2009年11月28日土曜日

(思い込み古代史) 7.纏向(まきむく)遺跡



 3世紀ごろの歴史を辿る場合、前項で見た中国の「魏志倭人伝」等の文献と物証とにたよることとなります。

 3世紀の物証としては各地の古墳が時代の勢力の示唆とともに前方後円墳に修練されていきます。大王が眠る場所として、有力な仮説を提供してくれます、古く(250年ころか)大きな(全長280メートル、後円部径150メートル、同高29.4メートル、前方部巾128メートル、同高さ16メートル)箸墓古墳など6つの古墳が北にある1km2に及ぶ奈良県桜井市纏向(まきむく)遺跡は6つの集落と交易手段をうかがわせる水路跡と最近マスコミで取り上げられた4つの東西に連なる宮殿跡(藤原京以降の宮殿は中国にならって南北に展開、東西軸は日本古来、最近発掘された建物跡は238mm2=出雲大社と構造が似て、真ん中に柱があり、人々がお参りするような現在の神社風に開けていず、人が建物の中に、こもって祭祀をしているような祈祷施設か?=)が発見されています、注目の地域です。ここに都市的なものがあつたと思わざるをえないでしょう。3世紀の半ばといわれる箸墓古墳は陵墓参考地(王家出身の巫女、倭迹日百襲姫(ヤマトトトヒメ))ですが、宮内庁が管理上で発見された埴輪が吉備地方がもとの器台と穴あき埴輪壺です。この埴輪は山陰の古墳でもみられます。巨大な前方後円墳のひろまりの元として、大和政権の王の墓として位置づけられましょう。大塚初重明治大学名誉教授によると吉備、出雲、播磨、大和の酋長が婚姻関係を結び、連合体が形成されていたと解釈されています。それをつなぐのが古墳から発掘された、埴輪だそうです。箸墓古墳の前哨段階の方墳が八塚、石塚古墳であると想定されています。石塚古墳で220年頃と想定されます。 上図は武光 誠「一冊でつかむ天皇と古代信仰」より借用しました。縄文時代の何者にも生命が宿るという精霊信仰は、その素地を残しながら、弥生時代以降、祖霊信仰に移行していき、各々を残しながらも古墳時代にはいると信仰の対象が地域を支配する首長の古墳=首長霊信仰=になっていきます。


 全国的に見て、墳丘墓から、纏向の箸墓古墳が前方後円墳へ突如巨大化し、大きな権力を示していることが、設楽博編「三国志がみた倭人たち」の右図によって理解できます。横軸に北九州、四国、山陰、岡山、大阪・奈良(箸墓が最大)、北陸、東海、千葉となっており縦軸の最下段が250-300年です。

 前方後円墳は紀元前後に朝鮮高句麗に先例があることが、同志社大学の森浩二氏、亡くなられた江上波夫氏、NHK取材班で調査されています。石塚、箸墓の前方後円墳と高句麗がどこでどのようにつながっていたのでしょうか。一説によると、前方後円墳の形は鏡を上から見た姿というのがありました。前項でとりあげた魏志倭人伝によると250年の少し前ころ、邪馬台国の卑弥呼が亡くなり、百余歩径(1.4㍍x100径)の冢をつくったとなっています。箸墓前方後円墳だとすると、後円墳の径160メートルと近値となります。その後の天皇家の確立とどのような繋がりがあるのでしょうか。陵墓参考地として発掘調査できないわけですから謎は謎のままです。

 では「日本書紀」や「古事記」の日本神話の伝承では、天皇家の成立をどのように告げているのでしょうか?次回とりあげたいと考えています。(参考した図書など:新人物往来社「必携古代史ハンドブック」 武光 誠「一冊でつかむ天皇と古代信仰」設楽博編「三国志がみた倭人たち」森浩一/NHK取材班「騎馬民族の道はるか」09.11月11日朝日新聞 他)

