2010年1月31日日曜日

(思い込み古代史)11. 5世紀、ヤマトから大阪湾沿岸南地区へ


倭の五王
 5世紀の初頭から終わりにかけて倭国の5王(讃・珍・済・興・武)が中国の南宋に朝貢したという記録が「宋書」「南史」にある。

 倭国王珍が使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王に、

 また倭国王武が使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王と

 申請している。

 珍は安東将軍倭国王に、

 武は百済を除く倭国王倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓安東大将軍使持節都督に任ぜられている。

 前項での高句麗広開土王に敗退した倭が南宗の後ろ盾をもらって高句麗に対しようとして、南朝鮮を加えた覇者であることを宋に訴えたと思われる。秦韓・慕韓は存在せず、過去の名称であった。何故に支配下に過去の国名を加えたのか、故江上波夫氏によれば、もっと古い時代には馬韓・弁韓・辰韓の三韓があったが、自らの発祥の弁韓は記さずに自国の領域を過去にさかのぼって、南朝鮮全体を倭であると宋に認めさせようとしたのではないか、とのことであった。いずれにしても。。。

 有力な勢力が朝鮮から日本に渡り、南朝鮮、日本の支配権を主張したというのは、古代史素人ファンとしては、一つの魅力的な説に思えます。倭の王達の活動する主拠点はヤマトから海外に対することができ易い大阪湾沿岸の南地区に移っていた。

 誤解をさけるため、付け加えますが、南宋への申請通り、倭が南朝鮮を支配していたとは、朝鮮史からみても事実ではありません。ただ、過去の一時期、南朝鮮へ勢力をのばしたことはあったでしょう。そのことを捉えて、認められてもともと、と申請したのではないでしょうか。武のおりに百済を除く、南朝鮮への監督責任のような立場を南宋は認めていますが、高句麗に対抗するためと思います。

大山古墳(伝仁徳天皇陵)
 巨大な前方後円墳が堺市百舌に築かれている。墳丘長486メートル、「延喜式」によれば8町四方とのことで、現在の比定地が仁徳天皇の御陵となっている。5世紀につくられたが、ある試算で一日2000人動員して16年8ケ月かかるとのことである。このような動員を可能とする権力が大阪湾沿岸南地区に移ったと考えられる。   
 
 この国のバイタリティーを感じます。話は飛躍しますが、戦艦大和は艦の巾はパナマ運河の35メートルをこえ世界一、この国の実力はそれほどでもないに、とっぴも無い大きいことをする一つの例証といえると思います。ヤマト、難波にかけて巨大古墳が作られますが、その最たるものが大仙稜古墳で、かって、まわりを歩きましたが、
その広さにたまげました。この5世紀、百舌鳥には、写真南に伝履中天皇陵と真ん中に伝仁徳天皇稜が、北に伝反正天皇陵が見える。朝鮮と列島の諸豪族に意識して、大阪湾からも近辺の陸路からも巨大化をみせつける意識をもっていたと思います。 


須恵器
 土器は平地に窪みを作り野焼きし600-700度で焼き日用食器に利用される土師器がありましたが、この時期、先進地帯の朝鮮からは、硬度の高い、須恵器の技術がもたらされました。須恵器はロクロを使い器を作り、登り窯で1100-1200度に焼成し、主に祭祀用としてまた古墳副葬品として利用されました。大阪府の千里丘陵では100基以上確認されている。

 先進技術は中国、朝鮮半島から取り入れて内製化しつつ、ものによっては巨大化するルーツはこの時代にあるようです。(下図は大阪歴史博物館「古代難波の序章」より)(以上 参考図書 「騎馬民族国家」江上波夫 「千里丘陵の須恵器」関西大学博物館実習展資料 「図解よくわかる日本史」人物往来社「エッセーで読む日本史(上)」文芸春秋他)

2010年1月24日日曜日

(思い込み古代史)[閑話休題]一神教と多神教の世界観


 一神教の世界(ユダヤ・キリスト・イスラム教)を考えることで、八百万の神の住まわれる日本のことに思いを馳せたいと思います。

 私事ですが、中学生のころ、カナン英語学院に学んだ時期がありました。先生は牧師さんで、イエス・キリストの奇跡の数々を折々、教えていただきましたが、当初は信じることが出来ませんでしたが、新約聖書を読みますと、今は、あったことなのかと思っています。

