出雲神社を造りますが、16丈(48メートル)の社であったいわれています。有力者は高句麗に原形のあります四隅突出型の墳墓を作ります。
後のヤマトの勢力は出雲より国譲りをせまり、4世紀半ば、ヤマト政権は出雲を傘下におくようになります。前方後方墳であった古墳も、その後はヤマトの影響を受けて前方後円墳となっていきます。ヤマトの祖霊祭祀の対象は鏡でした。やがてヤマト王権の即位の象徴を3種の神器として、ヤマトの鏡、イズモの剣、(イセ?の)勾玉と、勢力を統合をした象徴としていきます。
ヤマトの古墳の周りを囲む埴輪の特殊基台は吉備で発祥したものであり、図のような出雲・吉備・ヤマトの一連のつながりが見えるのも興味深いことです。09年11月の朝日新聞報道で、卑弥呼の宮殿跡か?とセンセーショナルな報道のありました。奈良県桜井市巻向に3世紀の巨大神殿跡と想定される建物群が発掘されていますが、その内の一つが出雲大社の構造と似ているとの文言があったと記憶しています。古代史を揺るがしかねない発見であったと思われます。
邪馬台国はどこにあったか、古代史最大の謎を次回以降にとりあげる予定です。(図は大塚初重・吉村武彦「必携古代史ハンドブック」)(参考図書 竹光 誠著「一冊でつかむ天皇と古代信仰」)
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