2008年6月24日火曜日
映画「マンデラの名もなき看守」を観て
梅雨空の中、ロフトB1Fテアトル梅田で観ました。2度のカンヌ・パルムドールに輝くビレ・アウグスト監督作品、主演:ジョセフ・ファインズ(恋におちたシェイクスピア)。南アフリカ初の黒人大統領ネルソン・マンデラ(1918-)の27年に及ぶ投獄生活の中で、看守としてつとめた男の心の軌跡が、マンデラとの人間的なふれあいを通じて心が開かれていくことを描いている物語。その中で、孤島や僻地での看守と妻との生活の揺れ、かっての黒人差別の白人の考え方の実態、黒人暴動の底辺、マンデラの不退転の人間平等の思想等が描かれている。
この映画で感じたことは一つ。マンデラの不撓不屈の人間平等への信念、看守の人間としての成長の過程、人の言うとおりでなく、断固とした“自分で考える正しいこと”へ回帰すること、この2人の確固としたゴールにむかう信念の素晴らしさである。この映画は、観る者に、「動かざる信念をもつことの素晴らしさ」をおしえてくれる。(WELL BE妻と観る)
2008年6月22日日曜日
達磨会行われる
読書会をG氏、U氏とで6年ほど前より回り持ちでおこなっています。6月22日、豊津の喫茶店で私の担当として「道元・禅・禅の言葉」をテーマとして実施されました。達磨会とは、読書会のネーミングです。
「何故、道元・・・をとりあげたのですか」
私が30歳代の前半の頃、40歳代前半の上司から
「君、道元は“只管打座(しかんたざ)”といっているんだよ」
「・・・・」
「つまり、座ることが全てなのだよ。」
「・・・・」
以上の問答がありましたが、その時はさっぱりわかりませんでした。
その後、30何年にして勉強しました。それでBLOGに掲載の「小説」を作りました。「何故、小説か」ですって?レポートとして断定するには、自信がないからです。
メンバーより「自己より世界を見るのでなく、世界から自己を見る。(世界から見ていれば”秋葉原”の事件は起こらない)」「座禅のおり呼吸を意識してあげる」「自己主張すると、”不満”が残る。自己防衛すると、”不安”が残る。第3の自由自在な生き方をすればどうでしょう」「道元は心身脱落、心身一如、修証一如と禅を実践することを説いている。」「5分でも10分でもそれ以上でも、“無”に到達するまで気楽にやればいい。座禅中“無”となって、座禅後、“普通”に戻れば、また翌日、座禅で“無”になればよい。」
人によりいろいろな座り方あります。世界から自分を見て、第3の生き方を目指す限り、大過なく生きられそうです。(WELL BE)
「何故、道元・・・をとりあげたのですか」
私が30歳代の前半の頃、40歳代前半の上司から
「君、道元は“只管打座(しかんたざ)”といっているんだよ」
「・・・・」
「つまり、座ることが全てなのだよ。」
「・・・・」
以上の問答がありましたが、その時はさっぱりわかりませんでした。
その後、30何年にして勉強しました。それでBLOGに掲載の「小説」を作りました。「何故、小説か」ですって?レポートとして断定するには、自信がないからです。
メンバーより「自己より世界を見るのでなく、世界から自己を見る。(世界から見ていれば”秋葉原”の事件は起こらない)」「座禅のおり呼吸を意識してあげる」「自己主張すると、”不満”が残る。自己防衛すると、”不安”が残る。第3の自由自在な生き方をすればどうでしょう」「道元は心身脱落、心身一如、修証一如と禅を実践することを説いている。」「5分でも10分でもそれ以上でも、“無”に到達するまで気楽にやればいい。座禅中“無”となって、座禅後、“普通”に戻れば、また翌日、座禅で“無”になればよい。」
人によりいろいろな座り方あります。世界から自分を見て、第3の生き方を目指す限り、大過なく生きられそうです。(WELL BE)
小説 -道元禅師求法の人生-(3/3)
3. 正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)
WB 正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を書いた経緯はいかがでしたか?
