2011年9月27日火曜日

[Let’s Watch Movies]映画「ミケランジェロの暗号」を観て

 ウォルフガング・ムルンベルガー監督「ミケランジェロの暗号」(2010年オーストリア映画)は、第2次世界大戦の際、ユダヤ人画商一族カウフマン一家が、密かに保存するミケランジェロの素描画をめぐって、ナチの争奪に対する、抵抗の物語。別に読んでいた、エクトール・フランシアーノ著「ナチの絵画略奪作戦」(ヒトラー、NO2のゲーリングは名画をこよなく好んでいた。ヒトラーはユダヤ人画商からアーリア人のかいた名画を収奪して、オーストリアのリンツに美術館を建ているつもりだった。現在も略奪したナチの絵画が、モドリ手を失った名画がルーブル・エルミタージュ他に保存され、一般の閲覧に供されている。)も背景を知る上で有益だった。

 この作品の見所を3点まとめてみました。

① 戦前(不穏なユダヤ人に対する風当たり)戦中(一挙に、ユダヤ人が追い詰められて
収容所へ移送される危機が生まれる)戦後(アメリカ軍が進駐する)と画商をとりまく世界が変転していく。

② 主題は、ナチスがムッソリーニに協力関係を強めるため、カウフマン一家のもつ、ミケランジェロのデッサン画を獲得して、提供し有利に同盟関係を展開しょうとすること。そこのところがアーリア系の一家の使用人が、からみ、カウフマンの1人息子との熾烈な知恵を尽くした対決が面白い。

③ ユダヤ人をものともしない人種観や、ナチの軍部にあることなかれ主義や独裁者の「ミケランジェロ獲得」の絶対命令の中で性切羽詰った軍部の対応等々、手に汗握る展開がある。戦後のあっけらかんとした変転も、「戦争は何だったのか」と思わせてくれる。

 娯楽大作でした。シネリーブル梅田で公開中です。(☆☆☆☆)(‘11.9.27 中川 昌弘)

2011年9月5日月曜日

[エッセー]贔屓(ひいき)


 「人生を豊かにするのに贔屓をもつことがある。」そんな主旨のことを谷沢永一「人間通」に書かれていた。

 私の場合、プロ野球は「日本ハムファイタース」、クラシック音楽は「モーツアルト」

9月4日「日本ハムファイタース」対「オリックスバッファローズ」を京セラドームに見に行った。結果は3-5で日本ハムファイタースが敗れた。最近の球場の変容に驚いた。電光表示で、バッターの経歴が出る。これを見ていると、カーンと音がして打球のいくえを見失う。TVでは、点の観戦だが、左右上下奥行きと立体感があった。シーズン最後まで残り1ケ月、楽天とオリックスの3位争いが熾烈。2位の日本ハムは、優勝目指して、首位ソフトバンクに、挑戦していく。おもしろい9-10月だ。

クラシックは。いろいろと聞く中で、「モーツアルト」。気楽なようで、深い。理屈ではない。こころが充たされる。

「「贔屓」は、自分との約束で、将来かえてもよい。人生を豊かにしてくれるなら、しばられることはない。」と谷沢永一はそのような主旨をいっておられる。だが、当分の間、これらの贔屓はかわらないだろう。(2011年9月5日 中川 昌弘)

2011年8月16日火曜日

[エッセー]韓日歴史大河ドラマ「トンイ」vs「江」楽しみ比較考

 2011年度韓日歴史大河ドラマの「トンイ」と「江」、毎週楽しませていただいています。簡単に楽しみ方を比較してみましょう、

「トンイ」(BSプレミアム毎日曜21-22時)奴婢であったトンイ(ハン・ヒョジュ)が、周囲のひきで宮廷にあがり、幾多の艱難辛苦の後、遂には王の側室となり、世継ぎを生む物語。監督は、「チャングムの誓い」「イ・サン」のイ・ビョンフン監督。「トンイ」の製作裏話をみて知ったが、脚本が女性の脚本家から毎回、週初めに到着する。キャストたちが読み合わせの後、撮影に入り、深夜から徹夜となることも。夜のシーンでは、明け方に近い深夜では?と思ったりする。