 カナンという地名にひっかかりを覚えていましたが、一神教の世界をかいま見ることでカナンの意味がわかりました。紀元前の古い時代に、ユダヤの民が中東のウルから今のパレスチナ地方にあたるカナンに移住してきます。その後、カナンが飢饉となり、ユダヤの民はエジプトに移住します。しかし、エジプトのファラオから厳しい差別を受けて、アダムとイブにつながるアブラハムの子孫のモーゼが神からの啓示を受けて、シナイ山に神と十戒の契約をしてカナンの地に戻ることとなります。BC10世紀前後のことでした。
1.唯一神
2.偶像崇拝せず
3.主の名をみだりにとなえぬこと
4.安息日を覚え、これを聖とせよ
5父母を敬え
6殺す勿れ
7姦淫する勿れ
8.盗む勿れ
9.隣人に関して偽証せず
10.隣人の家を欲しがらない
ユダヤの民のみが神(ヤハウェ)に選ばれ、数々の預言者が続き、神の言葉が旧約聖書として残されています。

 紀元前後にイエス・キリストが生まれ、30歳の頃、ヨハネの指導の元に洗礼を受け、イエスは天空から鳩が降ってくる姿を見て、神の啓示を受け、「悔い改めよ、神の国にいかん」と宣教、布教されます。このことはイエスの弟子のペテロとパウロにつかえたマルコが64-65年にイエスの生涯を書きます。それがマルコ福音書です。マルコの福音書を下敷きにルカ・マタイ・ヨハネ福音書がイエスの誕生も含めて書かれました。イエスに何が大事かと問うと、①主を唯一神と信ぜよ。②あなたの隣人を愛せよ。でした。4つの福音書として新約聖書が編纂され、ユダヤ人以外の世界の人々に発信されます。現在信者は20.4億人です。

 ムハンマドは570年頃メッカに生まれた。神の啓示を受けたのは40歳ころの610年らしい。神の言葉を記したコーランはユダヤ教、キリスト教の預言者に降された経典の再説だが、独創性をいささかも疑えない。その信条は6信5行といわれる。
(6信)
1.アラー以外に神はなし。
2.ムスリムはアッラーから全ての啓典を信じ、コーランが最後の経典であることを信じる。
3.ムスリムはアッラーからの全ての預言者を認める。預言者の中にアブラハム、モーゼ、イエス、ムハンマドが含まれる。
4.ムスリムは天使たちがアッラーの命令の元で種種の働きをおこなうことを信じる。
5.万物は皆いつか「終末」を迎えるが、神が下した「来世」(最後の審判)を信ずること。
6,現在も未来も、「運命」は全て神によって定められていると信ずること。

(5行)
1.念信「アッラーの他、神なし。ムハンマドは使徒なり。」
2.礼拝「1日5回メッカの方向に礼拝しなければならない。」
3.喜捨「貧者に対する施し(ムスリム務め)
4.断食「9月ラマダーンの日、夜明けから日没まで飲食禁じられる。」
5.巡礼「1生に1度、可能な限りメッカ巡礼する。」
現在、イスラム教は7.5億人いる。2つの宗派が代表的だが、シーア派は原理主義といわれる。
(スンナ派)アッラーの他に神なし、ムハンマドはアッラーの使徒なり。
(シーア派) アッラーの他に神なし、そして、アリーはワリー(選ばれた人)なり、と付け加える。

[共通項は一神教]教義が生まれたパレスチナやアラビア半島は人種が通過し、特にパレスチナはユダヤ人はじめ多様な人種により興亡を繰り返し、紀元前後からは、ローマ人、ペルシャ人、アラブ人、蒙古人、トルコ人が覇を競って占有した。アラビア半島を含めて砂漠が多く、ただ一神を信じざるを得ない過酷な環境でなかったのではないか。そして、信仰において神との契約をする。

 反面、この地の人々はIBMといわれる、I インシャ・アラー If God will   B ブクラ 「明日」 M マーレーシュ It hasn't 「気にするな」 「しょうがない」 過酷な気象条件と人類の攻防の歴史が(神以外に信ずることはできない)(それも一神だ)という宗教を生んだと思います。でも どうしょうもなければ、IBMという逃げ手を作っておこう、ということではないのだろうか。

 わが日本はどうか。山の神有り、海の神(竜神)有り、地の神あり(集落の東西南北を守る結界に神あり)、天の神有り、仏さんあり、お不動さんあり、お稲荷さんあり、言霊(ことばに霊)有り、・・・・海有り、山有り、四季ありの自然のやわらかい(時には地震・台風で牙をむくが)環境が多神教を生んでいるのではないだろうか。一神教は妥協を許さないが故に論理性を生み、多神教は多くを許すが故に、あいまい、悪く言えばいいかげん、すぐ過去を忘れ水に流したがる非論理性(論理を追求しない、まぁまぁその辺にしとこと・・・徹底さに欠ける。)の根幹をもつ。

