2010年1月24日日曜日

(思い込み古代史)[閑話休題]一神教と多神教の世界観


 一神教の世界(ユダヤ・キリスト・イスラム教)を考えることで、八百万の神の住まわれる日本のことに思いを馳せたいと思います。

 私事ですが、中学生のころ、カナン英語学院に学んだ時期がありました。先生は牧師さんで、イエス・キリストの奇跡の数々を折々、教えていただきましたが、当初は信じることが出来ませんでしたが、新約聖書を読みますと、今は、あったことなのかと思っています。

 カナンという地名にひっかかりを覚えていましたが、一神教の世界をかいま見ることでカナンの意味がわかりました。紀元前の古い時代に、ユダヤの民が中東のウルから今のパレスチナ地方にあたるカナンに移住してきます。その後、カナンが飢饉となり、ユダヤの民はエジプトに移住します。しかし、エジプトのファラオから厳しい差別を受けて、アダムとイブにつながるアブラハムの子孫のモーゼが神からの啓示を受けて、シナイ山に神と十戒の契約をしてカナンの地に戻ることとなります。BC10世紀前後のことでした。
1.唯一神
2.偶像崇拝せず
3.主の名をみだりにとなえぬこと
4.安息日を覚え、これを聖とせよ
5父母を敬え
6殺す勿れ
7姦淫する勿れ
8.盗む勿れ
9.隣人に関して偽証せず
10.隣人の家を欲しがらない
ユダヤの民のみが神(ヤハウェ)に選ばれ、数々の預言者が続き、神の言葉が旧約聖書として残されています。

 紀元前後にイエス・キリストが生まれ、30歳の頃、ヨハネの指導の元に洗礼を受け、イエスは天空から鳩が降ってくる姿を見て、神の啓示を受け、「悔い改めよ、神の国にいかん」と宣教、布教されます。このことはイエスの弟子のペテロとパウロにつかえたマルコが64-65年にイエスの生涯を書きます。それがマルコ福音書です。マルコの福音書を下敷きにルカ・マタイ・ヨハネ福音書がイエスの誕生も含めて書かれました。イエスに何が大事かと問うと、①主を唯一神と信ぜよ。②あなたの隣人を愛せよ。でした。4つの福音書として新約聖書が編纂され、ユダヤ人以外の世界の人々に発信されます。現在信者は20.4億人です。

 ムハンマドは570年頃メッカに生まれた。神の啓示を受けたのは40歳ころの610年らしい。神の言葉を記したコーランはユダヤ教、キリスト教の預言者に降された経典の再説だが、独創性をいささかも疑えない。その信条は6信5行といわれる。
(6信)
1.アラー以外に神はなし。
2.ムスリムはアッラーから全ての啓典を信じ、コーランが最後の経典であることを信じる。
3.ムスリムはアッラーからの全ての預言者を認める。預言者の中にアブラハム、モーゼ、イエス、ムハンマドが含まれる。
4.ムスリムは天使たちがアッラーの命令の元で種種の働きをおこなうことを信じる。
5.万物は皆いつか「終末」を迎えるが、神が下した「来世」(最後の審判)を信ずること。
6,現在も未来も、「運命」は全て神によって定められていると信ずること。

(5行)
1.念信「アッラーの他、神なし。ムハンマドは使徒なり。」
2.礼拝「1日5回メッカの方向に礼拝しなければならない。」
3.喜捨「貧者に対する施し(ムスリム務め)
4.断食「9月ラマダーンの日、夜明けから日没まで飲食禁じられる。」
5.巡礼「1生に1度、可能な限りメッカ巡礼する。」
現在、イスラム教は7.5億人いる。2つの宗派が代表的だが、シーア派は原理主義といわれる。
(スンナ派)アッラーの他に神なし、ムハンマドはアッラーの使徒なり。
(シーア派) アッラーの他に神なし、そして、アリーはワリー(選ばれた人)なり、と付け加える。

[共通項は一神教]教義が生まれたパレスチナやアラビア半島は人種が通過し、特にパレスチナはユダヤ人はじめ多様な人種により興亡を繰り返し、紀元前後からは、ローマ人、ペルシャ人、アラブ人、蒙古人、トルコ人が覇を競って占有した。アラビア半島を含めて砂漠が多く、ただ一神を信じざるを得ない過酷な環境でなかったのではないか。そして、信仰において神との契約をする。

 反面、この地の人々はIBMといわれる、I インシャ・アラー If God will   B ブクラ 「明日」 M マーレーシュ It hasn't 「気にするな」 「しょうがない」 過酷な気象条件と人類の攻防の歴史が(神以外に信ずることはできない)(それも一神だ)という宗教を生んだと思います。でも どうしょうもなければ、IBMという逃げ手を作っておこう、ということではないのだろうか。

 わが日本はどうか。山の神有り、海の神(竜神)有り、地の神あり(集落の東西南北を守る結界に神あり)、天の神有り、仏さんあり、お不動さんあり、お稲荷さんあり、言霊(ことばに霊)有り、・・・・海有り、山有り、四季ありの自然のやわらかい(時には地震・台風で牙をむくが)環境が多神教を生んでいるのではないだろうか。一神教は妥協を許さないが故に論理性を生み、多神教は多くを許すが故に、あいまい、悪く言えばいいかげん、すぐ過去を忘れ水に流したがる非論理性(論理を追求しない、まぁまぁその辺にしとこと・・・徹底さに欠ける。)の根幹をもつ。

 「万葉集」に歌掛けのことがでてきます。春と秋、収穫を祈り、実りを感謝するお祭りで、男女が山で交歓することをこの日ばかりは神のお許しをいただきますよ、と高橋虫麻呂の歌にあります。「(前略)この山を うしわく神の 昔より 禁(いな)めぬ行事(わざ)ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事を咎むな」

 このようなことは、ユダヤ教の「姦淫するなかれ」の世界では考えられないことでしょう。

 どちらが優れ、どちらが劣るということではない。違いがあるということを知り、どちらも、違いに異を唱えず、それぞれを信ずる人を理解することが大事だと思います。あなたはですって? 神さんも、仏さんも信じています。写真はHPよりパレスチナの地図を拝借しました。黒いところが地中海、砂っぽいところが砂漠です。(参考図書 「古代オリエントの物語」小山茂樹 他)

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