<朝鮮王朝のセット>別に作られたセットを使っているので臨場感がある。

<当時の町並み>セットでつくられており、内容により改良セットとする。

<涙、真正面に対する人と人>毎回、涙のみない回はない程、登場人物は涙を流す。人と人が向き合い、愛憎が表現される。これは韓国ドラマのすばらしい点だ。

<ストーリー>過去見た韓国歴史ドラマのいろんなエッセンスが、技巧をこらしてはまりこんでいる。例えば、漢方薬・・・組み合わせで毒にも薬にもなる・・・ひょうきんものを登場させ、見るものにほっとさせ笑わせるなど。
 
 8月14日現在、全60回の19回を終え、1/3のところにきた。はらはらさせられるとわかっても、毎回、引き込まれる。

「江」(NHKTV毎日曜20時-20:45)織田信長の妹、お市の方と浅井長政との子、3人姉妹(茶々・初・江)の江を軸として、物語が展開されている。原作・脚本は田渕久美子。
<セット>当時の城内でない雰囲気ではあるが、庭、畳の部屋、回廊と苦心のつくり。
CGで当時の城を遠景で映し、天守閣近辺に小さな鳥が飛んでいることを観る。

<涙、ストーリーとしての重視するコト>江(ごう)(上野樹里)は豊臣秀吉の命で3度、政略結婚させられる。気性の強い女性として描かれているが、運命の厳しさに時に涙する。韓国ドラマほどの涙は観ない。どちらかといえば描かれるのは歴史的コトの世界が多い。

 8月14日現在、31回済み、秀吉がなくなった。徳川の天下へどのように移行するか、゛歴史的事実はみんなが知っているところ。その中で、茶々と江と初の葛藤がみものです。

<江の関連土地紀行>韓国ドラマにはない、関連土地に親近感を覚える。

 韓日両国の歴史・民族風土より、少しづつ趣が違い、韓国はエンターティメントに仕上げ、日本はエンタメ+教育的国民的番組に仕上げようとしている。いずれにしても、週1日、楽しみを与えてくれています。関係者に感謝です。(2011年8月16日 中川 昌弘)

2011年8月6日土曜日

[本棚から]「若きウェルテルの悩み」 ゲーテ 秋山六郎兵衛訳

ゲーテ(1749-1832)ドイツの生んだ文学の巨匠。若い頃の自身の経験を踏まえての作品。

(主な登場人物)
ウェルテル ロッテに純愛をささげた青年主人公。
ロツテ 亡き母に代わり、弟や妹の面倒をみる。いいなづけのアルベルトの妻として生きるが、ウェルテルの熱情にゆれる女性。
アルベルト 慎重・堅実・実直。ウェルテルの友情をうけるが、ロッテがウェルテルに心を動かされるのをみて、心おだやかでない。

(構成)
 ウェルテルが友人にあてた書簡集として小説が構成される。

(結末)
 ウェルテルはこの世で、結実できない愛に悩み、自死を選ぶ。

 人生の中で、できれば若い頃に一度は読みたい書です。ウェルテルの心情も 一度は各人それぞれに経験したいものです。

 
 かのナポレオンも読んだようで、ナポレオンがドイツに軍を動かした際、ゲーテとあい、見た瞬間、「ウーン、人物だ」といわしめた。続いてゲーテ「ファウスト」を読んでいます。(2011.8.6 中川 昌弘)

2011年7月19日火曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の講演会で聴く―⑦(古代日本の姿)古代天皇制成立の謎~倭国から日本国へ~

11.7.8 大阪府立図書館名誉館長 上田正昭氏 於大阪府立図書館

 上田名誉館長の講演要旨は歴史的な資料14種の抜粋でご説明され次のようなものでした。

 「天武・持統朝には(遅くとも690年以降は)、倭国から日本国となり、大王から天皇の呼称となった。その要因は2つある。一つは対外的に663年白村江の戦いに唐・新羅連合軍に百済と共に戦って敗戦したこと。二つ目は対内的に天智天皇崩御後、672年壬申の乱で天智天皇の弟、大海人皇子(おおあまのみこ)が天智天皇の子息、大友皇子に勝利し、673年、天武天皇として即位したこと。国際的にも国内的にも緊張し、体制一新が必要とされた。」

