2011年7月19日火曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の講演会で聴く―⑦(古代日本の姿)古代天皇制成立の謎~倭国から日本国へ~

11.7.8 大阪府立図書館名誉館長 上田正昭氏 於大阪府立図書館

 上田名誉館長の講演要旨は歴史的な資料14種の抜粋でご説明され次のようなものでした。

 「天武・持統朝には(遅くとも690年以降は)、倭国から日本国となり、大王から天皇の呼称となった。その要因は2つある。一つは対外的に663年白村江の戦いに唐・新羅連合軍に百済と共に戦って敗戦したこと。二つ目は対内的に天智天皇崩御後、672年壬申の乱で天智天皇の弟、大海人皇子(おおあまのみこ)が天智天皇の子息、大友皇子に勝利し、673年、天武天皇として即位したこと。国際的にも国内的にも緊張し、体制一新が必要とされた。」

① 日本の国号について 
「新唐書」東夷伝日本の条 670年に唐に使者が日本と自称
 (前略)咸享元年(670年) 遣使賀平高麗(使をおくって高麗を平定したお祝いをのべた) 後稍習夏音(しばしば中国の音を習って) 悪倭名(倭=小さい=という名をにくんで) 更号日本 使者自言 国近日所出以為名 (使者は自ら、日が出るところに近いため 日本と自称した)

「日本紀」(日本書紀のこと)天武天皇3年(674年)の条 内では、674年倭と。
 対馬国銀産出献上に関して凡銀有倭国 初出干此時 

「古事記」神伊波礼昆古命(かんやまといわれひこのみこと)云々 「古事記」は712年成立(伝承を記録するスタンス)
「日本紀」神日本磐余彦天皇云々 「日本紀」は720年成立(国史編纂のスタンス)
「令集解」公式令 (前略)御宇日本天皇詔旨(後略)大宝元年(701年)

② 天皇号
稲荷山古墳出土鉄剣銘文に 471年と想定される時期に大王と刻印
「古事記」序に「飛鳥の清原(きよみはら)の大宮に大八洲(おおやしまぐに)御(しら)しめしし天皇の御世・・・ 

「日本紀」天智天皇8年(669年)10月の条 (前略)天皇(後略・・・藤原鎌足の大臣位授与文言)

 天武持統朝のときに、(少なくとも690年以降は)日本国、天皇の呼称がされていた。

③  大倭から大和 大倭→大養徳→大倭→大和
「続日本紀」天平9年(737年)12月の条 改大倭国(やまとのくに)為大養徳国(やまとのくに)

「続日本紀」天平19年(747年)3月の条 改大養徳国(やまとのくに)為大倭国(やまとのくに)

「令集解」田令 凡畿内置宮田・・中略・・大和。摂津各町。河内・・・後略
   757年5月11日以降には大和が使われていた。

 大和となにげなく使っていますが、歴史的に大倭から大和へ8世紀半ばより使われだした。大和は奈良の地域をさすと同時に、日本のこころの部分をさす言葉として今日にいたっています。大和とは大倭だったんだと知ると、古代史が自分のものとなりそうです。

 京大名誉教授でもある上田正昭先生は、「古事記」1300年祭が、2012年行われる際、基調講演をされるとのことでした。天皇陛下にもご進講されたとのことです。完璧な講演(資料は原典抜粋のみ、何年何月何日の記録と暗記された中からいわれる。)を聴く機会を得て、皆様にもその一端が伝われば、幸いと思います。

 シリーズとして古代史講演会受講等により今7回で終了いたします。ご愛読ありがとうございました。また、BLOGを続けますのでよろしくお願いします、(2011年7月19日 中川 昌弘)

2011年7月17日日曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の講演会で聴く―⑥東アジアの壁画古墳と高松塚・キトラ古墳(関西大学講座)

11.7.7 関西大学文学部教授 米田 文孝氏 於関西大学

 米田教授の高松塚・キトラ古墳の講演から壁画の東洋思想の一部を次のようにご紹介します。

① 高松塚・キトラ古墳が築かれたと思われる “飛鳥時代”とは
663年白村江で唐・新羅連合軍に。百済と共に戦って敗戦し、対外的に緊張し、部族連合国家から中央集権国家へ転換していった。その一つの表れが次最終回に取り上げますが、7世紀末には国名を日本、大君を天皇と号しました。文明開化の時代で、大化の薄葬令により陵墓は大から小へ、埋葬から火葬へ転換初期(701年、道昭火葬)、隋唐から学んで、都城制度・官僚機構を整え、陰陽五行東洋思想にのっとった宮廷儀礼(元旦には、、外国の人も招き、お祝いをする。日・月四神の旗をかかげた宮廷庭の旗跡が発見されている。)も行われていた。

