2011年7月6日水曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の講演会で聴く―②(関西大学講座)隋唐帝国と東アジア世界の成立

11.6.16 関西大学文学部教授 森部 豊氏 於関西大学

 森部教授の講演会から5-7世紀の中国の状況を次のように学びました。

① 中国では、後漢王朝が滅び、遊牧民族が中国北部へ進出し建国、5胡16国といわれる時代が続きます。漢族は揚子江流域に亡命し、南朝政権をつくります。5世紀初頭、439年、センピ族、タクバツ部族により華北が統一されます。北魏建国、これを北朝といいます。遊牧的部族制国家から中国的制度を導入します。均田制を導入、孝文帝は漢化を進め、洛陽に都をおきます。胡服、胡語を禁止します。543年北魏は北辺防衛軍の叛乱により、東魏、西魏に分裂、東魏は北斉に西魏は北周になります。

② 北周から政権を奪取したのが楊堅、後の隋の文帝です。581-618年隋が成立します。唐を建国したのも婚姻でつながっていた騎馬民族李氏です。日本は、遣隋(唐)使を派遣し、中国に学んでいきます。

③ 隋唐王朝は騎馬民族ゆえに漢族含む多様な民族に普遍的な統治の原理を要しました。それらは次のようなものでした。

(イ)体系的な法律制度=律令制(律は中国に残り、令は日本に残ります。)
(ロ)形式美に満ちた官僚制度と王朝儀礼
(ハ)新宗教(仏教)の導入
(ニ)理想都市としての都市プラン・・長安城の建設(日本の平安京のモデルとなった) 都城=天子の住まうところ、文明の中心地。文明の及ぶところが中華、それ以外は夷。

 隋唐帝国は、「胡」と「漢」が融合したまったく新しい世界であった。建国途上の日本は中国の強大な文明のパワーに刺激されて成立していく。朝鮮に於いても、高句麗がその脅威を受けていました。

 東アジアの中で、日本の歴史を考えてみますと、大きな流れの中で、善戦している日本が見えてきます。隋唐の法制度、仏教導入、都城論を聞いているとそれらに学んだ日本に照らし合わせ「目から鱗」のような理解を得ることができた気がします。

 次回は、倭の五王の後を辿ったと思われる高槻にあるH23年4月OPENの「今城塚古代歴史館」「史跡今城塚古墳」の見学の状況をレポートいたしましょう。(H23.7.6 中川 昌弘)

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