① 日本の国号について 
「新唐書」東夷伝日本の条 670年に唐に使者が日本と自称
 (前略)咸享元年(670年) 遣使賀平高麗(使をおくって高麗を平定したお祝いをのべた) 後稍習夏音(しばしば中国の音を習って) 悪倭名(倭=小さい=という名をにくんで) 更号日本 使者自言 国近日所出以為名 (使者は自ら、日が出るところに近いため 日本と自称した)

「日本紀」(日本書紀のこと)天武天皇3年(674年)の条 内では、674年倭と。
 対馬国銀産出献上に関して凡銀有倭国 初出干此時 

「古事記」神伊波礼昆古命(かんやまといわれひこのみこと)云々 「古事記」は712年成立(伝承を記録するスタンス)
「日本紀」神日本磐余彦天皇云々 「日本紀」は720年成立(国史編纂のスタンス)
「令集解」公式令 (前略)御宇日本天皇詔旨(後略)大宝元年(701年)

② 天皇号
稲荷山古墳出土鉄剣銘文に 471年と想定される時期に大王と刻印
「古事記」序に「飛鳥の清原(きよみはら)の大宮に大八洲(おおやしまぐに)御(しら)しめしし天皇の御世・・・ 

「日本紀」天智天皇8年(669年)10月の条 (前略)天皇(後略・・・藤原鎌足の大臣位授与文言)

 天武持統朝のときに、(少なくとも690年以降は)日本国、天皇の呼称がされていた。

③  大倭から大和 大倭→大養徳→大倭→大和
「続日本紀」天平9年(737年)12月の条 改大倭国(やまとのくに)為大養徳国(やまとのくに)

「続日本紀」天平19年(747年)3月の条 改大養徳国(やまとのくに)為大倭国(やまとのくに)

「令集解」田令 凡畿内置宮田・・中略・・大和。摂津各町。河内・・・後略
   757年5月11日以降には大和が使われていた。

 大和となにげなく使っていますが、歴史的に大倭から大和へ8世紀半ばより使われだした。大和は奈良の地域をさすと同時に、日本のこころの部分をさす言葉として今日にいたっています。大和とは大倭だったんだと知ると、古代史が自分のものとなりそうです。

 京大名誉教授でもある上田正昭先生は、「古事記」1300年祭が、2012年行われる際、基調講演をされるとのことでした。天皇陛下にもご進講されたとのことです。完璧な講演(資料は原典抜粋のみ、何年何月何日の記録と暗記された中からいわれる。)を聴く機会を得て、皆様にもその一端が伝われば、幸いと思います。

 シリーズとして古代史講演会受講等により今7回で終了いたします。ご愛読ありがとうございました。また、BLOGを続けますのでよろしくお願いします、(2011年7月19日 中川 昌弘)

2011年7月17日日曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の講演会で聴く―⑥東アジアの壁画古墳と高松塚・キトラ古墳(関西大学講座)

11.7.7 関西大学文学部教授 米田 文孝氏 於関西大学

 米田教授の高松塚・キトラ古墳の講演から壁画の東洋思想の一部を次のようにご紹介します。

① 高松塚・キトラ古墳が築かれたと思われる “飛鳥時代”とは
663年白村江で唐・新羅連合軍に。百済と共に戦って敗戦し、対外的に緊張し、部族連合国家から中央集権国家へ転換していった。その一つの表れが次最終回に取り上げますが、7世紀末には国名を日本、大君を天皇と号しました。文明開化の時代で、大化の薄葬令により陵墓は大から小へ、埋葬から火葬へ転換初期(701年、道昭火葬)、隋唐から学んで、都城制度・官僚機構を整え、陰陽五行東洋思想にのっとった宮廷儀礼(元旦には、、外国の人も招き、お祝いをする。日・月四神の旗をかかげた宮廷庭の旗跡が発見されている。)も行われていた。

② 高松塚・キトラ古墳の壁画は陰陽五行説により配置装飾されている
そんな時代に成立した奈良県高市郡明日香村にある直径18メートル高さ5メートルの円墳・高松塚古墳の底部に切り石で組み合わされ長さ265.5cm巾103.5cm高さ113.4cmの石槨があり内部の四周天井に漆喰により壁画が描かれていました。
墓室の天井には星宿が配置されている。
4周をみれば次の壁画が極彩色にみられます。
北→玄武(亀と蛇による神像)
東北→女子群像
東→青龍(キリンのような龍神) 日像(3本足のヤタガラス)
南東→男子像
南→朱雀(鳥の神像)・・・あったと思われるが長年の劣化により消えている。 
南西→男子像
西→白虎(虎の神像) 月像(うさぎとかえる)
西北→女子群像