教授 道元は生涯を通じて、お釈迦様の後継者として、真の仏法を残そうとしたのです。若い頃から著述を重ね、40歳ころから正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)として形にしていかれます。100話を構想したといわれますが、実際は95話となっています。これも後の世の人がまとめることになります。僧としての、心がけを食べ物の用意から、小用大用の始末から、座禅の組み方から、日常生活も仏道そのものと説きます。清冽な一生にただただ、頭が下がります。文章はかなり難解で哲学的です。
WB 内容は難しいようですね。
教授 哲学書ともいえますでしょう。難しいけれども魅力があるのですね。研究は絶えることがありません。
WB ひとことでいいますとどうなりますか?
教授 釈迦が悟りを開いたその姿をそのまま引き継ごうというものです。釈迦が荒行苦行しても悟ることが出来ず、難行苦行では駄目だと、菩提樹の下で座禅を組んで悟りに至りますが、それを続けよう、ということです。悟るために坐るのではなく、ただ坐り無心となれば、悟っている、つまり個々人がもっている本来の自分=仏=の世界を坐ることであらわそうということですね。「仏道をならうといふは、自己をならふなり。自己をならふというは自己を忘るるなり。自己を忘れるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむるなり。」
WB むつかしいですね。
教授 ただ座り続けることです。習禅のためでなく、参禅するのです。何も考えずに。雑念が湧いたら、湧くにまかせ、その内に消えて波長の長い、アルファー波やシーター波の流れる、つまり大脳=考えること、小脳=運動すること、これを静止し、脳幹のみで生きる状態となることでしょうか。その存在は日、月、星、空、山、川、海・・・に証明してもらうこと、となりますか。
WB ・・・。道元禅師をどう思われますか?
教授 一生を仏道の正法が眼に蔵している根本を伝えようとされ、過去1000年日本に生まれた偉人の中で、突出した方だと思っています。「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」が800年後にも読まれているのがその証しです。そして忘れてならないのは、柔らかい心を持った詩人だったということです。「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」と鎌倉で求めに応じて歌っています。55歳、病んで京都の在家信者宅で「今まで、個の跳梁(ちょうりょう)をことごとく押さえ、仏の道を究め、生きながら黄泉(よみ)に落ちていく(意訳)」の言葉を残し次の世界に旅立たれた。超純な求法の一生を締めくくられました。弟子の2代目の懐奘禅師は80歳の死の直前まで、亡き道元禅師に師事、道元禅師の命日の8月28日に死にたいとして3-4月の寿命と医師に言われながら8月20日を過ぎてまでがんばられました。その後の4代目瑩(けい)山禅師も総持寺に本拠を置き活躍され、有能の後進の人を集めたと云えるでしょう。武士や農民の支持を得ました。江戸時代には良寛和尚も道元禅師をお慕いしました。今日の曹洞宗は、1万5千ケ寺を有するに至っています。
WB 有難うございました。壮絶故に魅力的です。人生とは、かくありたいものですね。
教授 人生とは若い時は希望と使命感に燃えた行き方があり、道元は日本で悩んで宋にわたり、如浄禅師に会い、伝えるべきものを持ち帰ります。中年には中年の生き方があり、出会いがあり、よき弟子懐奘に会い、波多野義重に出会って、永平寺という法統の場所を得、熟年には熟年の生き方があり、「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」を世に残されて人生を完成させます。夢を持ち、その実現に向かい、苦闘し、その実りを晩年に得て、過酷な修行のためか55歳で次の世界にいき、後の世の人に指針を残す人生を歩まれました。道元を学ぶ場合は、表現が難しいので細部にこだわらず、何を云わんとされたか、大きな流れを掴むことです。
WB 瞑想するやり方を半跏趺坐や、ベンチに座ったりするやり方をし、場所も気に入りの緑陰の中とか、ベランダとか室内とか電車の中とか、時と場合により変えてリラックスすることを心がけるのをどう思われますか?