2009年11月21日土曜日

(思い込み古代史) 6.邪馬台国

[道のり]
 中国の3世紀の記録を晋につかえた陳寿が著した「魏志」の東夷伝中の「倭人」の条によれば、邪馬台国が女王卑弥呼を擁し、30ケ国を統轄、南にある男子の王としていた狗奴(くな)国と対立していた。魏の朝鮮に置いた帯方郡(現在のピョンヤン南または南西50kmあたり他特定されていない)から7000余里で北岸の狗邪(くや)韓国に至るとある。これは朝鮮の最南端にあると見てよい。
1. “始渡一海千余里至対馬国”“有千余戸”、現在の対馬列島にあたる。
2. “又南渡一海千余里至一大国”“有三千許家”“有田地、耕田猶不足食、又南北市糴”壱岐のことであろう。田を耕すも食べるに十分でなく南北に市があるといってい
3. “又渡一海千余里至末盧国有四千余戸”九州に渡ってきたとみてよいようだ。末盧国は、山に海に面し、草木も繁り、魚をよく取り、海は遠浅で皆、潜って魚類を取っている、と書かれている。[壱岐の南の、現在の東松浦(まつらという名で部分が共通する)半島の唐津あたりと考えられている。]
4. “東南陸行五百里到伊都国”“有千余戸”“皆統属女王国” 皆女王国に属している。“郡使往来常所駐”邪馬台国の郡使が常駐している。[福岡の西の糸島半島の前原市あたり]
5. “東南至奴国百里”江戸時代に九州志賀島で金印出土したことで有名な奴国“有二萬余戸”大きなクニだったようだ。[博多のある位置
6. “東行至不弥国百里”“有千余家”[博多の東北より約20kmのところ
7. “南至投馬国水行二十日”“可五萬余戸”そしていよいよ
8. “南至邪馬台国女王之所都”“水行十日、陸行一月”“可七萬余戸”につく。
南に狗奴国があり、男子を王とし、従わず。女王国の北の国々は戸数や道のりをほぼ記すことができるが、それ以外の方向につななる国々は遠すぎて詳細を知ることが出来ない。女王国のさらにむこうには、斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国がある。以上21国と先述の朝鮮半島1国、邪馬台国含めて8国、しめて合計30国となる。

[何処にあつたか]女王国は大海の中のぐるっと巡れば、周囲5千余里の列島で、(中国揚子江下流南の)会稽郡や東冶郡の東海上にあつたであろう。邪馬台国は、帯方郡から12.000里のところにある。女王国の更に東に1千余里の海を渡ると、別の国々があり、倭と同種の人々が住む。さらに南は侏儒国(身の丈3,4尺)、女王国から4千余里の距離にある。裸国、黒歯国はさらに東南、船で1年の航海をしていきつく。

(九州説左図下の部分ご参照)末盧国⇒東南陸行五百里到伊都国[邪馬台国の郡使がいた重要拠点]からは、シリーズ(連続)に読むのでなく、伊都国から東南至奴国百里、伊都国から東行至不弥国百里、伊都国から南至投馬国水行二十日、伊都国から南至邪馬台国女王之所都”“水行では十日、陸行では一月と読む説が現われた。それに従うと、邪馬台国は九州内に納まる。宮殿跡として北九州の佐賀、吉野ヶ里遺跡もあるがまとまりがなく、鏡出土に今ひとつ迫力にかけ物的証拠が弱いという欠点があります。後に盲目となった亡き島原鉄道経営者宮崎康平氏は「まぼろしの邪馬台国」で、一つ一つのクニの場所を特定しながら島原あたりが邪馬台国だろうといっておられた。別途帯方郡から邪馬台国まで12,000里とあるので、朝鮮南端の狗邪韓国まで7,000余里だから、狗邪韓国から対馬、壱岐、九州まで計3,000里の海を越えると差引2000里のところに邪馬台国があったことになり北九州となる。行程記載を信ずれば九州説が理解できます。仮に男王を有する南の狗奴国を熊襲となります。

(大和説)伊都国(邪馬台国の郡吏がいる)から、東南百里で奴国、東行百里で不弥国、日本が現在のように西から東にあると理解せず、南に列島がつらなっていたと3世紀の中国の人が考えていたとすれば、南(⇒東)水行20日投馬国(出雲または吉備)、南(⇒東)水行10日(若狭湾あたりまたは大阪か)陸行1月で邪馬台国(大和)に至る。南に敵対する男王を有する狗奴(くな)国主とはイセであろうか。主に考古学の成果を持って判断すると、後述の魏王から拝領した鏡100面が近畿地方の古墳からよく出土していることや、その後のヤマトの支配者の君臨からすると理解しやすくなる。さらにヤマトでも巻向とすると09年11月のマスコミ報道で、日本の広い地域からの土器が出土していること、東西軸に4棟の建物があったと伝えられた(3世紀の建物と特定できるかが焦点、周辺溝の発見土器が3世紀という傍証によるが)ことから、邪馬台国ヤマト説が有力となります。しかし、東に1千余里の海を渡ると倭種の国々があると記述されていますが、大和は山間の地で海は遠く、この点がいかがでしょうか。また、海の東とは東海地方のことを指したのでしょうか。南は侏儒国、東南の船で1年の裸国、黒歯国はフィリッピンあたりをさしているのでしょうか!?ヤマトに邪馬台国があつたとすると、人々から怖れられている一大卒(重要監察署で郡使)を伊都国(九州唐津)に置くという、当時として距離があまりにも離れていないでしょうか。(九州説では理解しやすい)


