2010年3月6日土曜日

(思い込み古代史) 16. 752年 「大仏開眼」

 552年、百済の聖明王が仏教を伝えた。渡来系の蘇我氏が仏教崇拝し、排仏派の物部氏の排除に成功する。その後、聖徳太子が仏教に帰依し、高句麗僧の指導を受けて三経ぎしょう(維摩経・法華経・華厳経)を著します。仏教寺院も創っていく。仏教は、国家の守護の元に、仏教によって、鎮護国家をしょうとして、地方には国分寺と國分尼寺もつくられていきます。

 天智天皇から弟の天武天皇に皇統が移って、天武天皇と持統皇后(後に天皇)との長子で28歳で没した草壁皇子系統の、文武天皇が697年に即位します。藤原不比等の娘、宮子が文武天皇の妃として入第します。このふたりの間に生まれたのが聖武天皇で、不比等の別の女性に産ませた後の光明子が妃となります。ここにいくまでには、天武天皇の他の皇子の陰に陽にの反目活動がありました。依然として兄弟に皇位をゆずるべしとの考えも強かったのです。有名な事変は「長屋王の変」でした。長屋王は天武天皇の高市皇子の子ですが、聖武天皇の皇后に光明子がなることを「光明子は皇族の娘でないとして、皇族が皇后になる、との前例に反する」と反対を表明します。729年、長屋王は国家転覆の計画有と密告され、濡れ衣をきせられ、自死においやられます。

 藤原氏は外戚として、しだいに宮中に入っていきました。いろんな課題と悩みをかかえていたと思われる聖武天皇は740年、平城京から難波の宮に行幸した。その途中、河内国大県軍の知識寺の本尊を礼拝し、深く感動された。その時から聖武天皇が毘盧遮那仏をつくろうという思いをいだくいたった。743年、華厳経の教理に基づいて東大寺に毘盧遮那大仏を造る詔を下した。4年後着工し2年の工期8回の鋳継ぎを経て752年に開眼供養がおこなわれた。大仏殿は、文献によると749年に着工され、758年に竣工している。約86メートルx50メートルであった。聖武天皇はいろいろと迷いの多い方であったのでしょうか、その一つが皇位継承問題と想像され、(藤原系の光明皇后との子孫に引き継ぎたい思いがあったが、男子は幼少で死に、阿部内親王が生まれた。・・・後に、748年孝謙(764年称徳)天皇として女帝として即位、天武天皇系統がとだえ、天智天皇の、志貴皇子(いわばしる 垂水の上の さわらびの 萌えいずる 春になりにけるかも が万葉集に残されている。)の子が770年、光仁天皇として皇統が戻り、現在の天皇に続く。)740年平城京から恭仁京、難波京、紫香楽宮を転々とし、最後に745年平城京に戻ってきます。仏教を国家鎮護の根本のものとして自らの迷いも封じ込めたのでしょう。この間、陸奥の国守百済王敬福が黄金900両を献上した。大仏開眼はインド僧菩提遷那を導師に、中国、朝鮮の舞や音楽で祝われ、導師の筆に結び付けられた紐には聖武太政天皇、孝謙天皇、光明皇太后が連なっていて。まるで華厳の世界を現出しているようだったでしょう。各地域に設けられた国分寺、國分尼寺の頂点が東大寺だったのです。

 この頃の貴族の生活と、下級官吏の生活がどのようなものであったか、栄原 永遠男著「天平の時代」より食生活を紹介しましょう。

【長屋王】1988年に発見された平城京3条2坊にあった長屋王邸内の木簡によれば、あわび、各種野菜、蘇(牛乳を1/10になるまで煮つめたもの)その他豊富な食材を指定農地で栽培したものを食していた。邸宅は4町(約6万m2)東京ドームの約1.3倍でした。中央内部の中心的な建物は360m2の床面積でした。

【写経官吏】1日2食(白米と野菜海藻2皿)昼におもち出ることありで写経所に何十日も、泊まり込みで写経。家には、数日、病気届で帰れるのみ。腫瘍がよくでき、大変不潔であったよう。家族の住む宅地は中心部から離れているが、375m2-190m2であったと想像されます。