教授 いろんな場所でいろんなやり方でなさるのはよろしいのではないでしょうか。下腹に意識をおき、眼は前方下部をみた方がいいでしょう。そして”かど”のとれた人間になることをめざしてください。道元禅師の教えにあるように洗面からトイレ、食事をすることから全てに心をこめて、その時その時を生きていくとよいと思います。禅は東へ、インドから中国を経て日本に伝わり、日本の風土に溶け込んできました。現代では、日本からアメリカへ渡り、広大でゆるやかな禅が広がっていっているようです。禅に興味を持つ私たちは、道元の精神的な支えの中にいるという流れを感じて、自分にふさわしい禅はどういうものかを考えて工夫・実践していけばいかがでしょうか。
WELL BE君は「自分の納得するスタイルの禅を生活の様式に取り入れて出来るだけ細部に心をそそいで、自分なりの”かど”のとれた生き方を創りあげよう」と思った。謝意教授にお礼をいい、上空の太陽が希望に満ちているように感じて、大学を後にしました。 (END)
WB 正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を書いた経緯はいかがでしたか?
教授 道元は生涯を通じて、お釈迦様の後継者として、真の仏法を残そうとしたのです。若い頃から著述を重ね、40歳ころから正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)として形にしていかれます。100話を構想したといわれますが、実際は95話となっています。これも後の世の人がまとめることになります。僧としての、心がけを食べ物の用意から、小用大用の始末から、座禅の組み方から、日常生活も仏道そのものと説きます。清冽な一生にただただ、頭が下がります。文章はかなり難解で哲学的です。
WB 内容は難しいようですね。
教授 哲学書ともいえますでしょう。難しいけれども魅力があるのですね。研究は絶えることがありません。
WB ひとことでいいますとどうなりますか?
教授 釈迦が悟りを開いたその姿をそのまま引き継ごうというものです。釈迦が荒行苦行しても悟ることが出来ず、難行苦行では駄目だと、菩提樹の下で座禅を組んで悟りに至りますが、それを続けよう、ということです。悟るために坐るのではなく、ただ坐り無心となれば、悟っている、つまり個々人がもっている本来の自分=仏=の世界を坐ることであらわそうということですね。「仏道をならうといふは、自己をならふなり。自己をならふというは自己を忘るるなり。自己を忘れるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむるなり。」
WB むつかしいですね。
教授 ただ座り続けることです。習禅のためでなく、参禅するのです。何も考えずに。雑念が湧いたら、湧くにまかせ、その内に消えて波長の長い、アルファー波やシーター波の流れる、つまり大脳=考えること、小脳=運動すること、これを静止し、脳幹のみで生きる状態となることでしょうか。その存在は日、月、星、空、山、川、海・・・に証明してもらうこと、となりますか。
WB ・・・。道元禅師をどう思われますか?
教授 一生を仏道の正法が眼に蔵している根本を伝えようとされ、過去1000年日本に生まれた偉人の中で、突出した方だと思っています。「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」が800年後にも読まれているのがその証しです。そして忘れてならないのは、柔らかい心を持った詩人だったということです。「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」と鎌倉で求めに応じて歌っています。55歳、病んで京都の在家信者宅で「今まで、個の跳梁(ちょうりょう)をことごとく押さえ、仏の道を究め、生きながら黄泉(よみ)に落ちていく(意訳)」の言葉を残し次の世界に旅立たれた。超純な求法の一生を締めくくられました。弟子の2代目の懐奘禅師は80歳の死の直前まで、亡き道元禅師に師事、道元禅師の命日の8月28日に死にたいとして3-4月の寿命と医師に言われながら8月20日を過ぎてまでがんばられました。その後の4代目瑩(けい)山禅師も総持寺に本拠を置き活躍され、有能の後進の人を集めたと云えるでしょう。武士や農民の支持を得ました。江戸時代には良寛和尚も道元禅師をお慕いしました。今日の曹洞宗は、1万5千ケ寺を有するに至っています。
WB 有難うございました。壮絶故に魅力的です。人生とは、かくありたいものですね。
教授 人生とは若い時は希望と使命感に燃えた行き方があり、道元は日本で悩んで宋にわたり、如浄禅師に会い、伝えるべきものを持ち帰ります。中年には中年の生き方があり、出会いがあり、よき弟子懐奘に会い、波多野義重に出会って、永平寺という法統の場所を得、熟年には熟年の生き方があり、「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」を世に残されて人生を完成させます。夢を持ち、その実現に向かい、苦闘し、その実りを晩年に得て、過酷な修行のためか55歳で次の世界にいき、後の世の人に指針を残す人生を歩まれました。道元を学ぶ場合は、表現が難しいので細部にこだわらず、何を云わんとされたか、大きな流れを掴むことです。
WB 瞑想するやり方を半跏趺坐や、ベンチに座ったりするやり方をし、場所も気に入りの緑陰の中とか、ベランダとか室内とか電車の中とか、時と場合により変えてリラックスすることを心がけるのをどう思われますか?