② 高松塚・キトラ古墳の壁画は陰陽五行説により配置装飾されている
そんな時代に成立した奈良県高市郡明日香村にある直径18メートル高さ5メートルの円墳・高松塚古墳の底部に切り石で組み合わされ長さ265.5cm巾103.5cm高さ113.4cmの石槨があり内部の四周天井に漆喰により壁画が描かれていました。
墓室の天井には星宿が配置されている。
4周をみれば次の壁画が極彩色にみられます。
北→玄武(亀と蛇による神像)
東北→女子群像
東→青龍(キリンのような龍神) 日像(3本足のヤタガラス)
南東→男子像
南→朱雀(鳥の神像)・・・あったと思われるが長年の劣化により消えている。 
南西→男子像
西→白虎(虎の神像) 月像(うさぎとかえる)
西北→女子群像

 陰陽五行とは、万物には陽と陰があり、5つの行 木・火・土・金・水 でなりたつ。方位・季節・色・・・を表す。木=東・春・青・・・、火=南・夏・赤(朱)・・、土=中央・黄、金=西・秋・黒・・、水=北・冬・白・・。4つの方位には守護神がいる。方位の4神と日月星宿に守られ被葬の貴人は鏡、太刀、宝玉を身近に置き眠られる。キトラ古墳は12支の神で守られています。朝鮮の古墳や石室壁画にも同様の画像があり、よく似ています。朝鮮との密接な交流がうかがわせます。

 7世紀-8世紀はじめ、隋唐の政治制度のよきところを取り入れ、朝鮮の人々の技術的指導を得て、日本の国が確立していきます。高松塚・キトラ古墳に葬られた貴人は、その後の日本の変容を、みまもってどう思われているでしょうか。約1300年の静寂の眠りの後、発掘等で世間に騒がれましたが、どうぞ安らかにお休み下さい。尚、高松塚古墳石槨の復元模型が関大博物館前にあります。
  
 日本の国号と天皇の呼称の時期はいつか、次回本稿最終回⑦として府立図書館講座からレポートします。(‘11.7.17 中川 昌弘)

2011年7月15日金曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の講演会で聴く―⑤(関西大学講座)東アジアにおける仏教僧の往来と奈良・平安仏教

11.6.30 関西大学文学部教授 原田 正俊氏 於関西大学

 原田教授の講演から600年代-800年代の仏教を唐との人の往来状況を次のように学びました。

① 奈良仏教の状況 「続日本紀」天平16年10月2日の条より 道慈(670-744)三論宗の僧(「日本書紀」の中の聖徳太子などの仏教記事編纂にくわわったとされる。) 「今の日本仏教は行業法式が「不如法」唐と異なる。仏は国土を守ってくれず、人々に利益はない。
在家→出家得度→沙弥→20歳以上。三師七証(10人)あるいは5人師のもとで受戒して正式な比丘になる。比丘は250戒、比丘尼は350戒 しかし、実際は守られていず、私度僧が多かった。

② 聖武天皇(在位724-749)仏教興隆政策をとる。742年唐の鑑真(55歳)、楊州大明寺で日本僧より唐僧の派遣を招聘され、誰も手があがらないので、自身が日本に渡ることを決意した。753年、6度目に10年ごしで渡日に成功したが、5度目の際、視力を失っていた。754年受戒一任の勅を受けた。755年東大寺戒壇院完成。ここに鑑真と弟子たちによる正式受戒(具足戒)はじまる。鑑真763年遷化。

③ 最澄(766-822) 785年東大寺戒壇院で具足戒をうける。804年 遣唐使とともに入唐、円(天台)禅戒密の4種相承。南都仏教の授戒制度の形骸化を非難。622年6月4日遷化。6月11日大乗戒壇認可される。最澄の弟子たちによって、大乗戒壇での授戒がひろまった。

 奈良時代では僧は国家公務員であったが、僧の認定制度がかっちりとせず、唐の鑑真和上の来日で授戒制度を導入、その基礎が築かれ、後に唐に渡った最澄によって大乗仏教の授戒に展開され、平安時代に授戒制度がかたまった。私なりに補足すると仏教の形(全国に60余の国分寺と國分尼寺をつくり、奈良の大仏開眼)はできたが、それを運用する心(僧の授戒制度の確立で優秀な僧を世に送り出す)がてきてなかったので仏教の心をいれたといえましょう。また、最澄の弟子たちが鎌倉仏教を興していきます。もう1人の巨人、空海も唐に渡り、真言密教の導入と鎮護国家の仏教定着に大いに貢献されました。

