2010年1月16日土曜日
(思い込み古代史) 10.広開土王碑
4世紀末から5世紀はじめの倭の状況を高句麗の「広開土王碑」から眺めてみましょう。
広開土王碑は中国吉林省集安市にある高さが6.39メートルの石碑です。395年-410年までの高句麗の広開土王の顕彰をした碑です。朝鮮の研究者より一部碑文が改ざんされている可能性を指摘する方々がいて、解読に慎重を要します。「必携古代史ハンドブック」(新人物往来社)より抜粋紹介します。倭の南朝鮮進出と関連ある中心的な碑文は396年「百残・新羅、旧是属民、由来、朝貢。而倭以辛卯年来渡□破百残□□新羅、以為臣民。」これを解釈すると、当初は百済、新羅は高句麗の属民であった。ところが、倭が(391年)百済を破り新羅を□□し、臣民と為した。となると思います。以下に396年広開土王は百済新羅の城を攻めると続きます。また倭は己亥年の9年(399年)百済が倭と通じた。新羅は倭人が国境に満ち城地を攻め人民を捕らえ困ってると高句麗広開土王に訴えます。10年の庚子(400年)、歩兵5万を派遣して新羅を救済、倭賊を退散させると。14年(404年)の甲辰、倭、帯方に侵入したが、倭寇を潰敗させたとあります。
16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵略と同じようであったようですが、新羅・百済と手を組んでいたところが違っていたようです。
4世紀終りから5世紀はじめにかけて、倭も確乎とした国の形態はなされていない豪族の連合の時代に海を越え、朝鮮に進出していたことが広開土王碑に信じられない歴史をのこしています。この「武」の源は、縄文時代の熊と戦ったナラ林の東から北のものか、照葉樹林の湿地帯にもたらされた稲作を取り入れた部族間抗争をせめぎきった弥生時代の遺産でしょうか。・・・・はたまたその両者の融合したるところにあったのでしょうか。いずれにしろ、海の境界を超えて進むのは、私にはつらい遺伝子だと思っています。(参考図書 「必携古代史ハンドブック」新人物往来社)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