 卑弥呼がなくなって後100人の従者を従えて百余歩径の塚にほおむられたという。1歩は当時1.4メートルとすれば140メートル強の径となる。古代史家のある人々は奈良桜井市の陵墓参考地の箸墓古墳を卑弥呼の墓と擬する。魏王から100面の鏡をうけとったということであり、出土3600面中の500面(1/7)が三角縁神獣鏡(中国では発掘されていないが年号記名の景初3年=239=卑弥呼が魏に使者貢物を派遣して、正始元年=240=銅鏡を受け取った年 のある鏡が含まれる)で、大和近辺に大量に出土する古墳(椿井大塚山=京都府山城町=32面、黒塚=奈良県天理市=33面)がある。ヤマト説の場合の敵対する狗奴国は伊勢湾近辺にになります。

 はて、さてもさても、邪馬台国は何処にあったのでしょうか?

[風俗・風習]“男子皆鯨面文身”入れ墨をしていた。初めは恐ろしい魚に対しての威嚇であったようだが、最後には飾りとなっていた。尊卑による区別がある。朱や丹を身体にぬる。その風俗は質素である。男子は植物で作った鉢巻をし、着物は幅広い布をただ結び合わせるだけで縫わない。女性はざんばら髪で一部をたばねて髷を結い、着物は貫頭衣であった。誰もがはだしである。男性は4-5人の妻をもち、下戸でも2-3人の妻を持つ。婦人たちの身持ちはよい。嫉妬せず、盗みはせず、訴訟沙汰もすくない。法を犯すものがいると、妻子を没収され、思い場合、一門全体が根絶やしされる。人々は生まれつき酒が好きである。下戸のものが道で大人に会うと、後すざりして草の中にはいり、言葉を伝えたり、説明したりする時は、うずくまったり、ひざまづいたりして両手を地につき、大人に対する恭敬を表す。答えるときは「噫」といい、中国で言う、承知しましたというのと似ている。

[耕作物]イネや麻を植え、蚕をかってそれを糸で紡ぎ目の細かい麻や絹を産出する。

[動物]牛・馬・トラ・ヒョウ・羊・かさざぎはいない。大ざる、黒雉がいる。

[兵器]“兵矛楯木弓”木弓は下が短くて上が長く(銅鐸で確認できる。)竹に鉄製や骨性の鏃(やじり)をつけている。

[住居]ちゃんとした家に住み、父母兄弟で寝間や居室を別にする。

[飲食]飲食にはたかつきを使い、手づかみで食べる。夏冬とも生野菜を食べる。しょうが、橘、山椒、みょうがなど取れるのに食べるものとは知らない。

[産物]真珠や青玉を産する。山地に丹を産する。木材として楠・とちの木・やまぐわなどを産し、竹には篠竹他がある。

[市場]地方の物産の交易がおこなわれている。

[租税倉庫]租税や賦役が課せられ、租税を納める倉庫がある。

[一大卒]女王国の北の地域には一大卒がおかれ、国々を監視し、国々はそれを恐れている。一大卒は伊都国に役所を置き中国の刺史のような権威を持っている。倭王が魏国へあるいは魏の朝鮮の出先機関の帯方郡に贈り物を送ったり、帯方郡から魏の使者が到着すると、女王の下に誤り無くその詳細を伝えるため、厳重にチェックをおこなう。