 仏教を国家経営の柱としていた当時、鑑真和上の苦心と執念の来日は、只今考えてみても、感謝の念が一杯となる。

 高松塚古墳、キトラ古墳の中国思想の壁画について次回⑥として関大講座からレポートいたします。(‘11.7.15 中川 昌弘)

2011年7月13日水曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の講演会で聴く―④(関西大学講座)東アジアの中の遣隋使と古代日本

11.6.23 関西大学文学部教授 西本 昌弘氏 於関西大学

 西本教授の講演から600年代の遣隋使の状況を次のように学びました。以下は「隋書」倭国伝の記載によります。

① 600年(推古8年) 倭王 遣使入朝「倭王は天を兄、日を弟とす。未明に政務(跏趺坐=あぐらをかいて座る)。日の出後は政務中止」⇒隋の文帝(楊堅)「はなはだ義理なし」→訓示して改めさせる。

② 607年(推古15年) 倭王 遣使朝貢「海西の菩薩天子、重び仏法を興す、故に遣使朝拝、兼ねて沙門数十人来たりて仏法を学ぶ」国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す、恙(つつが)無きや、云々」と、⇒隋の煬帝よろこばず「蛮夷の書、無礼なる者あり」→国書の体をなさず、私信の体。しかし、仏法を学ぶに数十人派遣し熱心、どこか倭国は骨ある国と思ったのか、高句麗に対する布石か、608年 斐世清を倭国に派遣した。

③ 608年(推古16年) 「煬帝は斐世清を倭国に派遣。清は都に至り倭王に相見(まみ)える。倭王曰く「海西に大隋礼儀の国あり、故に遣使朝貢す。我は夷人、礼儀を聞かず」→倭王は清(の帰国)に随い、使者を派遣、方物を献上。

 「日本書紀」推古16年の条でも斐世清の来日のことをより詳しく記載されています。高校生のころ、日本史で607年「日出ずる處の天子云々」と対等外交と学びましたが、実際は朝貢外交で、隋の文帝から政治のしかたを変えるように指導を受け、倭国もあらためました。608年には斐世清の来日に際し「我は夷人、礼儀を聞かず云々」とへりくだり、607年の国書のわびをいれているようです。仏教については沙門数十人派遣しその熱意が伝わります。倭は百済から552年、仏像と仏典を得ていました。朝鮮半島の情勢の変化もあり、直接中国から情報を得ようとしたのでした。

 仏教についてその後の中国からの導入状況を次回⑤として関大講座からレポートいたしましょう。(‘11.7.13 中川 昌弘)

2011年7月10日日曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の見学会で学ぶ―③高槻市今城塚古代歴史館、史跡今城塚古墳見学

11.6.28 (吹田市立博物館ボランティア見学会)

 JR摂津富田駅より北(徒歩約30分、バス南平台経由奈佐原行き「今城塚古墳前」徒歩すぐ)無料。高槻市のボランティアの方々によりご説明いただきました。

① 「今城塚古代歴史館」 
(イ)高槻市近辺の古墳の3世紀から7世紀までの概況がわかるよう時代別に展示されている。
(ロ)平地に1人1回一袋をかついでつみあげた今城塚古墳のなりたちがわかりやすく展示されている。(ハ)その後の地震で崩落した石棺が復元展示されている。(ニ)埴輪のレプリカが展示されている。(埴輪工房が近くにあります。埴輪に船の線刻があるものがありました)(ホ)その他
  

② 「史跡 今城塚古墳」 今城塚古代歴史館を一旦出て、実際に古墳を見学できます。圧巻は古墳から張り出したスペースがあり埴輪がレプリカ展示されています、葬送儀礼の埴輪群で、発掘時の精密な記録により立ち位置が特定されています。被葬の大王が、命じたものと思えます。


③ 被葬の大王 宮内庁は継体天皇陵は、別の陵を指定しています。淀川流域で2重の濠をそなえた6世紀最大の前方後円墳は継体大王(聖徳太子直系の曽祖父)のものといわれています。注)後に、触れますが、天皇の呼称は7世紀の終り頃より使われ、それまでは大王と呼称されていました。

 御陵が宮内庁の天皇陵として指定されていない為、史跡公園として整備されているのは歴史の面白いところです。もし天皇陵として指定されていれば、立ち入り禁止で遠くから眺めるだけのものとなったでしょう。

(尚、当BLOG 2010年2月 思い込み古代史12 継体天皇の登場 を ご参考下されば幸いです。)


 600年代はじめ遣隋使を聖徳太子が派遣します。東アジアの中で、どのような位置づけにあるのか?④遣隋使は対等外交であったか?次回、関大講演会からレポートしましょう。(‘11.7.10 中川 昌弘)

2011年7月6日水曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の講演会で聴く―②(関西大学講座)隋唐帝国と東アジア世界の成立

