弥生時代後期、2世紀半ばに出雲に王国がてきていました。紀元前後あたり、出雲地区には北九州から海路、陸路をとおって移動してきた農耕技術をもった人達や直接、半島から日本海を渡ってきた渡来人たちが小規模のムラを作って稲作を展開していました。精霊崇拝の縄文人も混血しながら合流したことでしょう。しだいにムラムラは農耕祭祀の中心に刀をあがめるようになりました。出雲の国々を統轄する王が出て島根県斐川町の荒神谷で祭祀を行ったのでしょう、同谷丘陵斜面の地中に丁寧に4列、358本の銅剣と近くに銅鐸6ケ、銅矛16本をうずめたのが1984~5年に発掘されました。出雲地区には銅剣と同数の358の神社があったとみられています。邪馬台国より約30年前のことでした。
出雲神社を造りますが、16丈(48メートル)の社であったいわれています。有力者は高句麗に原形のあります四隅突出型の墳墓を作ります。
後のヤマトの勢力は出雲より国譲りをせまり、4世紀半ば、ヤマト政権は出雲を傘下におくようになります。前方後方墳であった古墳も、その後はヤマトの影響を受けて前方後円墳となっていきます。ヤマトの祖霊祭祀の対象は鏡でした。やがてヤマト王権の即位の象徴を3種の神器として、ヤマトの鏡、イズモの剣、(イセ?の)勾玉と、勢力を統合をした象徴としていきます。
ヤマトの古墳の周りを囲む埴輪の特殊基台は吉備で発祥したものであり、図のような出雲・吉備・ヤマトの一連のつながりが見えるのも興味深いことです。09年11月の朝日新聞報道で、卑弥呼の宮殿跡か?とセンセーショナルな報道のありました。奈良県桜井市巻向に3世紀の巨大神殿跡と想定される建物群が発掘されていますが、その内の一つが出雲大社の構造と似ているとの文言があったと記憶しています。古代史を揺るがしかねない発見であったと思われます。
邪馬台国はどこにあったか、古代史最大の謎を次回以降にとりあげる予定です。(図は大塚初重・吉村武彦「必携古代史ハンドブック」)(参考図書 竹光 誠著「一冊でつかむ天皇と古代信仰」)
0 件のコメント:
コメントを投稿