11.6.30 関西大学文学部教授 原田 正俊氏 於関西大学
原田教授の講演から600年代-800年代の仏教を唐との人の往来状況を次のように学びました。
① 奈良仏教の状況 「続日本紀」天平16年10月2日の条より 道慈(670-744)三論宗の僧(「日本書紀」の中の聖徳太子などの仏教記事編纂にくわわったとされる。) 「今の日本仏教は行業法式が「不如法」唐と異なる。仏は国土を守ってくれず、人々に利益はない。
在家→出家得度→沙弥→20歳以上。三師七証(10人)あるいは5人師のもとで受戒して正式な比丘になる。比丘は250戒、比丘尼は350戒 しかし、実際は守られていず、私度僧が多かった。
② 聖武天皇(在位724-749)仏教興隆政策をとる。742年唐の鑑真(55歳)、楊州大明寺で日本僧より唐僧の派遣を招聘され、誰も手があがらないので、自身が日本に渡ることを決意した。753年、6度目に10年ごしで渡日に成功したが、5度目の際、視力を失っていた。754年受戒一任の勅を受けた。755年東大寺戒壇院完成。ここに鑑真と弟子たちによる正式受戒(具足戒)はじまる。鑑真763年遷化。
③ 最澄(766-822) 785年東大寺戒壇院で具足戒をうける。804年 遣唐使とともに入唐、円(天台)禅戒密の4種相承。南都仏教の授戒制度の形骸化を非難。622年6月4日遷化。6月11日大乗戒壇認可される。最澄の弟子たちによって、大乗戒壇での授戒がひろまった。
奈良時代では僧は国家公務員であったが、僧の認定制度がかっちりとせず、唐の鑑真和上の来日で授戒制度を導入、その基礎が築かれ、後に唐に渡った最澄によって大乗仏教の授戒に展開され、平安時代に授戒制度がかたまった。私なりに補足すると仏教の形(全国に60余の国分寺と國分尼寺をつくり、奈良の大仏開眼)はできたが、それを運用する心(僧の授戒制度の確立で優秀な僧を世に送り出す)がてきてなかったので仏教の心をいれたといえましょう。また、最澄の弟子たちが鎌倉仏教を興していきます。もう1人の巨人、空海も唐に渡り、真言密教の導入と鎮護国家の仏教定着に大いに貢献されました。
仏教を国家経営の柱としていた当時、鑑真和上の苦心と執念の来日は、只今考えてみても、感謝の念が一杯となる。
高松塚古墳、キトラ古墳の中国思想の壁画について次回⑥として関大講座からレポートいたします。(‘11.7.15 中川 昌弘)
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