11.6.23 関西大学文学部教授 西本 昌弘氏 於関西大学
西本教授の講演から600年代の遣隋使の状況を次のように学びました。以下は「隋書」倭国伝の記載によります。
① 600年(推古8年) 倭王 遣使入朝「倭王は天を兄、日を弟とす。未明に政務(跏趺坐=あぐらをかいて座る)。日の出後は政務中止」⇒隋の文帝(楊堅)「はなはだ義理なし」→訓示して改めさせる。
② 607年(推古15年) 倭王 遣使朝貢「海西の菩薩天子、重び仏法を興す、故に遣使朝拝、兼ねて沙門数十人来たりて仏法を学ぶ」国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す、恙(つつが)無きや、云々」と、⇒隋の煬帝よろこばず「蛮夷の書、無礼なる者あり」→国書の体をなさず、私信の体。しかし、仏法を学ぶに数十人派遣し熱心、どこか倭国は骨ある国と思ったのか、高句麗に対する布石か、608年 斐世清を倭国に派遣した。
③ 608年(推古16年) 「煬帝は斐世清を倭国に派遣。清は都に至り倭王に相見(まみ)える。倭王曰く「海西に大隋礼儀の国あり、故に遣使朝貢す。我は夷人、礼儀を聞かず」→倭王は清(の帰国)に随い、使者を派遣、方物を献上。
「日本書紀」推古16年の条でも斐世清の来日のことをより詳しく記載されています。高校生のころ、日本史で607年「日出ずる處の天子云々」と対等外交と学びましたが、実際は朝貢外交で、隋の文帝から政治のしかたを変えるように指導を受け、倭国もあらためました。608年には斐世清の来日に際し「我は夷人、礼儀を聞かず云々」とへりくだり、607年の国書のわびをいれているようです。仏教については沙門数十人派遣しその熱意が伝わります。倭は百済から552年、仏像と仏典を得ていました。朝鮮半島の情勢の変化もあり、直接中国から情報を得ようとしたのでした。
仏教についてその後の中国からの導入状況を次回⑤として関大講座からレポートいたしましょう。(‘11.7.13 中川 昌弘)
0 件のコメント:
コメントを投稿