教授 いろんな場所でいろんなやり方でなさるのはよろしいのではないでしょうか。下腹に意識をおき、眼は前方下部をみた方がいいでしょう。そして”かど”のとれた人間になることをめざしてください。道元禅師の教えにあるように洗面からトイレ、食事をすることから全てに心をこめて、その時その時を生きていくとよいと思います。禅は東へ、インドから中国を経て日本に伝わり、日本の風土に溶け込んできました。現代では、日本からアメリカへ渡り、広大でゆるやかな禅が広がっていっているようです。禅に興味を持つ私たちは、道元の精神的な支えの中にいるという流れを感じて、自分にふさわしい禅はどういうものかを考えて工夫・実践していけばいかがでしょうか。
WELL BE君は「自分の納得するスタイルの禅を生活の様式に取り入れて出来るだけ細部に心をそそいで、自分なりの”かど”のとれた生き方を創りあげよう」と思った。謝意教授にお礼をいい、上空の太陽が希望に満ちているように感じて、大学を後にしました。 (END)
2008年6月21日土曜日
小説 -道元禅師求法の人生-(2/3)
2.実践
WB 如浄禅師に会ってどうなりました?
教授 とにかく修行したいといって、これを了解されたのです。道元は来る日も来る日も修行しました。ある早朝、近くの僧が居眠りしているからといって如浄禅師にこっぴどく大喝された。それを聞いた道元は瞬時に「悟った」と感じて、如浄禅師に焼香、礼拝しました。師は「どうしたのだ?」と問いかけると、「悟りました。」と道元は申されました。日ごろから熱心な修行を見ていましたので、即座に同意し、釈迦から如浄までの仏を継ぐ書類に次に継ぐものとして「道元」としたためてもらったのです。如浄は「只管打坐(しかんただ)」を教え、権力に近寄ることないよう、深山幽谷に入って、佛の道を極めるようにといわれました。
WB 28歳、日本に帰ってこられていかがでしたか。
教授 中国にわたった過去の最澄、空海など先師たちが経典、仏具を持ち帰りましたが、道元は、徒手空拳、「悟り」を持ち帰ったと豪語され、釈迦から達磨大師、如浄禅師から道元へ続く「嗣書」も持ち帰ります。
WB なるほどなるほど、道元の「悟りのみを持ち帰った」とは気概が伝わる言葉ですね。
教授 京都の深草や伏見で、布教しょうとします。さっそく座禅の仕方を「普(ふ)勧(かん)座禅儀」に著述し、続いて「弁道話」、「現成公案」を筆録執筆される。有名を聞き懐奘(えじょう)他が弟子になります。後に道元からの聞きおきを「正法眼蔵随聞記」として後世の人がまとめることになるメモを懐奘(えじょう)禅師は残しています。
WB 道元の教団としての結束拡大はどうだったのでしょう。
教授 30歳代の道元のひたむきな布教は徐々に人々を感化させていきます。41歳のころより弟子が増えてきます。
WB 人との出会いで懐奘(えじょう)禅師以外の出色の人がいたのでしょうか?
教授 43歳のおり、波多野義重との出会いが大きかったと思います。六波羅密寺で道元の話を武士の波多野義重一党が聞くことになります。波多野氏はいたく感激して北の庄にある自領にこられないかと道元を誘う。道元もこの誘いをうけて、48歳のとき、北の庄に永平寺を開いたのです。仏教の経典が中国に入ってきたのは永平年間(58-75年)、洛陽にもたらされました。その中国の年号をとって永平寺としたのです。
WB 本当は京都で定着されるのが普通ではないでしょうか。
教授 京都では、当時の仏教界が道元を異端者と見て妨害が大きかったのです。
WB 私の場合も、大変苦しい時期はありましたが、優れた上司に出会い、その後の人生に大きな影響を与えていただけました。
教授 中年の時期は人生の果実を生むために大変大事な時期で、どなたにも困難が多い時期です。この頃に、優れた人や運命的な人と出会い、何かをなす具体的な行動をすれば、よい果実を得られるのではないでしょうか。道元禅師は正にそのように歩まれました。(to be continued)
WB 如浄禅師に会ってどうなりました?
