新年明けましておめでとうございます。
富田 弘氏の[反論]邪馬台国について その3 以下をもって 一旦、掲載を終了します。その後の古代史思い込み人中川 昌弘の連載に、またまた 反論いただけるかもしれません。一人よがりを排し、対立した意見に謙虚に思い込みの修正をするところに"進歩"や"深化"があると思います。今年も勉強を続けてまいります。よろしくお願い申し上げます。('10.1.1 中川 昌弘)
3 東遷説
①九州の国がヤマトに移動し邪馬台国をあるいは②4C末に九州にあった邪馬台国がヤマトの既存の勢力(初期ヤマト政権)を倒し新ヤマト政権を建てたという筋書です。ベースには神武東遷説や応神東遷説があるわけですが、考古学的にはまったく裏づけがありません。神武東遷説は虚構で応神東遷説は仮説レベルです。なぜ東遷する必要があるのか、なぜ行き着く先はヤマトなのか。もっと先に行ってもいいのではないか。そして考古学的な裏づけはなくとも、九州に本拠を残してヤマトに進出したということなら勢力拡大としてありうるが、なぜ本拠を捨てたのでしょう。どのようにして一族や国の集団を引き連れながら移動したのでしょうか。途中には多くの国があったはずで併合したのでしようか。そうでなければどう乗り越えたのでしょうか。
①の場合邪馬台国を建てたヤマトは無人の荒野ではありません。集団移住するような魅力的な土地であれば、土地も肥え当時から人口も多かったはずです。仮に鉄製武器を持っていたとしても当時の戦いは石製の武具が中心です。簡単に征服されたとは思えません。
②の場合倭国はすでに鉄の時代です。考古学的にも九州の優位性は見られません。騎馬民族が朝鮮半島を南下し九州に建国(邪馬台国あるいは狗奴国など)、後に東遷しヤマトに新政権を建てたという騎馬民族征服説もありえません。大平原ならともかく、海を渡って、山地、樹林、河川で分断されている日本の国土を騎馬で征服できるしょうか。騎馬の風習を持った多くの渡来人が長年に渡り日本に来たことと混同してはいけません。以上が明確にならない限り東遷説は成り立ちません。
4 まとめ
以上、総合的に考えるとやはり畿内説が合理的です。道程を恣意的に変えた倭人伝
も、南を東に補修することでスムーズにつながります。
5 その他
本質的な邪馬台国論は単なる邪馬台国の場所探しだけではなく、日本の国としての誕生を考えることで、この視点から邪馬台国のその後も必要です。九州説への注文とともに考えを述べます。
■九州説は候補地を絞るべき
畿内説はヤマト三輪山山麓あたりで、纏向遺跡がその中心地として一致しています。
九州説は様々で主な候補地だけでも下記です。
筑後山門郡 甘木 大隈薩摩
肥後山門郷 宇佐 北九州
熊襲の地 島原 九州のどこか
場所もばらばらで当然論拠も別々です。九州のどこかに絞らないと、畿内説・九州説対比といっても、畿内対九州A、畿内対九州B・・・となってしまいます。特に九州のどこかは何とかしてほしい。
■邪馬台国その後
3C末から4C初頭には三輪山山麓に初期ヤマト政権が生まれたのは事実です。私は卑弥呼、台与と呪術的な女王が続いた後、数代の支配者交代はあったかもしれませんが、3C末から4C初頭には邪馬台国内の有力な一族から初期ヤマト政権の支配者が誕生したと考えます。今までの変遷を三輪山信仰に落とし込み、より強い権力を持ったこの支配者こそ初代の天皇といわれる崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)と考えます。この系列の天皇がいわゆる三輪王権として数代続いた後、4C末から5Cに河内の巨大古墳を築いた河内に基盤をおいた応神天皇を初とする河内政権へとつながると考えています。九州説論者も東遷説以外の九州の邪馬台国のその後を持ってほしいと思います。たとえば本居宣長のように、邪馬台国とヤマトの名を騙った女酋長の国が、後にヤマトに滅ぼされたでもいいと思います。(終)
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