 律令制がひかれ、きつちりと租庸調がとられ、貨幣経済がスタートしはじめているが、大変庶民の生活は苦しかったようです。8000人程度の中央官吏で、日本が動かされていたよう。平城宮は人口10万人程度だったようです。

 国にとっても、庶民にとっても仏様がたよりだったのでしょうか、国乱れかけて孝子あらわる。庶民派の高僧となった人に行基がいます。布施屋をつくったり、道をつくったり、大仏勧進をされたりしました。聖武天皇は日本に大仏を作り、(1180平氏の焼き討ちで焼け、鎌倉時代に再建、戦国時代に又焼かれ、江戸時代の元禄期に再再建)光明皇后は、正倉院を残しました。財政が破綻寸前までいたる、不安を解消させるための膨張政策でした。しかし、現在まで人々に癒し続けていることは誠に立派なことだと思います。

 現代に置き換えると、ダムとかコンクリートのものは残っているが 1000兆円にも近々達すると思われる借金財政、増税は必須、官僚機構の統治の簡素化が、すぐにも始めなければならないのでしょう。そんなことが遥か13o0年前のことを考えると、焦燥感にかられます。「思い込み古代史」も平安時代が、すぐそこに近ずきましたので、次回で総括し、このシリーズのキーをおきたいと思います。

(参考図書 「天平の時代」栄原 永遠男 他)

(思い込み古代史) 15. 672年 「壬申の乱」

 吉村武彦著「古代王権の展開」より672年におこった、壬申の乱の経緯を写してみよう。

 「671年天智帝の様態が悪化した。そこで大海人皇子が病床によばれ、後事を託された。大海人皇子は子供のいない皇后倭姫王の即位と大友皇子の立太子を進言した。暫定政権の提案をし、天智のために出家して修行すると申し出、ただちに宮殿内の仏殿でひげとかみを剃り、天智から与えられた袈裟を身につけた。2日後、吉野での仏道修行を許されると、即日、島の宮(明日香村島庄)へ急行した。時の人は「虎に翼をつけてはなてり」といったという。大海人は吉野宮に向かった。」

 天智天皇薨去後の近江朝廷では、大友皇子が皇位につくべく、諸策が練られていたであろう。再び、吉村武彦著「古代王権の展開」よりその後の経緯を伝えよう。「近江朝では、天智陵の造営で民衆を挑発、武器をもたせているという。大海人が吉野に去って6ケ月経っていた。大海人皇子は伊勢、三重の東国入りを敢行した。 鸕野(うの)皇女(後の持統天皇)10歳になるかならぬかの草壁皇子と忍部(おさかべ)皇子、20余人の舎人、10余人の御宮の宮人が従った。途中、高市皇子とも合流し、豪雨の中も急行し、伊勢神宮に向かって遠く遥拝、大津皇子は鈴鹿関に到着、先発隊が不破道を防いだことも大海人に伝えられていく。」

 大海人動くとの報は大友皇子側にもつたわったはずだ。「群臣ことごとく怖れをなし、京の内騒ぐ」と「日本書紀」に記されている。対応策を協議する大友皇子の諮問に、一人の臣が、すみやかに騎兵により追撃を進言するが、大友皇子に受け入れられなかった。大友は国評(こおり)制で地域行政機構より兵を募ろうとして正攻法の戦いに勝利しょうとしたと思われる。しかし、吉備と筑紫で功を奏せなかった。大友軍は内紛もあり、結局、敗走し、大友は山前(大山崎町か)で自刃する。

 皇位を継いだ天武天皇は、飛鳥浄御原(きよみがはら)に都を置き、天皇に権力を集中させ、親政をしき、支配層は皇族で固め、律令体制へ漸進していく。679年、天武帝は持統皇后、草壁皇子、大津皇子、竹市皇子、*川島皇子、忍部(おさかべ)皇子、*施基皇子(*は天智帝の子)をひきつれ吉野宮に行幸した。皇子たちに千年後までの事なきを問い、6人の皇子の協同の誓いを約束させた。衣服の襟を開いて皇子たちをだきしめたといわれる。

