シモーヌ・ド・ボーヴォアール(1908-1986)「ある女の回想-娘時代」をこのほど読みました。
フランスの20世紀の「知」の人。サルトルと交友があり、50歳代になって 幼児から20歳前後の自分の魂の遍歴を著述したのは、おさえがたい娘時代の思いがあったのだと思う。
彼女は、哲学であるいは文学で、他者に訴えようと10代の頃から沸々としたものをもっていた。そのほんの一部をひも解いてみよう。
父母とは、理解し得なかった。宗教とは何か?何度も問いかけている。20前の結論は「神はいるのか」という疑問を持ち続けている。友は、女性にも男性にも絞り込んだ人がいた。将来の夫は誰なのか?で会う男性で、絞ろうとしたが、絞りきれなかった。真の女性の友は、20前後のその頃、亡くしてしまった。意中の男性は、煮えきらず、結局、分れてしまう。その男性は、40代のころ、事業に失敗して、亡くなってしまう。
この二人はシモーヌ・ド・ボーヴォアールの青春の時代の魂を反問・行きつ戻りつした希望の人であった。
20代以降に生涯を通じて、インスピレーションを与えつづけたのは、知友サルトルであるということを、終章でだけ述べている。
まわりくどくなったが、20歳までのこころの遍歴と、20歳以降のこころの遍歴は違うということだ。しかし前者の思いは生涯を通じて消えなかったということである。
緻密な振り返りは、3歳くらいからはじまっている。シモーヌ・ド・ボーヴォアールの精神の遍歴を辿る時、若い人たちが読めば、益すことが多いと思う。熟年の人が読むとき、毎日の大切さを思うかもしれない。
ローマは一日にしてならず、である。(11.2.12 中川 昌弘)
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