 「万葉集」に歌掛けのことがでてきます。春と秋、収穫を祈り、実りを感謝するお祭りで、男女が山で交歓することをこの日ばかりは神のお許しをいただきますよ、と高橋虫麻呂の歌にあります。「(前略)この山を うしわく神の 昔より 禁(いな)めぬ行事(わざ)ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事を咎むな」

 このようなことは、ユダヤ教の「姦淫するなかれ」の世界では考えられないことでしょう。

 どちらが優れ、どちらが劣るということではない。違いがあるということを知り、どちらも、違いに異を唱えず、それぞれを信ずる人を理解することが大事だと思います。あなたはですって? 神さんも、仏さんも信じています。写真はHPよりパレスチナの地図を拝借しました。黒いところが地中海、砂っぽいところが砂漠です。(参考図書 「古代オリエントの物語」小山茂樹 他)

2010年1月16日土曜日

(思い込み古代史) 10.広開土王碑


 4世紀末から5世紀はじめの倭の状況を高句麗の「広開土王碑」から眺めてみましょう。

 広開土王碑は中国吉林省集安市にある高さが6.39メートルの石碑です。395年-410年までの高句麗の広開土王の顕彰をした碑です。朝鮮の研究者より一部碑文が改ざんされている可能性を指摘する方々がいて、解読に慎重を要します。「必携古代史ハンドブック」(新人物往来社)より抜粋紹介します。倭の南朝鮮進出と関連ある中心的な碑文は396年「百残・新羅、旧是属民、由来、朝貢。而倭以辛卯年来渡□破百残□□新羅、以為臣民。」これを解釈すると、当初は百済、新羅は高句麗の属民であった。ところが、倭が(391年)百済を破り新羅を□□し、臣民と為した。となると思います。以下に396年広開土王は百済新羅の城を攻めると続きます。また倭は己亥年の9年(399年)百済が倭と通じた。新羅は倭人が国境に満ち城地を攻め人民を捕らえ困ってると高句麗広開土王に訴えます。10年の庚子(400年)、歩兵5万を派遣して新羅を救済、倭賊を退散させると。14年(404年)の甲辰、倭、帯方に侵入したが、倭寇を潰敗させたとあります。

 16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵略と同じようであったようですが、新羅・百済と手を組んでいたところが違っていたようです。

 4世紀終りから5世紀はじめにかけて、倭も確乎とした国の形態はなされていない豪族の連合の時代に海を越え、朝鮮に進出していたことが広開土王碑に信じられない歴史をのこしています。この「武」の源は、縄文時代の熊と戦ったナラ林の東から北のものか、照葉樹林の湿地帯にもたらされた稲作を取り入れた部族間抗争をせめぎきった弥生時代の遺産でしょうか。・・・・はたまたその両者の融合したるところにあったのでしょうか。いずれにしろ、海の境界を超えて進むのは、私にはつらい遺伝子だと思っています。(参考図書 「必携古代史ハンドブック」新人物往来社)

2010年1月9日土曜日

(思い込み古代史) 9. 古墳の展開(闘争・談合・連合・進出の4世紀)

 富田 弘氏よりの[反論]「邪馬台国について」を読ませていただくと、年季の入った観測で説得力あります。30年以上前に、上司の邪馬台国九州説に触れて、当時数冊の本を読みました。今、ゆったりした時間の中で、関連書物を精読しています。その断片や新聞情報をつなぎ合わせて、「古代史」思い込みロジストなりの見解を以下に続けることに致します。(10.1.9 中川 昌弘)

 3世紀から6世紀までを古墳時代といわれますが、ヤマトを中心に前方後円墳が、時の権力者の象徴として造られていきます。「魏志倭人伝」によると邪馬台国の卑弥呼が亡くなって、3世紀半ば以降、邪馬台国は乱れ抗争しますが、壱与がたって、おさまります。その後、卑弥呼の後継勢力、またはこれを倒した勢力が力をつけていきます。このことは、前が方形(むしろばち型)で後ろが円形墳の日本特有の前方後円墳が4世紀にかけて次第に大型化していることで実証されます。田中 琢著「日本の歴史「倭人争乱」」からまずは解説致しましょう。
田中 琢氏によると古墳のあり方など次のようにが変わってきます。