 伊勢の勢力が、大海人の陣営に加担したことにより、大三輪神社にあった、天皇家をまつる祭祀が、伊勢神宮に移ったと考えられます。

 天武帝の大きなの仕事の一つは、国史の編纂指示である。世紀を越えて、712年「古事記」として720年「日本書紀」として大王家に伝わる歴史や、有力氏族に伝わる伝承を統合した日本史が編纂される。上述のように壬申の乱が詳細に経過がわかるのも、当時の現代史として、反乱ではない正当性をもたせる意味もあり、相当詳しく記録されている。

 唐・新羅からの侵略防止対策としてのインフラ整備として09.10.12放映のNHK衛星TV「古代の大道」によると総長6300km(現在の高速道路6500km)、巾12-14メートルの大道をつくったとのことでした。専門家の試算では延べ3000万人の動員があったとのことでした。この大道を通って、都の情報を地方へ、地方の租税が都へ上っていったのでした。しかもこの道は下層に枯れ木枯れ枝を敷き、両側に溝を掘り、何層も土をかためたものでした。68の国府をつないでいました。大化改新ごろは道の駅家(うまや)には馬を常備し、宿泊施設をもって官人の公用していました。30里(約16km)毎に駅家を設置することを原則にしており、当時の権力が大きな力をそなえていたことがわかります。

 古代大道を誰が設置の指示をし、いつ完成したかは不明ですが、大道はいずれその用を終り、農地等に転換されていきます。このような力は。663年、朝鮮百済の急援軍を出した白村江の戦いで2万8千人もの兵を送り込んで敗れますが、その後の対策ともいえましょう。今から考えるとびっくりするような実力が古代にはあったようです。

 東アジアを意識し、律令制度の整備を進め、国史を整理統合発刊指示をだし、大和から日本として飛躍させたのが、天智天皇の後を引き継いだ、天武天皇であったと思います。

 本稿の多くを吉村 武彦著「古代王権の展開」に依存しました。(参考 NHK10.12放映「古代大道」図書「日本史」新人物往来社 「古代王権の展開」吉村 武彦)

2010年3月5日金曜日

(思い込み古代史) 14.  645年 「大化の改新(乙巳の年のクーデター」

 聖徳太子が遣隋使を派遣し、17条の憲法を作った後、天皇家は蘇我氏に外戚として牛耳られてきました。高校生時代、「大化改新虫5匹(ムシゴヒキ)」と645年のことを覚えたものでしたが、皇極天皇の同母弟軽皇子(孝徳天皇として即位)、皇極天皇の長子、中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)と中臣鎌足らが天皇家をわがものにするような権勢を誇る渡来系の蘇我氏を打倒したものでした。三韓の使者を迎える儀式で蘇我入鹿を韓人が討ったのです。古人大兄皇子(舒明天皇の皇子)が「韓人、鞍作臣(蘇我入鹿)を殺しつ、わが心痛し」と現場に居合わせ、自身の宮に逃げ帰って家人に告げた、とあります。この後、入鹿の父、蘇我蝦夷は自刃しました。

 中大兄皇子は天皇を圧迫する外戚の勢力を駆逐して、天皇に権力が集中するように、唐の制度を参考として、律令制(律とは刑法、令とはそれ以外の国家的基本法)を作っていきます。646年(①公地公民制・・・土地人民が豪族の所有地・民から天皇に属するように考えた②国郡里の行政制度の導入③班田収受制④租庸調の税制統一・・・戸籍がつくられます。)大化改新後、孝徳天皇が皇位を継承し、難波に都を移しますが、後に、中大兄皇子が百済・倭軍が663年白村江(はくすきのえ)で唐・新羅軍に敗れ、668年天智天皇となり、近江に都を移し、長子天皇相続の不改常典をつくり、権力の中心となり、日本の統治機構の基礎をつくったといえましょう。年号は大宝律令以降、制定されますが、「大化」という私的年号で大きく化する節目を強調したようです。吉村武彦氏によると、「乙巳の年のクーデター」は、①唐の強大化②朝鮮半島の情勢(百済の弱体化)③国内の天皇外戚の圧力 等の諸点より背景を見なければならないといわれている。