[暦]正月とかの考えは無く、春の耕作と秋の収穫で年を数えている。

[女王と居館]7-80年も争いがたえなかったが、卑弥呼を女王として後、国々は治まっていった。鬼神崇拝の祭祀者として人々の心をつかんでいった。彼女はかなりの年齢に達していた。王位について以来、目通りしたものはほとんどいない。千人の侍女を侍らせ、男子がただひとりいて、食事を給したり、女王の言葉を伝達したりした。起居するのは宮室や楼観の中でまわりは城壁や柵が厳しくめぐらされ、兵器をもったものが四六時中、警護に当たった。

[親魏倭王]景初2年(238)6月、倭の女王は魏王に貢物をすべく、帯方郡に太夫の難升米(なしめ)を派遣、帯方郡太守は役人と兵士をつけて倭使を魏の都に案内させた。「親魏倭王の卑弥呼に詔す。汝の献上物、男の奴隷4人、女の奴隷6人、班布2匹2丈をはるかな遠い地にもかかわらず、使者とともによこした。忠孝の情に心動かされた。汝に親魏倭王とし、金印紫綬を仮授する。」と多くの贈り物と一緒に刀2ふり、銅鏡100枚を、魏の徳を汝の国の人々に広くしらしめよ、とし、目録ともに授かった。正始元年(240)帯方太守は使いを倭国に派遣し、印綬をたずさえ詔書と金銀鏡刀他を与えた。

[占い]何かことがおこると、また特別なことをすると、骨を焼いてト(ぼく)し、吉凶を占う。

[女王の墓]卑弥呼が死ぬと大規模な冢(つか)が築かれた。その径、百余歩(140メートル強)奴婢百人以上が殉葬された。

「魏志倭人伝」を原文、翻訳文とも項目ごとに記載内容を前後してまとめて記載しました。

[今を去るサラリーマン時代、九州出身の上司の押す、九州説に感化され、また畏友富田 弘氏の熱弁をふるうヤマト説にも小生は、答えることもできませんでした。にわか思い込み古代史ファンの小生は、09.10月までは魏志倭人伝の文言を読むほどに九州説、11月以降、マスコミ報道に後押しをされて前方後円墳の歴史的配置や出土鏡等、考古学の本で物証を求めると、ヤマト説になってきました。いずれにしても、古代史最大のロマンです。]
(参考図書 宮崎康平「まぼろしの邪馬台国」、設楽博己編「三国志がみた倭人たち」他)

2009年11月15日日曜日

(思い込み古代史) 5.出雲王国

 弥生時代後期、2世紀半ばに出雲に王国がてきていました。紀元前後あたり、出雲地区には北九州から海路、陸路をとおって移動してきた農耕技術をもった人達や直接、半島から日本海を渡ってきた渡来人たちが小規模のムラを作って稲作を展開していました。精霊崇拝の縄文人も混血しながら合流したことでしょう。しだいにムラムラは農耕祭祀の中心に刀をあがめるようになりました。出雲の国々を統轄する王が出て島根県斐川町の荒神谷で祭祀を行ったのでしょう、同谷丘陵斜面の地中に丁寧に4列、358本の銅剣と近くに銅鐸6ケ、銅矛16本をうずめたのが1984~5年に発掘されました。出雲地区には銅剣と同数の358の神社があったとみられています。邪馬台国より約30年前のことでした。

 出雲神社を造りますが、16丈(48メートル)の社であったいわれています。有力者は高句麗に原形のあります四隅突出型の墳墓を作ります。

 後のヤマトの勢力は出雲より国譲りをせまり、4世紀半ば、ヤマト政権は出雲を傘下におくようになります。前方後方墳であった古墳も、その後はヤマトの影響を受けて前方後円墳となっていきます。ヤマトの祖霊祭祀の対象は鏡でした。やがてヤマト王権の即位の象徴を3種の神器として、ヤマトの鏡、イズモの剣、(イセ?の)勾玉と、勢力を統合をした象徴としていきます。


 ヤマトの古墳の周りを囲む埴輪の特殊基台は吉備で発祥したものであり、図のような出雲・吉備・ヤマトの一連のつながりが見えるのも興味深いことです。09年11月の朝日新聞報道で、卑弥呼の宮殿跡か?とセンセーショナルな報道のありました。奈良県桜井市巻向に3世紀の巨大神殿跡と想定される建物群が発掘されていますが、その内の一つが出雲大社の構造と似ているとの文言があったと記憶しています。古代史を揺るがしかねない発見であったと思われます。

 邪馬台国はどこにあったか、古代史最大の謎を次回以降にとりあげる予定です。(図は大塚初重・吉村武彦「必携古代史ハンドブック」)(参考図書 竹光 誠著「一冊でつかむ天皇と古代信仰」)