教授 とにかく修行したいといって、これを了解されたのです。道元は来る日も来る日も修行しました。ある早朝、近くの僧が居眠りしているからといって如浄禅師にこっぴどく大喝された。それを聞いた道元は瞬時に「悟った」と感じて、如浄禅師に焼香、礼拝しました。師は「どうしたのだ?」と問いかけると、「悟りました。」と道元は申されました。日ごろから熱心な修行を見ていましたので、即座に同意し、釈迦から如浄までの仏を継ぐ書類に次に継ぐものとして「道元」としたためてもらったのです。如浄は「只管打坐(しかんただ)」を教え、権力に近寄ることないよう、深山幽谷に入って、佛の道を極めるようにといわれました。
WB 28歳、日本に帰ってこられていかがでしたか。
教授 中国にわたった過去の最澄、空海など先師たちが経典、仏具を持ち帰りましたが、道元は、徒手空拳、「悟り」を持ち帰ったと豪語され、釈迦から達磨大師、如浄禅師から道元へ続く「嗣書」も持ち帰ります。
WB なるほどなるほど、道元の「悟りのみを持ち帰った」とは気概が伝わる言葉ですね。
教授 京都の深草や伏見で、布教しょうとします。さっそく座禅の仕方を「普(ふ)勧(かん)座禅儀」に著述し、続いて「弁道話」、「現成公案」を筆録執筆される。有名を聞き懐奘(えじょう)他が弟子になります。後に道元からの聞きおきを「正法眼蔵随聞記」として後世の人がまとめることになるメモを懐奘(えじょう)禅師は残しています。
WB 道元の教団としての結束拡大はどうだったのでしょう。
教授 30歳代の道元のひたむきな布教は徐々に人々を感化させていきます。41歳のころより弟子が増えてきます。
WB 人との出会いで懐奘(えじょう)禅師以外の出色の人がいたのでしょうか?
教授 43歳のおり、波多野義重との出会いが大きかったと思います。六波羅密寺で道元の話を武士の波多野義重一党が聞くことになります。波多野氏はいたく感激して北の庄にある自領にこられないかと道元を誘う。道元もこの誘いをうけて、48歳のとき、北の庄に永平寺を開いたのです。仏教の経典が中国に入ってきたのは永平年間(58-75年)、洛陽にもたらされました。その中国の年号をとって永平寺としたのです。
WB 本当は京都で定着されるのが普通ではないでしょうか。
教授 京都では、当時の仏教界が道元を異端者と見て妨害が大きかったのです。
WB 私の場合も、大変苦しい時期はありましたが、優れた上司に出会い、その後の人生に大きな影響を与えていただけました。
教授 中年の時期は人生の果実を生むために大変大事な時期で、どなたにも困難が多い時期です。この頃に、優れた人や運命的な人と出会い、何かをなす具体的な行動をすれば、よい果実を得られるのではないでしょうか。道元禅師は正にそのように歩まれました。(to be continued)
2008年6月20日金曜日
小説 -道元禅師求法の人生-(1/3)
WELL BE君(以降WB)は、朝日の射す那庭大学で同大仏教学部 謝意教授に鎌倉時代に活躍された曹洞宗(禅宗)の開祖の道元禅師(1200-1254)についてお話を聞きました。
1.人生の目標
WB 道元は貴族の子供さんですね。
教授 父は村上天皇から分かれた源氏の10代目に当たる久我通親(みちちか)公、母は藤原基房卿の娘の伊子、1200年1月26日生まれだ。母は道元を身ごもった時、今後500年間並ぶもののない偉人になるとの夢枕の啓示を得たといわれている。道元が3歳の時父が、8歳の時母が亡くなっている。小さいころから、仏道に入ろうと決心していたようです。9歳のころから仏典を研究していました。
WB 比叡山に上ったのではないですか?
教授 道元は求道心旺盛で、13歳で比叡山へ上りましたが当時の僧界にあき足らなさを感じて、14歳の時に山を下ります。そして、園城寺の公胤を訪ね、更に公胤の忠告により臨済宗の京都建仁寺に、宋から帰朝していた栄西禅師(-1215)に会います。18歳の時、栄西の後継者の明全に師事し、詳しいことを学んでいきます。24歳になって明全と共に宋にわたります。宋の海岸についても3ケ月、陸に上がれませんでした。
WB それは何故ですか?