 「万葉集」は630年頃から759年までの歌が約4500首収録されていますが、上は天皇から下は防人までほぼ全階層を網羅しています、国民的な文化的財産です。「雑歌」の中の額田女臣(ぬがたのおみ)と天智天皇の弟、大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)の2首を取り上げましょう。額田女臣と大海人皇子の間には十市皇女(といちのひめみこ)が生まれていた。後に、額田女臣は天智天皇の女となる。またその後に、十市皇女は天智天皇の子の大友皇子に嫁す。

 あかねさす 紫の行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや きみが袖ふる(額田女臣)

 668年5月5日、天智天皇は滋賀県の蒲生野の標野(一般の人が入れない、しめ縄で区切られ番人がいる。)で薬猟を行った。女性が薬草をとり男性が狩をする。狩をしていた大海人皇子が天智天皇の妃の一人の額田女臣をめざとく見つけて、袖を振ったのを野守が見ませんでしたか、と問う歌です。これはその後の宴会で歌ったようです。万座の中で大海人皇子が返歌します。

 むらさきの 匂えるきみを にくくあらば 人妻ゆえに われこいめやも

 堂々と、人妻だけれど、恋するよと額田女臣に返歌します。これらの歌が「相聞」に分類されていないので、相聞歌とは見られていません。

 天智天皇は、はじめのうちは後継者を弟の大海人皇子としていましたが、しだいに、自分の子の大友皇子に天皇をつがせたくなり、太政大臣を制定し、任命します。また前述の皇位が長子に移るという「不改常典」もつくられますので、身の危険を感じた大海人皇子は頭を剃り、吉野に引退することを天智天皇に求め、了承されて、吉野に隠棲します。

 次回でとりあげますが、大海人皇子は天智天皇没後の672年、壬申の乱をおこし、天智天皇の子、大友皇子に勝利し、天武天皇となります。大化改新で天皇に権力は集中しましたが、天皇家内部の骨肉の争いのたえぬ時代でした。(参考図書「古代王権の展開」吉村武彦 「日本史」新人物往来社 JTB「万葉集への旅」新人物往来社「日本史」他)


 

2010年2月28日日曜日

(思い込み古代史) 13. 552年 「仏教伝来」

 「日本書記」によると552年、百済の聖明王が、外交ルートを通じて、仏像・経典・僧の3宝を伝えた。朝鮮半島の西南の百済は同北部の高句麗を脅威として、倭とつながりを強固にするために政策的に仏教を利用したのである。

 継体天皇と手白香皇女の子の欽明天皇は群臣に「仏の相貌はまばゆい、これに礼すべきか否か」と問うた。蘇我稲目は、中国、朝鮮の国々で礼拝されているので、倭国でもそうすべきである、と答えた。物部氏や中臣氏は蕃神を礼拝することで、国神の怒りを怖れて反対した。倭の神は、姿を見せない、蕃神は姿を見せた、と驚いたのである。

 崇佛派の蘇我氏と排仏派の物部氏は、用命天皇没後の天皇後継者擁立の問題で対立したのであった。当時は、弟か大兄が継ぎ、群臣の賛同が必要だった。

 物部氏は欽明天皇と小姉君の子、大兄ではない穴穂部皇子(あなほべのみこ)の擁立をはかり、蘇我氏は欽明天皇と堅塩姫の子で用命天皇の妹、額田部(ぬがたべ)皇女を奉じた。

 587年、物部守屋側と蘇我馬子側で戦端が切られた。馬子側の厩戸皇子(うまやどのみこ)(後の聖徳太子)は霊木で仏教の守護神、四天王像を彫り、自らの頭髪に安置して「我に勝ちを与え賜れば寺塔を建てる」と誓う。馬子側が勝利した。後に建ったのが、大阪の四天王寺である。馬子も飛鳥寺を建立する。額田部皇女の即位は見送られ、穴穂部皇子の弟の泊瀬部皇子(はつせぶのみこ)が崇峻天皇として即位した。