2009年11月6日金曜日

(思い込み古代史) 4.弥生人の生活

 
 紀元前300年ころから紀元後2-300年ころを弥生時代といわれています。東京都文京区弥生2丁目から出土した無紋壺型土器の普及する時代を弥生時代といい、大陸ルートから主として朝鮮半島から、稲作・青銅器・鉄器文明が渡来人と共に入ってきました。弥生人の顔は面長一重まぶたで、縄文人の四角、ひげが濃い人々と違っています。図は埴原和郎「日本人の顔」より拝借しました。弥生土器は、質実で、機能本位でした。保存する、煮炊きする、食物をのせる、水。湯をそそぐ、・・・・縄文時代は土器にさまざまな祈りを込めました。弥生時代は器をさまざまな機能としてのみとらえ、祈りは銅製品の銅鐸、銅剣、銅矛や銅鏡や鉄剣という大陸・半島渡来のものに移っていきました。 


 食料を自分達で作れるようになり、一定の土地に定着していきます。北九州に入ってきた渡来人たちは、既住の縄文人と混血しながら、東へ陸路と海路より稲作文明を携えて日本列島の北の端まで、驚くべきスピードで伝播していきます。稲作は、水利、田植え、刈り取りといった共同作業が発生するため、集団で住み、差配するものが出て、貧富の差ができてきます。集団の人々はムラを形成し、他のムラとの争いも発生し、外敵侵入防止のため堀をもうけるようになります。紀元後57年九州北部に「奴国」があったころ100余国にわかれていたといわれ、「後漢書」東夷伝によると紀元後147年から189年の間、「倭国大いに乱れ」とあります。
 

 3世紀、「魏志倭人伝」による邪馬台国は、みはり小屋があり、卑弥呼が呪術的権威で30ケ国の上にたち、男子が補佐し治めていたと記されています。また、刺青をして、よく水没して魚を取るともあります。刺青については、縄文時代の発掘された土器で全国にひろがっていたことを確認できますし、水没して魚に対する際の魔よけと考えられます。紀元前の中国南部の越でも入れ墨をしていたという「史記」「越世家」の記録(BC5-6世紀ごろ越王こうせん、文身断髪し、雑草をひらきて邑をつくる=文身=入れ墨)が残っています。佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、環濠集落を形成し、周囲を濠でかこみ、広いところで巾、6.5メートル、深さ3メートルもあります。物見やぐら(図参照)もありました。静岡県の環濠遺跡では、何重も堀をつくり、一番外の堀には逆茂木をおいていました。稲作の定期的な収穫で、豊かになったのですが、水利などのことにより争いが、たえなくなったことは皮肉なことです。このころに、もし住んでいれば、大変緊張した人生をおくった事でしょう。でも、食生活は結構豊かとなり、縄文時代食事に主食のご飯に家畜となったブタが加わり、お箸が発掘されていませんので、(朝鮮式の食べ方 茶碗を持たずに食台において箸等を動かして食べる)食器にごはん(おこわ・・・アズキが食されたいました。)、おかず(マメ類、南京、大根、いも類、豚肉や、冬場は鮒ズシもあったと思います。)がのり、手でとって口に運び、熱い物はスプーンを使ったものと思われます。着るものはカラムシやタイマによって織られた貫頭衣でアクセサリーは貝や、地位の高い人達は勾玉やヒスイでネックレス等をしていたことでしょう。住は縦穴式で1㍍ほど地面を掘り下げ、まわりをすこし高くして水の浸入を防ぎ、屋根は萱やヨシで屋根を葺き、真ん中にいろりがあった1LDKでしょう。魚の干物はつりさげて保存していたでしょう。お米は高床式の倉庫を造って保存していましたし、クリやどんぐりやトチの木の実を地下に埋めて保管していました。

 次回は出雲王国、次次回は邪馬台国と更に弥生時代の探索を続けていきたいと思っています。

(参考図書 人物往来社「日本史」 金達寿「渡来人と渡来文化」 藤堂明保「中国名言集(上)」 大塚和重 吉村武彦「必携古代史ハンドブック」 大塚和重「弥生時代の時間」)

