WELL BE君(以降WB)は、朝日の射す那庭大学で同大仏教学部 謝意教授に鎌倉時代に活躍された曹洞宗(禅宗)の開祖の道元禅師(1200-1254)についてお話を聞きました。
1.人生の目標
WB 道元は貴族の子供さんですね。
教授 父は村上天皇から分かれた源氏の10代目に当たる久我通親(みちちか)公、母は藤原基房卿の娘の伊子、1200年1月26日生まれだ。母は道元を身ごもった時、今後500年間並ぶもののない偉人になるとの夢枕の啓示を得たといわれている。道元が3歳の時父が、8歳の時母が亡くなっている。小さいころから、仏道に入ろうと決心していたようです。9歳のころから仏典を研究していました。
WB 比叡山に上ったのではないですか?
教授 道元は求道心旺盛で、13歳で比叡山へ上りましたが当時の僧界にあき足らなさを感じて、14歳の時に山を下ります。そして、園城寺の公胤を訪ね、更に公胤の忠告により臨済宗の京都建仁寺に、宋から帰朝していた栄西禅師(-1215)に会います。18歳の時、栄西の後継者の明全に師事し、詳しいことを学んでいきます。24歳になって明全と共に宋にわたります。宋の海岸についても3ケ月、陸に上がれませんでした。
WB それは何故ですか?
教授 僧としての戒壇の手順を日本で十分踏んでいなかったからとのことのようですね。明全はすぐに天童山に入り修行ができたのですが。
WB 宋に入っての印象はどうだったのでしょうか?
教授 宋の明州慶元府の海岸である日、阿育王山の老僧がしいたけを求めにきました。道元は、「貴僧のような高僧の方がわざわざ、ここにこられなくとも、代わりの者を寄こせばいいのではないですか?今晩、船に泊まっていただき、いろいろとお話をお伺いしたいのです」というと老僧は、「何を云われる、大事な仕事をしているのです。今晩は寺の食事の用意があるのでお断りする。」といわれ、道元のこころにこのことが長く残るのです。つまり、日本では、使い走りと思われる仕事や、食事の準備は小物がやるようになっていたのですが、宋では違う。些細なことが重要ではないのか、と考えるようになりました。人生の中年以降で編まれる「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」に食事の用意、作法、用便に至るまで細かい日常が仏の行為そのものだという考えを、規定として作っていきますが、それらの端緒となる出来事でした。
道元は3ケ月後、天童山景徳寺に入ります。その禅に満足できず、中国諸山遍歴の修行の旅に出かけたのです。なかなかこれというものに出会わない日々が過ぎゆきます。26歳の時、ある僧に、天童山に如浄禅師がいるから会えば良いと云われて、会いにいくのです。
WB ひたすらな、仏道を求める旅を生まれてから青春時代を通じて、道元はされてますね。
教授 人間は何をすべきかということは生まれた時から決まっているのではないでしょうか。このことがわかっている人は少ないです。道元の場合は、自覚をもって、仏道を極めようという、大きな目標を持っていましたね。
WB 私の場合は、小学生のころ単純に電気会社の社長になりたいと、たあいのない夢一杯のころもありましたが、人の役に立ち、道を究めるというそんな壮大な目標はなかったですね。
教授 そうでしょう。(笑い)道元の場合、幼くして、父母をなくすという環境も大きな一因でしょうね。ただ、それも宿命だったのかもしれません。道元の青春時代までは、求道そのもので、如浄禅師にあうまでは迷いも多かったようです。曹洞宗(禅宗)の開祖として釈迦以来の法統を継ぐ存在となって道元禅師の人生は後世にも影響を与えました。
WB 話は変わりますが、15世紀の韓国での実話を脚色したTVドラマ「チャングムの誓い」のおさないチャングムが非業の死をとげた母の「スラッカン(王宮料理室)の最高女官になって、母の無念を晴らして欲しい」との遺言を守り、艱難辛苦の後、宮廷に入り、王様の主冶医にのぼりつめますが、どちらも共通するのは幼いころからの思いを実現させていくことが似ているようですね。親に絶対的な忠誠を誓う「チャングムの誓い」は儒教を知る上で参考となりますが、道元の宗派も先輩を敬い儒教的といっていいのでしょうか?
教授 その通りです。ただ、中国人の法政大学王敏(わんびん)教授が日本の儒教は論語読みの儒教といっていますので、真の儒教ではないようです。(to be continued)
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