教授 僧としての戒壇の手順を日本で十分踏んでいなかったからとのことのようですね。明全はすぐに天童山に入り修行ができたのですが。
WB 宋に入っての印象はどうだったのでしょうか?
教授 宋の明州慶元府の海岸である日、阿育王山の老僧がしいたけを求めにきました。道元は、「貴僧のような高僧の方がわざわざ、ここにこられなくとも、代わりの者を寄こせばいいのではないですか?今晩、船に泊まっていただき、いろいろとお話をお伺いしたいのです」というと老僧は、「何を云われる、大事な仕事をしているのです。今晩は寺の食事の用意があるのでお断りする。」といわれ、道元のこころにこのことが長く残るのです。つまり、日本では、使い走りと思われる仕事や、食事の準備は小物がやるようになっていたのですが、宋では違う。些細なことが重要ではないのか、と考えるようになりました。人生の中年以降で編まれる「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」に食事の用意、作法、用便に至るまで細かい日常が仏の行為そのものだという考えを、規定として作っていきますが、それらの端緒となる出来事でした。
道元は3ケ月後、天童山景徳寺に入ります。その禅に満足できず、中国諸山遍歴の修行の旅に出かけたのです。なかなかこれというものに出会わない日々が過ぎゆきます。26歳の時、ある僧に、天童山に如浄禅師がいるから会えば良いと云われて、会いにいくのです。
WB ひたすらな、仏道を求める旅を生まれてから青春時代を通じて、道元はされてますね。
教授 人間は何をすべきかということは生まれた時から決まっているのではないでしょうか。このことがわかっている人は少ないです。道元の場合は、自覚をもって、仏道を極めようという、大きな目標を持っていましたね。
WB 私の場合は、小学生のころ単純に電気会社の社長になりたいと、たあいのない夢一杯のころもありましたが、人の役に立ち、道を究めるというそんな壮大な目標はなかったですね。
教授 そうでしょう。(笑い)道元の場合、幼くして、父母をなくすという環境も大きな一因でしょうね。ただ、それも宿命だったのかもしれません。道元の青春時代までは、求道そのもので、如浄禅師にあうまでは迷いも多かったようです。曹洞宗(禅宗)の開祖として釈迦以来の法統を継ぐ存在となって道元禅師の人生は後世にも影響を与えました。
WB 話は変わりますが、15世紀の韓国での実話を脚色したTVドラマ「チャングムの誓い」のおさないチャングムが非業の死をとげた母の「スラッカン(王宮料理室)の最高女官になって、母の無念を晴らして欲しい」との遺言を守り、艱難辛苦の後、宮廷に入り、王様の主冶医にのぼりつめますが、どちらも共通するのは幼いころからの思いを実現させていくことが似ているようですね。親に絶対的な忠誠を誓う「チャングムの誓い」は儒教を知る上で参考となりますが、道元の宗派も先輩を敬い儒教的といっていいのでしょうか?
教授 その通りです。ただ、中国人の法政大学王敏(わんびん)教授が日本の儒教は論語読みの儒教といっていますので、真の儒教ではないようです。(to be continued)
1.人生の目標
WB 道元は貴族の子供さんですね。
教授 父は村上天皇から分かれた源氏の10代目に当たる久我通親(みちちか)公、母は藤原基房卿の娘の伊子、1200年1月26日生まれだ。母は道元を身ごもった時、今後500年間並ぶもののない偉人になるとの夢枕の啓示を得たといわれている。道元が3歳の時父が、8歳の時母が亡くなっている。小さいころから、仏道に入ろうと決心していたようです。9歳のころから仏典を研究していました。
WB 比叡山に上ったのではないですか?
教授 道元は求道心旺盛で、13歳で比叡山へ上りましたが当時の僧界にあき足らなさを感じて、14歳の時に山を下ります。そして、園城寺の公胤を訪ね、更に公胤の忠告により臨済宗の京都建仁寺に、宋から帰朝していた栄西禅師(-1215)に会います。18歳の時、栄西の後継者の明全に師事し、詳しいことを学んでいきます。24歳になって明全と共に宋にわたります。宋の海岸についても3ケ月、陸に上がれませんでした。
WB それは何故ですか?