 陰陽五行とは、万物には陽と陰があり、5つの行 木・火・土・金・水 でなりたつ。方位・季節・色・・・を表す。木=東・春・青・・・、火=南・夏・赤(朱)・・、土=中央・黄、金=西・秋・黒・・、水=北・冬・白・・。4つの方位には守護神がいる。方位の4神と日月星宿に守られ被葬の貴人は鏡、太刀、宝玉を身近に置き眠られる。キトラ古墳は12支の神で守られています。朝鮮の古墳や石室壁画にも同様の画像があり、よく似ています。朝鮮との密接な交流がうかがわせます。

 7世紀-8世紀はじめ、隋唐の政治制度のよきところを取り入れ、朝鮮の人々の技術的指導を得て、日本の国が確立していきます。高松塚・キトラ古墳に葬られた貴人は、その後の日本の変容を、みまもってどう思われているでしょうか。約1300年の静寂の眠りの後、発掘等で世間に騒がれましたが、どうぞ安らかにお休み下さい。尚、高松塚古墳石槨の復元模型が関大博物館前にあります。
  
 日本の国号と天皇の呼称の時期はいつか、次回本稿最終回⑦として府立図書館講座からレポートします。(‘11.7.17 中川 昌弘)

2011年7月15日金曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の講演会で聴く―⑤(関西大学講座)東アジアにおける仏教僧の往来と奈良・平安仏教

11.6.30 関西大学文学部教授 原田 正俊氏 於関西大学

 原田教授の講演から600年代-800年代の仏教を唐との人の往来状況を次のように学びました。

① 奈良仏教の状況 「続日本紀」天平16年10月2日の条より 道慈(670-744)三論宗の僧(「日本書紀」の中の聖徳太子などの仏教記事編纂にくわわったとされる。) 「今の日本仏教は行業法式が「不如法」唐と異なる。仏は国土を守ってくれず、人々に利益はない。
在家→出家得度→沙弥→20歳以上。三師七証(10人)あるいは5人師のもとで受戒して正式な比丘になる。比丘は250戒、比丘尼は350戒 しかし、実際は守られていず、私度僧が多かった。

② 聖武天皇(在位724-749)仏教興隆政策をとる。742年唐の鑑真(55歳)、楊州大明寺で日本僧より唐僧の派遣を招聘され、誰も手があがらないので、自身が日本に渡ることを決意した。753年、6度目に10年ごしで渡日に成功したが、5度目の際、視力を失っていた。754年受戒一任の勅を受けた。755年東大寺戒壇院完成。ここに鑑真と弟子たちによる正式受戒(具足戒)はじまる。鑑真763年遷化。

③ 最澄(766-822) 785年東大寺戒壇院で具足戒をうける。804年 遣唐使とともに入唐、円(天台)禅戒密の4種相承。南都仏教の授戒制度の形骸化を非難。622年6月4日遷化。6月11日大乗戒壇認可される。最澄の弟子たちによって、大乗戒壇での授戒がひろまった。

 奈良時代では僧は国家公務員であったが、僧の認定制度がかっちりとせず、唐の鑑真和上の来日で授戒制度を導入、その基礎が築かれ、後に唐に渡った最澄によって大乗仏教の授戒に展開され、平安時代に授戒制度がかたまった。私なりに補足すると仏教の形(全国に60余の国分寺と國分尼寺をつくり、奈良の大仏開眼)はできたが、それを運用する心(僧の授戒制度の確立で優秀な僧を世に送り出す)がてきてなかったので仏教の心をいれたといえましょう。また、最澄の弟子たちが鎌倉仏教を興していきます。もう1人の巨人、空海も唐に渡り、真言密教の導入と鎮護国家の仏教定着に大いに貢献されました。

 仏教を国家経営の柱としていた当時、鑑真和上の苦心と執念の来日は、只今考えてみても、感謝の念が一杯となる。

 高松塚古墳、キトラ古墳の中国思想の壁画について次回⑥として関大講座からレポートいたします。(‘11.7.15 中川 昌弘)