2.実践
WB 如浄禅師に会ってどうなりました?
教授 とにかく修行したいといって、これを了解されたのです。道元は来る日も来る日も修行しました。ある早朝、近くの僧が居眠りしているからといって如浄禅師にこっぴどく大喝された。それを聞いた道元は瞬時に「悟った」と感じて、如浄禅師に焼香、礼拝しました。師は「どうしたのだ?」と問いかけると、「悟りました。」と道元は申されました。日ごろから熱心な修行を見ていましたので、即座に同意し、釈迦から如浄までの仏を継ぐ書類に次に継ぐものとして「道元」としたためてもらったのです。如浄は「只管打坐(しかんただ)」を教え、権力に近寄ることないよう、深山幽谷に入って、佛の道を極めるようにといわれました。
WB 28歳、日本に帰ってこられていかがでしたか。
教授 中国にわたった過去の最澄、空海など先師たちが経典、仏具を持ち帰りましたが、道元は、徒手空拳、「悟り」を持ち帰ったと豪語され、釈迦から達磨大師、如浄禅師から道元へ続く「嗣書」も持ち帰ります。
WB なるほどなるほど、道元の「悟りのみを持ち帰った」とは気概が伝わる言葉ですね。
教授 京都の深草や伏見で、布教しょうとします。さっそく座禅の仕方を「普(ふ)勧(かん)座禅儀」に著述し、続いて「弁道話」、「現成公案」を筆録執筆される。有名を聞き懐奘(えじょう)他が弟子になります。後に道元からの聞きおきを「正法眼蔵随聞記」として後世の人がまとめることになるメモを懐奘(えじょう)禅師は残しています。
WB 道元の教団としての結束拡大はどうだったのでしょう。
教授 30歳代の道元のひたむきな布教は徐々に人々を感化させていきます。41歳のころより弟子が増えてきます。
WB 人との出会いで懐奘(えじょう)禅師以外の出色の人がいたのでしょうか?
教授 43歳のおり、波多野義重との出会いが大きかったと思います。六波羅密寺で道元の話を武士の波多野義重一党が聞くことになります。波多野氏はいたく感激して北の庄にある自領にこられないかと道元を誘う。道元もこの誘いをうけて、48歳のとき、北の庄に永平寺を開いたのです。仏教の経典が中国に入ってきたのは永平年間(58-75年)、洛陽にもたらされました。その中国の年号をとって永平寺としたのです。
WB 本当は京都で定着されるのが普通ではないでしょうか。
教授 京都では、当時の仏教界が道元を異端者と見て妨害が大きかったのです。
WB 私の場合も、大変苦しい時期はありましたが、優れた上司に出会い、その後の人生に大きな影響を与えていただけました。
教授 中年の時期は人生の果実を生むために大変大事な時期で、どなたにも困難が多い時期です。この頃に、優れた人や運命的な人と出会い、何かをなす具体的な行動をすれば、よい果実を得られるのではないでしょうか。道元禅師は正にそのように歩まれました。(to be continued)
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