教授 僧としての戒壇の手順を日本で十分踏んでいなかったからとのことのようですね。明全はすぐに天童山に入り修行ができたのですが。
WB 宋に入っての印象はどうだったのでしょうか?
教授 宋の明州慶元府の海岸である日、阿育王山の老僧がしいたけを求めにきました。道元は、「貴僧のような高僧の方がわざわざ、ここにこられなくとも、代わりの者を寄こせばいいのではないですか?今晩、船に泊まっていただき、いろいろとお話をお伺いしたいのです」というと老僧は、「何を云われる、大事な仕事をしているのです。今晩は寺の食事の用意があるのでお断りする。」といわれ、道元のこころにこのことが長く残るのです。つまり、日本では、使い走りと思われる仕事や、食事の準備は小物がやるようになっていたのですが、宋では違う。些細なことが重要ではないのか、と考えるようになりました。人生の中年以降で編まれる「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」に食事の用意、作法、用便に至るまで細かい日常が仏の行為そのものだという考えを、規定として作っていきますが、それらの端緒となる出来事でした。
道元は3ケ月後、天童山景徳寺に入ります。その禅に満足できず、中国諸山遍歴の修行の旅に出かけたのです。なかなかこれというものに出会わない日々が過ぎゆきます。26歳の時、ある僧に、天童山に如浄禅師がいるから会えば良いと云われて、会いにいくのです。
WB ひたすらな、仏道を求める旅を生まれてから青春時代を通じて、道元はされてますね。
教授 人間は何をすべきかということは生まれた時から決まっているのではないでしょうか。このことがわかっている人は少ないです。道元の場合は、自覚をもって、仏道を極めようという、大きな目標を持っていましたね。
WB 私の場合は、小学生のころ単純に電気会社の社長になりたいと、たあいのない夢一杯のころもありましたが、人の役に立ち、道を究めるというそんな壮大な目標はなかったですね。
教授 そうでしょう。(笑い)道元の場合、幼くして、父母をなくすという環境も大きな一因でしょうね。ただ、それも宿命だったのかもしれません。道元の青春時代までは、求道そのもので、如浄禅師にあうまでは迷いも多かったようです。曹洞宗(禅宗)の開祖として釈迦以来の法統を継ぐ存在となって道元禅師の人生は後世にも影響を与えました。
WB 話は変わりますが、15世紀の韓国での実話を脚色したTVドラマ「チャングムの誓い」のおさないチャングムが非業の死をとげた母の「スラッカン(王宮料理室)の最高女官になって、母の無念を晴らして欲しい」との遺言を守り、艱難辛苦の後、宮廷に入り、王様の主冶医にのぼりつめますが、どちらも共通するのは幼いころからの思いを実現させていくことが似ているようですね。親に絶対的な忠誠を誓う「チャングムの誓い」は儒教を知る上で参考となりますが、道元の宗派も先輩を敬い儒教的といっていいのでしょうか?
教授 その通りです。ただ、中国人の法政大学王敏(わんびん)教授が日本の儒教は論語読みの儒教といっていますので、真の儒教ではないようです。(to be continued)
2008年6月7日土曜日
映画「山桜」を観る
2008年6月2日月曜日
服部緑地都市緑化植物園で憩う
梅雨曇の中、2台の自転車は服部都市緑化公園についた。正面の公園入り口はいって北西の道路には榎、カイノキ、ブラシノキ(写真右)、ユリノキ(写真右下)、ハナミズキなど代表的な街路樹が植わっている。そこを散策して、公園の入り口の広いスペースにあるベンチに腰をかけた。
正面には、こんもりした緑の林が見え、手前には、赤白の花が金属の構築物のまわりに球状に添う形に咲いている。色の花は能動的な働きかけを、緑の林は癒しを発信している。
2人は自転車を降り、そんなことをいって時を過ごした。
ここにくれば、みどりの木々から癒しをいただける。また相反する能動的なものが、花から迫ってくる。
しばし時間を忘れて、話に花を咲かせた。
憩いの場所は現代の人間に必要、と思った。(WELL BE)
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