(1)古墳のあり方

 当初は、円墳に遺体を納め、つづく前方のバチ型のところで、その地域の族長の権力を引き続き子孫に伝承される旨の祭祀を、飲食を共にしておこなった。古墳という斎場ではなかったか。それが、次第に大型化することとあわせて祭祀が忘れられ、方形部分にも棺がおさめられ、族の力をアピールする場モニュメントに変わっていった。限定された場所では家来、親族の陪塚も周辺に展開されるところ(佐紀盾列、古市、百舌鳥)があった。冒頭の大橋美久二さんによる埴輪復元想像図によって、往時の古墳の意味を考えたいと思います。

(2)地域勢力の伸張が古墳によって読み取れる。




















 ベースになるのは巻向地区をはじめとする山辺の道近辺に存在する古墳群に埋葬される邪馬台国を継承する有力勢力であるが、魏王からいただいた銅鏡=三角縁神獣鏡=を他に勢力をはる族長に配布していく。例えば、東西北をやくする山城の族長に配布し、椿井大塚山古墳(中国鏡36面中、三角縁神獣鏡32面発掘)として納まっているの現在も確認できる。ところが、ある時期から、古墳が作られなくなる。これは山城の族長を山辺の族長が滅ぼしたと想像できる。このように古墳群の推移がヤマトの族長の勢力の伸張する、姿として読み取ることが出来る。田中 琢氏によれば、ヤマト族長の勢力は北に伸び、古墳は平城宮北の地域に多く作られることとなる。その後、5世紀には河内の古市、百舌に古墳の場所をうつしていく。図をごらんいただきたい。三角縁神獣鏡の配布は、吉備にも、出雲にも、関東地区にも、はたまた九州にも、配布されたであろう。和製の三角縁神獣鏡もつくられた。10.1.8の朝刊に桜井茶臼山古墳(全長200メートル 3-4世紀はじめ)に銅鏡81枚が埋葬されていたことが報道された。三角縁神獣鏡は26面とのことであった。240年(魏 正始元年)記名の三角縁神獣鏡が含まれ、卑弥呼がもらった年とされる、239,240の景初、正始の年号のある同鏡は国内8ケ所(九州1、中国・山陰2、近畿4、関東1)となった。(年号の無い鏡がほとんどである。)

 また、次項でとりあげる、高句麗の広開土王の碑によると4世紀末には倭は百済と組み、新羅にも進出しているさまが記録されている。このことから推すと、4世紀中葉以降には、ヤマトを軸として、日本の西半分を中心とした、部族連合が出来ており、朝鮮から、鉄器を輸入して、武装を固めて、朝鮮に武力進出していたことになる。もっとも、この時代は朝鮮南部も含めて、クニとかがはっきりしないファジーな部族連合ができていたと想像できる。

 日本固有とされている前方後円墳と朝鮮のかかわりを少しみておきましょう。
 高句麗の、現在の北朝鮮と中国の国境にある雲坪里古墳群には、紀元前から紀元後の長い時期に、前方後円墳と四隅突出型古墳が多数点在している。(「騎馬民族の道はるか」=森 浩一/NHK取材班=より)
 百済南西端のヨンサングンの川沿いに数基の前方後円墳が1990年代に発掘されており、紀元後5-6世紀の倭人のものと推察され(百済に採用された武人管理者の古墳か)、調査が続けられ公式発表はいまだされていない。(NHKTV日本と朝鮮半島2000年より)
 (仮説2)高句麗から、日本海を越えて、出雲や北陸に人々がわたってきた。あるいは、仮説1のように南下して九州へわたり、東征して、その子孫たちが、ヤマトの族長となった。

 卑弥呼が没したのが250年くらいだから、それから数年乱れ、壱与がたち、そのヤマトの後継勢力が前方後円墳に軌跡を残しながら、僅か100数十年強で、西日本を固めたと想像され、(ひよっとすれば中部・関東もおさえ)朝鮮へも手を伸ばす勢力となっていた。この頃の倭人の闘争・談合・連合は、朝鮮に学び、逆に朝鮮進出と、1500年後の明治維新の数十年を思わせる進展であった。1600-1650年前ころの倭人は既に、貪欲な学びと進取のわざの取入と巨大化とそして「武」(他国に対して誇らしいことではないが、)を持ちあわせしていたようである。