 592年、蘇我氏が専横して思うようにならないのを献上された猪を見て「いずれの時にか、この猪のように朕が嫌なひとをきらむ」といったのを大伴小手子が蘇我氏に密告した。馬子は事態を重く見て一族を集め謀議し、崇峻天皇を暗殺する。

 額田部皇女が推古女帝として即位する。593年、厩戸皇子(うまやどのみこ)(聖徳太子)が 摂政となったのであった。603年、17条憲法をつくった。全体として「和を持ってとおとしとなす」「国に二人の君非ず、民に両の主なし」「諸の官に任せる者、同じく職掌を知れ」と儒教的精神が色濃いようだ。第2条には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。」と仏教での精神的統治を目指している。607年、隋に使いを送り、対等の国交を求めている。

 この時期は、天皇の後継問題で、血なまぐさい事件が多く起こるが、蘇我氏が専横してきた。緊張する対外関係をまじかに控えて、国の精神的な支柱に仏教を求めはじめたのに注目したい。以降、倭に住む人々の心に無形の神に重なり、有形の仏が存在感をもってくる。仏教伝来は精神風土に、上から国家として統治する人々に知らず知らず影響を与えていくようになると考えています。(参考図書 『古代王権の展開』吉村 武彦)

2010年2月12日金曜日

(思い込み古代史) 富田 弘氏寄稿 [前方後円墳について](下)

                                  富田 弘氏寄稿 

3 まとめ
 <形について>
前方後円墳の原型は1Cから2Cの墳丘に張り出し・陸橋を伴った墳丘墓と思います。そして3C前半に最古級の前方後円墳と見なされる勝山古墳、巻向石塚古墳、ホケノ山古墳がヤマト三輪山山麓に現れます。いづれも全長100m級で前方部での儀式の痕跡、竪穴式石室や鏡の副葬などが見られます。続いて3C後半には全長280mと最古級古墳の倍以上ある箸墓古墳が出現し、続いて全長200m以上の巨大前方後円墳が巻向を中心とした桜井市、天理市にまたがり相次いで造営されます。そして、4Cからの各地の首長墓古墳はヤマトや河内の王墓を一定の比率で縮小し、石室、副葬品、埴輪も同形式の地域最大の前方後円墳です。その一方で、円墳などその他の既存古墳も並行して造営され続けています。これらは時代の推移による自然な変遷とは到底考えられず、古墳の造営に一定の約束事が出来上がったと考えることが妥当です。特に埋葬者の単なる追悼ではなく権威の継続を重視し、前方後円墳を王墓、首長墓として特定し、そのランクに応じた大きさ、副葬品、石室の形態、葺石、埴輪などのルールができたと考えます。その時期は最初の巨大古墳である箸墓古墳造営前の3C前半から中期と思います。これは邪馬台国(ヤマト)と、張り出しや埴輪の原型を持つ吉備との邪馬台国連合の意志が強く働いていると考えます。以上から私は④説を支持します。


<邪馬台国から初期ヤマト政権・河内政権へ>
前方後円墳造営の約束事ができる3C前半から中期は邪馬台国は狗奴国との戦いの時で非常に不安定な状態だったと考えます。魏志倭人伝ではこの戦いの結果は記載していませんが、邪馬台国有利の内に和解したと推定します。根拠は狗奴国想定地の濃尾平野では前方後方墳はその後も継続しますが、この前方後方墳は発展することなく徐々に前方後円墳が主流となります。濃尾平野で最大の古墳はやはり前方後円墳です。三角縁神獣鏡の分与も同様です。卑弥呼や台与はこの不安定な状態を乗り切るため、邪馬台国の権力を支えている鬼道のシンボルであろう三角縁神獣鏡などの鏡を各地の首長へ分与し、共通の祭祀の証しとすること、さらに邪馬台国勢力圏の秩序を図るため、前方後円墳を王墓、首長墓と決め、大きさ、石室様式、副葬品などのルールも作ったと考えます。これには盟友の吉備勢力の協力があったと思います。卑弥呼の晩年の時代に始まり後をついだ台与の代にルールが各地に浸透したと考えます。その象徴が箸墓古墳だと考えます。