11.6.16 関西大学文学部教授 森部 豊氏 於関西大学

 森部教授の講演会から5-7世紀の中国の状況を次のように学びました。

① 中国では、後漢王朝が滅び、遊牧民族が中国北部へ進出し建国、5胡16国といわれる時代が続きます。漢族は揚子江流域に亡命し、南朝政権をつくります。5世紀初頭、439年、センピ族、タクバツ部族により華北が統一されます。北魏建国、これを北朝といいます。遊牧的部族制国家から中国的制度を導入します。均田制を導入、孝文帝は漢化を進め、洛陽に都をおきます。胡服、胡語を禁止します。543年北魏は北辺防衛軍の叛乱により、東魏、西魏に分裂、東魏は北斉に西魏は北周になります。

② 北周から政権を奪取したのが楊堅、後の隋の文帝です。581-618年隋が成立します。唐を建国したのも婚姻でつながっていた騎馬民族李氏です。日本は、遣隋(唐)使を派遣し、中国に学んでいきます。

③ 隋唐王朝は騎馬民族ゆえに漢族含む多様な民族に普遍的な統治の原理を要しました。それらは次のようなものでした。

(イ)体系的な法律制度=律令制(律は中国に残り、令は日本に残ります。)
(ロ)形式美に満ちた官僚制度と王朝儀礼
(ハ)新宗教(仏教)の導入
(ニ)理想都市としての都市プラン・・長安城の建設(日本の平安京のモデルとなった) 都城=天子の住まうところ、文明の中心地。文明の及ぶところが中華、それ以外は夷。

 隋唐帝国は、「胡」と「漢」が融合したまったく新しい世界であった。建国途上の日本は中国の強大な文明のパワーに刺激されて成立していく。朝鮮に於いても、高句麗がその脅威を受けていました。

 東アジアの中で、日本の歴史を考えてみますと、大きな流れの中で、善戦している日本が見えてきます。隋唐の法制度、仏教導入、都城論を聞いているとそれらに学んだ日本に照らし合わせ「目から鱗」のような理解を得ることができた気がします。

 次回は、倭の五王の後を辿ったと思われる高槻にあるH23年4月OPENの「今城塚古代歴史館」「史跡今城塚古墳」の見学の状況をレポートいたしましょう。(H23.7.6 中川 昌弘)

2011年7月1日金曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の講演会で聴く―①(古代日本の姿)河内王朝と倭の五王

11.6.26 大阪府立図書館名誉館長 上田正昭氏 於大阪府立図書館

 上田名誉館長の講演要旨は次のようなものでした。
 「5世紀に河内に王朝があった。(1967年に発表)その根拠は、
① 和泉(757年に河内から分離呼称)に巨大古墳 大山古墳(伝仁徳天皇陵)全長486m 河内に誉田山古墳(伝応仁天皇陵)430m 和泉にミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)360m 巨大古墳ベスト3があり、ベスト5の内4までが河内にある。
② 古代には天皇即位の儀式に“八十島祭り”が行われていた。八十島とは国生みが、大阪湾で行われたことをあらわしている。
③ 和風諡号にワケのつく人が仁徳天皇除き続く。15代応仁天皇(ホムダワケ)16代仁徳天皇(オホサザキ)17代履中天皇(オホエノイザホワケ)18代反正天皇(タジヒノミズハワケ) ワケのかたまりをさす。尚、10代崇神天皇(ミマキイリヒコイニエ)11代垂仁天皇(イクメイリヒコイサチ)は吉備からヤマトに入ったイリヒコとのこと。

 その河内王朝は、中国南朝の宋に使いを出し、百済に迫っていきた高句麗に対抗するため、倭の5王が421年から60年にわたり朝貢する。讃(履中天皇)・珍(反正天皇)・済(允恭天皇)・興(安康天皇)・武(雄略天皇)である。

 上田名誉館長は、巨大古墳リスト、大王号和風諡号関連一覧、「宋書」関係原文、稲荷山古墳鉄剣、江田船山古墳太刀資料を元にされ、自説の絶対的自信と自説の弱点なども明確に説明され、400人にも及ぶ聴衆は魅了されたしだいです。そこに完成された人格を仰ぎ見ました。

 尚、小生 本BLOG 2010年1月「思い込み古代史」11「5世紀、ヤマトから大阪湾沿岸南地区へ」として関連項目の自説を記載していますので よろしければ ご参考下さい。 

 シリーズとして7回掲載予定です。次回は②5~7世紀の中国の状況について 関西大学吹田市民大学の講演会のレポートをします。酷暑の候 御身ご自愛下さい。各位のご活躍を祈念申し上げます。(2011年7月1日 中川 昌弘)