 図は田中 琢著「日本の歴史「倭人争乱」」より拝借しました。(参考図書 田中 琢著「日本の歴史「倭人争乱」」=田中氏の緻密な労作に敬意を表します。=  「騎馬民族の道はるか」森 浩一/NHK取材班 NHKTV 日本と朝鮮半島の2000年)

2010年1月1日金曜日

(思い込み古代史) [反論] 邪馬台国について その3  富田 弘氏

 新年明けましておめでとうございます。

 富田 弘氏の[反論]邪馬台国について その3 以下をもって 一旦、掲載を終了します。その後の古代史思い込み人中川 昌弘の連載に、またまた 反論いただけるかもしれません。一人よがりを排し、対立した意見に謙虚に思い込みの修正をするところに"進歩"や"深化"があると思います。今年も勉強を続けてまいります。よろしくお願い申し上げます。('10.1.1 中川 昌弘) 

3 東遷説
 ①九州の国がヤマトに移動し邪馬台国をあるいは②4C末に九州にあった邪馬台国がヤマトの既存の勢力(初期ヤマト政権)を倒し新ヤマト政権を建てたという筋書です。ベースには神武東遷説や応神東遷説があるわけですが、考古学的にはまったく裏づけがありません。神武東遷説は虚構で応神東遷説は仮説レベルです。なぜ東遷する必要があるのか、なぜ行き着く先はヤマトなのか。もっと先に行ってもいいのではないか。そして考古学的な裏づけはなくとも、九州に本拠を残してヤマトに進出したということなら勢力拡大としてありうるが、なぜ本拠を捨てたのでしょう。どのようにして一族や国の集団を引き連れながら移動したのでしょうか。途中には多くの国があったはずで併合したのでしようか。そうでなければどう乗り越えたのでしょうか。

 ①の場合邪馬台国を建てたヤマトは無人の荒野ではありません。集団移住するような魅力的な土地であれば、土地も肥え当時から人口も多かったはずです。仮に鉄製武器を持っていたとしても当時の戦いは石製の武具が中心です。簡単に征服されたとは思えません。

 ②の場合倭国はすでに鉄の時代です。考古学的にも九州の優位性は見られません。騎馬民族が朝鮮半島を南下し九州に建国(邪馬台国あるいは狗奴国など)、後に東遷しヤマトに新政権を建てたという騎馬民族征服説もありえません。大平原ならともかく、海を渡って、山地、樹林、河川で分断されている日本の国土を騎馬で征服できるしょうか。騎馬の風習を持った多くの渡来人が長年に渡り日本に来たことと混同してはいけません。以上が明確にならない限り東遷説は成り立ちません。

4 まとめ
 以上、総合的に考えるとやはり畿内説が合理的です。道程を恣意的に変えた倭人伝
も、南を東に補修することでスムーズにつながります。

5 その他
本質的な邪馬台国論は単なる邪馬台国の場所探しだけではなく、日本の国としての誕生を考えることで、この視点から邪馬台国のその後も必要です。九州説への注文とともに考えを述べます。

■九州説は候補地を絞るべき
 畿内説はヤマト三輪山山麓あたりで、纏向遺跡がその中心地として一致しています。
九州説は様々で主な候補地だけでも下記です。
       筑後山門郡    甘木    大隈薩摩 
       肥後山門郷    宇佐    北九州
       熊襲の地     島原    九州のどこか
 場所もばらばらで当然論拠も別々です。九州のどこかに絞らないと、畿内説・九州説対比といっても、畿内対九州A、畿内対九州B・・・となってしまいます。特に九州のどこかは何とかしてほしい。

■邪馬台国その後   
 3C末から4C初頭には三輪山山麓に初期ヤマト政権が生まれたのは事実です。私は卑弥呼、台与と呪術的な女王が続いた後、数代の支配者交代はあったかもしれませんが、3C末から4C初頭には邪馬台国内の有力な一族から初期ヤマト政権の支配者が誕生したと考えます。今までの変遷を三輪山信仰に落とし込み、より強い権力を持ったこの支配者こそ初代の天皇といわれる崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)と考えます。この系列の天皇がいわゆる三輪王権として数代続いた後、4C末から5Cに河内の巨大古墳を築いた河内に基盤をおいた応神天皇を初とする河内政権へとつながると考えています。九州説論者も東遷説以外の九州の邪馬台国のその後を持ってほしいと思います。たとえば本居宣長のように、邪馬台国とヤマトの名を騙った女酋長の国が、後にヤマトに滅ぼされたでもいいと思います。(終)