 そして邪馬台国の呪術的な権威から、更に強い政治権力をもった初期ヤマト政権が三輪山山麓に誕生することになります。卑弥呼、台与、それに続く数代の王の墓が箸墓古墳に始まる巻向を中心とする桜井市、天理市に見られる全長200mを超える前方後円墳と思います。

 そして、5C以降ヤマト政権は、朝鮮半島との交易を通して勢力が増大した河内を本拠とした河内政権に移っていきます。河内地域の前方後円墳は400mを超える巨大古墳となります。河内の百舌鳥や古市の巨大古墳群は、大阪湾や当時の幹線だった古道から偉容を見ることができます。葬送や儀式だけではなく、権威の象徴として「見られる古墳」へと移っていったと考えます。大林組の試算によると、全長486mの大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の造営には、古代工法をとる場合、2000人/日の作業者で16年要するとなっています。その巨大さが読み取れます。

(思い込み古代史) 富田 弘氏寄稿 [前方後円墳について](上)

 2010.1.20、「反論邪馬台国」の富田 弘氏から「前方後円墳について」を寄稿いただきました。2回に分けて掲載いたします。             2010.2.13 中川 昌弘                               
                                     富田  弘寄稿
1 前方後円墳について
 古墳は全国で10万基以上あるといわれ、形も方墳、円墳、方墳の四隅が突出した四隅
突出墳、前方部が短い帆立貝式墳などさまざまですが、中でも前方後円墳は意味ありげな形に加え、その巨大さから大王墓や各地の首長墓となるものも多くあり、古墳の象徴といってもいいでしょう。この前方後円墳について考えてみます。

2 なぜこの形か
 諸説あるものの現在でもなぜこの形かはわかっていません。そもそも「前方後円」と方形部が前ということも慣例的にいっていることに過ぎません。江戸時代末期の学者が前方後円墳を横から見ると宮車に似ていることから、車(後円部)の引き手(前方部)を前として「前方後円」と名づけたものを今でも継承しているわけですが、これに代わる名称もないのでここでも前方後円墳として扱います。次に主な説とその補足をします。

①墳丘の張り出し部・陸橋の拡大説 
発生期の多くの墳丘墓には墳丘への墓道として張り出し部が敷設されていますが、これが発達して前方部となったというものです。張り出し部で行われていた葬送の儀式の重要さが増してきたことにより、張り出し部が拡大したという説です。同じ意味合いで周溝を伴う墳丘の溝の一部を堀り残して外と墳丘をつなぐ陸橋としたものが発達したという考えもあります。面白さはないですが学説の主流です。

②中国、朝鮮半島の古墳の移入説
だれにも浮かぶ考えですが、現段階ではこれを裏付ける発掘はなくこの説を積極的に主張する学説はありません。朝鮮半島の墳墓は石積塚が特徴でかつ埋葬位置は地下が多いようです。まず地下に埋葬してその上に石を積んでいく手法で、日本のような墳丘を造った後墳頂を浅く掘って埋葬する竪穴式石室とは根本的に異なります。高句麗の墳墓で最大のものは一辺62mの段築式石塚の太王陵古墳です。隣接の一辺30mの将軍塚古
墳とともに、近くに好太王碑が立っていることから、どちらかが広開土王陵と考えられています。高句麗の日本への影響は形態より古墳壁画だと思います。朝鮮半島南部に前方後円墳らしき古墳が見つかっていますがその様式は5~6Cの日本のものであり、埋葬者は朝鮮半島に進出した倭人か倭国に関係した韓人ではないかといわれています。
また、モンゴルにある紀元前後の匈奴の墳墓群に前方後方墳があるらしいですが、もとより日本への影響はわかりません。中国でも前方後円墳は見つかっておらず、始皇帝陵は一辺約500mの巨大な方墳です。したがって、葬送に関する思想は移入したと思いますが、現状では前方後円という形は日本独自のものと考えます。

