2010年3月6日土曜日

(思い込み古代史) 16. 752年 「大仏開眼」

 552年、百済の聖明王が仏教を伝えた。渡来系の蘇我氏が仏教崇拝し、排仏派の物部氏の排除に成功する。その後、聖徳太子が仏教に帰依し、高句麗僧の指導を受けて三経ぎしょう(維摩経・法華経・華厳経)を著します。仏教寺院も創っていく。仏教は、国家の守護の元に、仏教によって、鎮護国家をしょうとして、地方には国分寺と國分尼寺もつくられていきます。

 天智天皇から弟の天武天皇に皇統が移って、天武天皇と持統皇后(後に天皇)との長子で28歳で没した草壁皇子系統の、文武天皇が697年に即位します。藤原不比等の娘、宮子が文武天皇の妃として入第します。このふたりの間に生まれたのが聖武天皇で、不比等の別の女性に産ませた後の光明子が妃となります。ここにいくまでには、天武天皇の他の皇子の陰に陽にの反目活動がありました。依然として兄弟に皇位をゆずるべしとの考えも強かったのです。有名な事変は「長屋王の変」でした。長屋王は天武天皇の高市皇子の子ですが、聖武天皇の皇后に光明子がなることを「光明子は皇族の娘でないとして、皇族が皇后になる、との前例に反する」と反対を表明します。729年、長屋王は国家転覆の計画有と密告され、濡れ衣をきせられ、自死においやられます。

 藤原氏は外戚として、しだいに宮中に入っていきました。いろんな課題と悩みをかかえていたと思われる聖武天皇は740年、平城京から難波の宮に行幸した。その途中、河内国大県軍の知識寺の本尊を礼拝し、深く感動された。その時から聖武天皇が毘盧遮那仏をつくろうという思いをいだくいたった。743年、華厳経の教理に基づいて東大寺に毘盧遮那大仏を造る詔を下した。4年後着工し2年の工期8回の鋳継ぎを経て752年に開眼供養がおこなわれた。大仏殿は、文献によると749年に着工され、758年に竣工している。約86メートルx50メートルであった。聖武天皇はいろいろと迷いの多い方であったのでしょうか、その一つが皇位継承問題と想像され、(藤原系の光明皇后との子孫に引き継ぎたい思いがあったが、男子は幼少で死に、阿部内親王が生まれた。・・・後に、748年孝謙(764年称徳)天皇として女帝として即位、天武天皇系統がとだえ、天智天皇の、志貴皇子(いわばしる 垂水の上の さわらびの 萌えいずる 春になりにけるかも が万葉集に残されている。)の子が770年、光仁天皇として皇統が戻り、現在の天皇に続く。)740年平城京から恭仁京、難波京、紫香楽宮を転々とし、最後に745年平城京に戻ってきます。仏教を国家鎮護の根本のものとして自らの迷いも封じ込めたのでしょう。この間、陸奥の国守百済王敬福が黄金900両を献上した。大仏開眼はインド僧菩提遷那を導師に、中国、朝鮮の舞や音楽で祝われ、導師の筆に結び付けられた紐には聖武太政天皇、孝謙天皇、光明皇太后が連なっていて。まるで華厳の世界を現出しているようだったでしょう。各地域に設けられた国分寺、國分尼寺の頂点が東大寺だったのです。

 この頃の貴族の生活と、下級官吏の生活がどのようなものであったか、栄原 永遠男著「天平の時代」より食生活を紹介しましょう。

【長屋王】1988年に発見された平城京3条2坊にあった長屋王邸内の木簡によれば、あわび、各種野菜、蘇(牛乳を1/10になるまで煮つめたもの)その他豊富な食材を指定農地で栽培したものを食していた。邸宅は4町(約6万m2)東京ドームの約1.3倍でした。中央内部の中心的な建物は360m2の床面積でした。

【写経官吏】1日2食(白米と野菜海藻2皿)昼におもち出ることありで写経所に何十日も、泊まり込みで写経。家には、数日、病気届で帰れるのみ。腫瘍がよくでき、大変不潔であったよう。家族の住む宅地は中心部から離れているが、375m2-190m2であったと想像されます。

 律令制がひかれ、きつちりと租庸調がとられ、貨幣経済がスタートしはじめているが、大変庶民の生活は苦しかったようです。8000人程度の中央官吏で、日本が動かされていたよう。平城宮は人口10万人程度だったようです。

 国にとっても、庶民にとっても仏様がたよりだったのでしょうか、国乱れかけて孝子あらわる。庶民派の高僧となった人に行基がいます。布施屋をつくったり、道をつくったり、大仏勧進をされたりしました。聖武天皇は日本に大仏を作り、(1180平氏の焼き討ちで焼け、鎌倉時代に再建、戦国時代に又焼かれ、江戸時代の元禄期に再再建)光明皇后は、正倉院を残しました。財政が破綻寸前までいたる、不安を解消させるための膨張政策でした。しかし、現在まで人々に癒し続けていることは誠に立派なことだと思います。

 現代に置き換えると、ダムとかコンクリートのものは残っているが 1000兆円にも近々達すると思われる借金財政、増税は必須、官僚機構の統治の簡素化が、すぐにも始めなければならないのでしょう。そんなことが遥か13o0年前のことを考えると、焦燥感にかられます。「思い込み古代史」も平安時代が、すぐそこに近ずきましたので、次回で総括し、このシリーズのキーをおきたいと思います。

(参考図書 「天平の時代」栄原 永遠男 他)

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