意識し、律令制度の整備を進め、国史を整理統合発刊指示をだし、大和から日本として飛躍させたのが、天智天皇の後を引き継いだ、天武天皇であったと思います。
本稿の多くを吉村 武彦著「古代王権の展開」に依存しました。(参考 NHK10.12放映「古代大道」図書「日本史」新人物往来社 「古代王権の展開」吉村 武彦)
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