2009年11月28日土曜日

(思い込み古代史) 7.纏向(まきむく)遺跡



 3世紀ごろの歴史を辿る場合、前項で見た中国の「魏志倭人伝」等の文献と物証とにたよることとなります。

 3世紀の物証としては各地の古墳が時代の勢力の示唆とともに前方後円墳に修練されていきます。大王が眠る場所として、有力な仮説を提供してくれます、古く(250年ころか)大きな(全長280メートル、後円部径150メートル、同高29.4メートル、前方部巾128メートル、同高さ16メートル)箸墓古墳など6つの古墳が北にある1km2に及ぶ奈良県桜井市纏向(まきむく)遺跡は6つの集落と交易手段をうかがわせる水路跡と最近マスコミで取り上げられた4つの東西に連なる宮殿跡(藤原京以降の宮殿は中国にならって南北に展開、東西軸は日本古来、最近発掘された建物跡は238mm2=出雲大社と構造が似て、真ん中に柱があり、人々がお参りするような現在の神社風に開けていず、人が建物の中に、こもって祭祀をしているような祈祷施設か?=)が発見されています、注目の地域です。ここに都市的なものがあつたと思わざるをえないでしょう。3世紀の半ばといわれる箸墓古墳は陵墓参考地(王家出身の巫女、倭迹日百襲姫(ヤマトトトヒメ))ですが、宮内庁が管理上で発見された埴輪が吉備地方がもとの器台と穴あき埴輪壺です。この埴輪は山陰の古墳でもみられます。巨大な前方後円墳のひろまりの元として、大和政権の王の墓として位置づけられましょう。大塚初重明治大学名誉教授によると吉備、出雲、播磨、大和の酋長が婚姻関係を結び、連合体が形成されていたと解釈されています。それをつなぐのが古墳から発掘された、埴輪だそうです。箸墓古墳の前哨段階の方墳が八塚、石塚古墳であると想定されています。石塚古墳で220年頃と想定されます。 上図は武光 誠「一冊でつかむ天皇と古代信仰」より借用しました。縄文時代の何者にも生命が宿るという精霊信仰は、その素地を残しながら、弥生時代以降、祖霊信仰に移行していき、各々を残しながらも古墳時代にはいると信仰の対象が地域を支配する首長の古墳=首長霊信仰=になっていきます。


 全国的に見て、墳丘墓から、纏向の箸墓古墳が前方後円墳へ突如巨大化し、大きな権力を示していることが、設楽博編「三国志がみた倭人たち」の右図によって理解できます。横軸に北九州、四国、山陰、岡山、大阪・奈良(箸墓が最大)、北陸、東海、千葉となっており縦軸の最下段が250-300年です。

 前方後円墳は紀元前後に朝鮮高句麗に先例があることが、同志社大学の森浩二氏、亡くなられた江上波夫氏、NHK取材班で調査されています。石塚、箸墓の前方後円墳と高句麗がどこでどのようにつながっていたのでしょうか。一説によると、前方後円墳の形は鏡を上から見た姿というのがありました。前項でとりあげた魏志倭人伝によると250年の少し前ころ、邪馬台国の卑弥呼が亡くなり、百余歩径(1.4㍍x100径)の冢をつくったとなっています。箸墓前方後円墳だとすると、後円墳の径160メートルと近値となります。その後の天皇家の確立とどのような繋がりがあるのでしょうか。陵墓参考地として発掘調査できないわけですから謎は謎のままです。

 では「日本書紀」や「古事記」の日本神話の伝承では、天皇家の成立をどのように告げているのでしょうか?次回とりあげたいと考えています。(参考した図書など:新人物往来社「必携古代史ハンドブック」 武光 誠「一冊でつかむ天皇と古代信仰」設楽博編「三国志がみた倭人たち」森浩一/NHK取材班「騎馬民族の道はるか」09.11月11日朝日新聞 他)

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