2009年11月1日日曜日

「思い込み古代史」 3.縄文時代の衣食と住


 1879年、E.S.モースが大森貝塚を発見した際、出土した土器に世界でも類例の無い縄目模様が入っていたことで、(cord marked pottery)と名づけ、縄文土器と称するようになった。縄文土器が発掘されたBC10,000年からBC300年を縄文時代という。 

(衣)植物の繊維で布を織り、衣服を作っていたが、寒い時期は動物の皮を人間の歯でなめして衣服としていた。そのため、歯は道具の一つとなり歯は極端に磨耗していた。 


(食)食は、採集でドングリ、トチ・栗の実くるみや、クズ、ワラビ、ヤマイモ等のいも類、狩猟は、鹿、猪などであった。漁労では鮭、鱈、コチ、ハモ、クロダイ等魚類や貝類であった。
<中国大陸東北部、朝鮮半島から列島中央以北のコナラやブナの落葉広葉樹帯をナラ林文化圏>ドングリは深鉢の縄文土器により、列島中央以北は、あく抜きを煮炊きによっていました。
<シイ、カシ等常緑照葉樹帯は東南アジアや中国雲南から長江下流域から列島中央部以西を照葉樹林文化圏> 列島中央以西では、どんぐりは水でさらしていました。なれずしや、鵜飼、納豆、歌垣の照葉樹林文化の芽生えがこのころにあったのでしょうか。(これらは朝鮮半島ではみられませんでした。)(図は佐々木高明「日本史誕生」より)
 不思議に思うことは、時代が下た江戸時代の一般庶民のほうが、縄文人より栄養状態が悪かったことです。歯のエナメル質の形成が江戸時代の庶民より、縄文人の方がよく形成されていたというデーターがあります。江戸時代は平均寿命30歳くらいだったようですから、
縄文時代はもう少し長生きでしたでしょうか?福井県の鳥浜縄文人の生活は発掘されたものから図(池田次郎「日本人の起源」より)のようなものであったと想定されています。春夏秋は魚の季節、春は山菜取り、秋は木の実取り、冬に向けて貯蔵し、冬は狩の季節だった。案外、快適であったようです。花粉分析によると、BC4,500年ごろ、温暖化し、この地域ではブナ等の落葉広葉樹からしだいにシイ・カシの照葉樹やスギの花粉が増えてきたとのことでした。照葉樹林帯は焼畑で、二次林が生育し、ひょうたんやリョクトウ、エゴマやシソが栽培されていました。

(住)保存用の縄文式土器が作られて、BC9000~8000年頃から定住をはじめており、縦穴式住居に住み、最初は数戸からしだいに戸数を増やし、20戸くらいでムラをつくっていました。

(祈り)発掘された土偶は破損されていて、女性をイメージされ、粉砕して埋められていました。貝塚も捨てられた貝や骨などは、単にゴミとして捨てられたのではなく、土偶も共に、再生して欲しいという祈りがあったのではないでしょうか。

世界でも珍しい縄目を利用した装飾土器は呪術の対象ともなる土器も作っていました。火炎型土器や踊る精霊を描いたと思える土器が発見されています。縄文人の根底には、精霊に対する祈り、それらが描かれた土器等のものへの執着と再生への祈りの心が芽生えていたと思われます。青森県にあった三内丸山遺跡では共同で集落を営んでいたことがわかっています。
(差別化はじまる)縄文晩期には、歯を抜く風習が見られます。広く中国でもあったようですが、歯の抜き方で地位をあらわしていると学者は指摘しています。共同生活によって支配するものと支配されるものが分化してきます。
縄文人の歯は木の実をすりつぶして食べていたので磨耗が激しかったことが知られています。現在のように前歯の上下が前後に交合せず、向かい合っていました。
やがて、稲作技術をもった渡来人が日本列島にやってきて縄文人と混血しながら西から東へ定着していきます。[約1万年も続いた縄文時代は、土器の開発により定住が可能となり、狩猟・漁労・採集で比較的、豊かで静かな平和な時代であったようです。列島中央以西地域の照葉樹林帯では今につながる、なれずしや納豆、歌垣が中国大陸南部地方からもたらされたと想定されます。以降に稲作文明が登場しますが、支配と被支配の社会に変容していきます。]
 (参考図書 佐々木高明「日本史誕生」、池田次郎「日本人の起源」、埴原和郎「日本人の骨とルーツ」土器イラストは関係HPより借用しました。BLOG上からお礼申し上げます。)