2010年1月9日土曜日

(思い込み古代史) 9. 古墳の展開(闘争・談合・連合・進出の4世紀)

 富田 弘氏よりの[反論]「邪馬台国について」を読ませていただくと、年季の入った観測で説得力あります。30年以上前に、上司の邪馬台国九州説に触れて、当時数冊の本を読みました。今、ゆったりした時間の中で、関連書物を精読しています。その断片や新聞情報をつなぎ合わせて、「古代史」思い込みロジストなりの見解を以下に続けることに致します。(10.1.9 中川 昌弘)

 3世紀から6世紀までを古墳時代といわれますが、ヤマトを中心に前方後円墳が、時の権力者の象徴として造られていきます。「魏志倭人伝」によると邪馬台国の卑弥呼が亡くなって、3世紀半ば以降、邪馬台国は乱れ抗争しますが、壱与がたって、おさまります。その後、卑弥呼の後継勢力、またはこれを倒した勢力が力をつけていきます。このことは、前が方形(むしろばち型)で後ろが円形墳の日本特有の前方後円墳が4世紀にかけて次第に大型化していることで実証されます。田中 琢著「日本の歴史「倭人争乱」」からまずは解説致しましょう。
田中 琢氏によると古墳のあり方など次のようにが変わってきます。

(1)古墳のあり方

 当初は、円墳に遺体を納め、つづく前方のバチ型のところで、その地域の族長の権力を引き続き子孫に伝承される旨の祭祀を、飲食を共にしておこなった。古墳という斎場ではなかったか。それが、次第に大型化することとあわせて祭祀が忘れられ、方形部分にも棺がおさめられ、族の力をアピールする場モニュメントに変わっていった。限定された場所では家来、親族の陪塚も周辺に展開されるところ(佐紀盾列、古市、百舌鳥)があった。冒頭の大橋美久二さんによる埴輪復元想像図によって、往時の古墳の意味を考えたいと思います。

(2)地域勢力の伸張が古墳によって読み取れる。




















 ベースになるのは巻向地区をはじめとする山辺の道近辺に存在する古墳群に埋葬される邪馬台国を継承する有力勢力であるが、魏王からいただいた銅鏡=三角縁神獣鏡=を他に勢力をはる族長に配布していく。例えば、東西北をやくする山城の族長に配布し、椿井大塚山古墳(中国鏡36面中、三角縁神獣鏡32面発掘)として納まっているの現在も確認できる。ところが、ある時期から、古墳が作られなくなる。これは山城の族長を山辺の族長が滅ぼしたと想像できる。このように古墳群の推移がヤマトの族長の勢力の伸張する、姿として読み取ることが出来る。田中 琢氏によれば、ヤマト族長の勢力は北に伸び、古墳は平城宮北の地域に多く作られることとなる。その後、5世紀には河内の古市、百舌に古墳の場所をうつしていく。図をごらんいただきたい。三角縁神獣鏡の配布は、吉備にも、出雲にも、関東地区にも、はたまた九州にも、配布されたであろう。和製の三角縁神獣鏡もつくられた。10.1.8の朝刊に桜井茶臼山古墳(全長200メートル 3-4世紀はじめ)に銅鏡81枚が埋葬されていたことが報道された。三角縁神獣鏡は26面とのことであった。240年(魏 正始元年)記名の三角縁神獣鏡が含まれ、卑弥呼がもらった年とされる、239,240の景初、正始の年号のある同鏡は国内8ケ所(九州1、中国・山陰2、近畿4、関東1)となった。(年号の無い鏡がほとんどである。)

 また、次項でとりあげる、高句麗の広開土王の碑によると4世紀末には倭は百済と組み、新羅にも進出しているさまが記録されている。このことから推すと、4世紀中葉以降には、ヤマトを軸として、日本の西半分を中心とした、部族連合が出来ており、朝鮮から、鉄器を輸入して、武装を固めて、朝鮮に武力進出していたことになる。もっとも、この時代は朝鮮南部も含めて、クニとかがはっきりしないファジーな部族連合ができていたと想像できる。

 日本固有とされている前方後円墳と朝鮮のかかわりを少しみておきましょう。
 高句麗の、現在の北朝鮮と中国の国境にある雲坪里古墳群には、紀元前から紀元後の長い時期に、前方後円墳と四隅突出型古墳が多数点在している。(「騎馬民族の道はるか」=森 浩一/NHK取材班=より)
 百済南西端のヨンサングンの川沿いに数基の前方後円墳が1990年代に発掘されており、紀元後5-6世紀の倭人のものと推察され(百済に採用された武人管理者の古墳か)、調査が続けられ公式発表はいまだされていない。(NHKTV日本と朝鮮半島2000年より)
 (仮説2)高句麗から、日本海を越えて、出雲や北陸に人々がわたってきた。あるいは、仮説1のように南下して九州へわたり、東征して、その子孫たちが、ヤマトの族長となった。

 卑弥呼が没したのが250年くらいだから、それから数年乱れ、壱与がたち、そのヤマトの後継勢力が前方後円墳に軌跡を残しながら、僅か100数十年強で、西日本を固めたと想像され、(ひよっとすれば中部・関東もおさえ)朝鮮へも手を伸ばす勢力となっていた。この頃の倭人の闘争・談合・連合は、朝鮮に学び、逆に朝鮮進出と、1500年後の明治維新の数十年を思わせる進展であった。1600-1650年前ころの倭人は既に、貪欲な学びと進取のわざの取入と巨大化とそして「武」(他国に対して誇らしいことではないが、)を持ちあわせしていたようである。

 図は田中 琢著「日本の歴史「倭人争乱」」より拝借しました。(参考図書 田中 琢著「日本の歴史「倭人争乱」」=田中氏の緻密な労作に敬意を表します。=  「騎馬民族の道はるか」森 浩一/NHK取材班 NHKTV 日本と朝鮮半島の2000年)

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