③壺形説
 上から見ると壺に似ていることから、不老長寿の仙人の住む蓬莱山の形を模したものという説です。古代中国の神仙思想では、東の海に浮かぶ蓬莱山は壺の形をしていると想像されていることから、埋葬者の永遠の生命を願ったというものです。確かに最近の発掘で弥生時代には神仙思想が日本に伝わっていたことがわかっています。しかし当時の人々は古墳を上から見ることはできず、むしろ上からよりも側面から見た形に注目すべ
きでしょう。単純な疑問として、神仙思想の本家である中国では前方後円墳は見つかっていません。また、同じ方形の張り出し部を持つ前方後方墳はどう説明できるのでしようか。

④権力者の合意説
ヤマト(邪馬台国)の王、吉備、出雲の首長の会議により前方後円墳という形が決まったという説です。これは前方部は吉備に見られる墳丘の張り出しや各地の周溝墳の陸橋、出雲に多い四隅突出墳の突出部分を集約して、さらに古墳の要素である鏡などの副葬品、埴輪、石室なども各地の墳墓の特徴を盛り込んで前方後円墳を形造ったという考えです。
政治的に墓形が決まったとは現代的な感覚に過ぎないと思われそうですが、弥生時代には地域性のあった墳丘墓が、普遍的な前方後円墳に変わっていくという実態面からは合理的な説です。

2010年2月5日金曜日

(思い込み古代史)  12. 6世紀 継体天皇の登場

 倭の五王の一人と目される仁徳天皇から数えて10代目の武烈天皇に子供がいなかった。この王位を継いだのが6世紀の初めの継体天皇である。継体天皇は越(福井地方)の支配者として皇位継承をめざして、近畿地方に進出し、大和をうかがう形で507年、河内の樟葉で即位したと日本書紀にあります。次いで山城の筒城(京都府田辺町)、さらに弟国(長岡市)へと宮を移し、尾張の連草香の娘、目子媛を妃にして2子をもうけている。のちの安閑天皇と宣化天皇である。即位後大和王権につながる手白香皇女をめとり、正当性を得て。欽明天皇を生む。天皇の漢字号は8世紀後半に創られた。名は体を表し、従来の皇統から越の支配者に皇統が移ったことを「継体」といっている。

 512年 百済に朝鮮半島南部の任那4縣を割譲します。
 513年 百済が五経博士を派遣します。
 527年、新羅に侵略された朝鮮半島の南加羅を復興させるため、近江臣毛野を将軍とした6万人の軍勢を朝鮮南部にあったと思われる任那に派遣しょうとした。ところが、新羅が北九州に勢力をはっていた筑紫君磐井に連絡を取り、西下軍を阻止しょうとした。近江臣毛野が筑紫君磐井に共に朝鮮にむかおうと説得すると「昔は、君は同輩として大王に仕えた。それが、私に命令し朝鮮に軍をすすめよというのか。お断りする」といったのだろう、戦となった。結果は筑紫君磐井が敗北した。継体天皇は九州の不穏な動きを封じて531年薨去された。

 継体稜といわれている、今城塚古墳(高槻市)に行ったことがあります。今では公園のようになっていて、近くに埴輪工場もあり、大きな領域をしめる古墳でした。継体天皇は、古代史において、天皇の系譜が替わる節目の天皇と位置づけされると思います。

 継体天皇と大和王権につながる手白香皇女の間に生まれた欽明天皇の時代の552年 百済の聖明王が仏像を伝えました。百済が新羅とのせめぎあいの中で倭に近寄る一つのシンボルだったのでしょう。仏教はしばらく後に、国の統治に役立たせようとする動きとなっていきます。

 新たなパワー仏教を保護しょうとする渡来系の蘇我氏と仏教を排斥しょうとする物部氏が主導権を握ろうとして、新たな抗争が起こっていきます。

 次回は、古墳時代の総括として、富田 弘氏より「古墳について」の資料を拝受していますので2回ほどにわけて掲載予定です。(参考図書 「古代王権の展開」吉村 武彦 「日本の歴史(上)」文芸春秋)