2009年11月6日金曜日

(思い込み古代史) 4.弥生人の生活

 
 紀元前300年ころから紀元後2-300年ころを弥生時代といわれています。東京都文京区弥生2丁目から出土した無紋壺型土器の普及する時代を弥生時代といい、大陸ルートから主として朝鮮半島から、稲作・青銅器・鉄器文明が渡来人と共に入ってきました。弥生人の顔は面長一重まぶたで、縄文人の四角、ひげが濃い人々と違っています。図は埴原和郎「日本人の顔」より拝借しました。弥生土器は、質実で、機能本位でした。保存する、煮炊きする、食物をのせる、水。湯をそそぐ、・・・・縄文時代は土器にさまざまな祈りを込めました。弥生時代は器をさまざまな機能としてのみとらえ、祈りは銅製品の銅鐸、銅剣、銅矛や銅鏡や鉄剣という大陸・半島渡来のものに移っていきました。 


 食料を自分達で作れるようになり、一定の土地に定着していきます。北九州に入ってきた渡来人たちは、既住の縄文人と混血しながら、東へ陸路と海路より稲作文明を携えて日本列島の北の端まで、驚くべきスピードで伝播していきます。稲作は、水利、田植え、刈り取りといった共同作業が発生するため、集団で住み、差配するものが出て、貧富の差ができてきます。集団の人々はムラを形成し、他のムラとの争いも発生し、外敵侵入防止のため堀をもうけるようになります。紀元後57年九州北部に「奴国」があったころ100余国にわかれていたといわれ、「後漢書」東夷伝によると紀元後147年から189年の間、「倭国大いに乱れ」とあります。
 

 3世紀、「魏志倭人伝」による邪馬台国は、みはり小屋があり、卑弥呼が呪術的権威で30ケ国の上にたち、男子が補佐し治めていたと記されています。また、刺青をして、よく水没して魚を取るともあります。刺青については、縄文時代の発掘された土器で全国にひろがっていたことを確認できますし、水没して魚に対する際の魔よけと考えられます。紀元前の中国南部の越でも入れ墨をしていたという「史記」「越世家」の記録(BC5-6世紀ごろ越王こうせん、文身断髪し、雑草をひらきて邑をつくる=文身=入れ墨)が残っています。佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、環濠集落を形成し、周囲を濠でかこみ、広いところで巾、6.5メートル、深さ3メートルもあります。物見やぐら(図参照)もありました。静岡県の環濠遺跡では、何重も堀をつくり、一番外の堀には逆茂木をおいていました。稲作の定期的な収穫で、豊かになったのですが、水利などのことにより争いが、たえなくなったことは皮肉なことです。このころに、もし住んでいれば、大変緊張した人生をおくった事でしょう。でも、食生活は結構豊かとなり、縄文時代食事に主食のご飯に家畜となったブタが加わり、お箸が発掘されていませんので、(朝鮮式の食べ方 茶碗を持たずに食台において箸等を動かして食べる)食器にごはん(おこわ・・・アズキが食されたいました。)、おかず(マメ類、南京、大根、いも類、豚肉や、冬場は鮒ズシもあったと思います。)がのり、手でとって口に運び、熱い物はスプーンを使ったものと思われます。着るものはカラムシやタイマによって織られた貫頭衣でアクセサリーは貝や、地位の高い人達は勾玉やヒスイでネックレス等をしていたことでしょう。住は縦穴式で1㍍ほど地面を掘り下げ、まわりをすこし高くして水の浸入を防ぎ、屋根は萱やヨシで屋根を葺き、真ん中にいろりがあった1LDKでしょう。魚の干物はつりさげて保存していたでしょう。お米は高床式の倉庫を造って保存していましたし、クリやどんぐりやトチの木の実を地下に埋めて保管していました。

 次回は出雲王国、次次回は邪馬台国と更に弥生時代の探索を続けていきたいと思っています。

(参考図書 人物往来社「日本史」 金達寿「渡来人と渡来文化」 藤堂明保「中国名言集(上)」 大塚和重 吉村武彦「必携古代史ハンドブック」 大塚和重「弥生時代の時間」)

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