2009年1月9日金曜日

中国名言集③「管鮑(かんぽう)の交わり」④衣食足りて栄辱を知る

 以下はNHK知るを楽しむ 宮城谷昌光「孟嘗君と戦国時代」より抜粋し脚色して記載します。

 BC11世紀周の武王を助けて殷を滅亡させたのは、牧畜民の羌族出身の太公望であった。その功で周王室から今の山東省のところに「斉」の国をさずけられる。それからおよそ270年後、周は滅亡状態となるが、平王が洛陽の地で王朝を再興した。(BC770)それを東周と呼ぶが別称として「春秋・戦国時代」という。周王は諸侯の争いを調停する力をもたなく、諸侯の中の実力者を探して盟主として立て結束するようになった。春秋時代の初期は斉の桓公であった。そうあらしめたのが、臣下の管仲(?-BC645)であった。管仲を臣下として桓公に勧めたのが鮑叔(ほうしゅく)であった。

 鮑叔「一国の経営であれば自分でもできるが、天下を治めるには管仲が必要」
 桓公「そうか、どこに処遇すればよいか」
 鮑叔「私が大臣の職を引き、その後釜としてください」
という経過で管仲が斉の大臣となった。後に孔子(BC551-479)は鮑叔の進退を手放しでほめた。管仲・鮑叔の相手を認め合う交遊を「管鮑の交わり」という。

 管仲は国の制度、兵制を整え、経済政策を実行して斉国を富み、強くした。
 後世の管仲崇拝者が作った「管子」に次の文がある。

 「倉廩(そうりん)実つれば、すなわち礼節を知り、衣食足れば、即ち栄辱を知る」

 周王は斉国の隆昌をこころよく思っていなかったのは勿論である。

 NHKTV日曜「天地人」直江兼続の生涯を描く大河ドラマが 1月4日から始まった。戦国から江戸時代へ、上杉謙信を師として上杉景勝を補佐する名将の物語である。どこか、直江兼続と管仲が似ていると思ったのだが、結末は違う。管仲の死後、斉の国は衰退に向かい、王権者が田氏に交代して復活する。上杉家は徳川家康に「義」において問題ありと直江文をつきつけ「関が原の戦い」西軍敗退の後、上杉家は1/4の領土になるが戦国から泰平の江戸時代に存続していく。(WELL BE)

2009年1月3日土曜日

中国名言集②「殷鑑遠からず」

 藤堂明保著「中国名言集」(上)によると、「周のはじめ、成王を助けて摂政の役についた周公はこわいおじ様であった。「書経」の「無逸篇」はその周公が建国当初、成王以下の周の王族たちを戒めた訓示である。「父母は農耕に勤労すれど、その子は農耕の艱難を知らず、・・・昔、殷の中宗は小民を治めてひたすら恐れ、あえて怠らず国をうくること75年なり。殷の高宗は久しく、外に労して民とともにせり、故に国をうくること59年なり・・・・これより後は農耕の艱難を知らず、故にひさしきことあたわず、10年もしくわ7,8年あるいは5,6年もしくは4,3年にして滅びたり」

 殷の西部に勢力をおいていた周の武王が殷が滅ぼしたのは、紀元前11世紀の半ば、山東半島にいた太公望の助力を得た。先出の周公は武王をも助けた。「殷鑑遠からず」とは、周の時代になって、殷が滅んだことを鑑とせよ、そんなに遠い昔のことではないといつているのである。殷といい、周といい、直接支配しているのは小さな範囲で、封建領主の支配者となっていた。

 古い時代のことわざだが、毛沢東の文化大革命でも、知識人の農村下放があったが、根本の考えは時代を超えて戻ってくるようだ。

 余談ですが、滅んだ殷は養蚕・陶器・漆器・青銅器等の文明が栄えていた。殷人は特産物を、各地に売り歩くこととなる。これを「商」と呼び、勝った周も殷人の力を必要としたが、これをさげすんで、「商」人の位置を最下層とした。殷のことを中国では「商」とよんでいる。

 後に、日本でも江戸時代に士農工商と「商」人は最下位の位置づけとなったのは、中国の古い時代からの考え方のマネであったと思われる。(藤堂明保著中国名言集(上)他を参考としました。WELL BE)

2008年12月28日日曜日

中国名言集①文字あらわれて鬼すすりなく

 今からおよそ3500年前、中国で文字が生まれた。殷という国が中国東部(山東省・山西省)にあった。殷王が、ことを起す際に占い、結果を獣や亀の甲羅に文字(甲骨)を彫り付けた。甲骨文字から、文字が作り出されていった。文字がなかったころはヒモを結んでお互いに示し忘れないようにした結縄の世(「周易」他にみえる)であったという。文字は権力の支配の道具として生まれた。「人」、「子」、「女」は形をなぞらえて作る象形文字として生まれたが、3300年前ころ動態漢字として、女が子どもをあやして、すきすきする様を「女+子」とし、「好き」、人が木陰で休むのを「人+木」で「休む」としていった。殷第27代 武乙(ブオツ)のころには2~3000の記号が揃って、一連の事柄をメモできる「文字」の体系ができあがった。(以上*)

 文字は残虐な支配者の記録でもあった。例えば「懸」という字は「首」を逆さにして糸で吊るしてぶらさげるという字源です。心をとれば「縣」として○○縣として境を表す字となります。20世紀前半まで、中国では「字を書いた紙」を鎮魂のため燃やす「惜字炉」がありました。漢字には魂が宿っていると信じられてきました。(以上**)中国の古いことわざに「文字あらわれて鬼(人魂)すすりなく」(列氏という書にみえる)とありました。(以上*)

 日本には紀元前後中国から漢字が伝えられましたが、当時は言霊の世界で、言葉にして言うことに霊がこもるという考えがあり、以心伝心の世界に容易に文字が踏み込みませんでした。6世紀、仏教が百済から招来され聖徳太子の時代以降、漢字が採用されるようになってきました。支配者として道具が必要になったのでしょう。500年間、漢字を受け入れるのに躊躇してきた国民性にも思いを馳せてみるのも、興味深いことです。(以上**) 


 中国の古い歴史をことわざでたどろうと、先学の書籍を勉強して、紹介しながら断続的に掲載していきます。ご笑覧くだされば幸いです。(WELL BE)

(*)朝日文庫 中国名言集(上)=藤堂明保=より一部または大要を引用 、(**)NHK日中二千年漢字のつきあい=加藤 徹=、より一部または大要を引用)

2008年12月26日金曜日

映画「歩いても、歩いても」を観ました。

 12月に入って以来、忘年会が続き、不養生がたたって風邪を引いてしまいました。熱が出ましたので、懸命に寝て、ようやく小康を得て、妻との映画クラブとして「歩いても、歩いても」を12.26(金)千里セルシーシアターで観ました。

 ほぼ、80%の入りで関心の高さが伺えました。

 原作・脚本・監督 是枝 裕和、出演 阿部 寛、樹木 希林、原田 芳雄 老夫婦と息子と娘夫婦の盆の里帰り(長男の15回目の命日)をベースにおき、観る各人に日常をだぶらせて思い起こさせるよい作品でした。(例えば、次のようなことです。)

 広い家に医者であった老夫婦が住んでいる。長女一家がいそうろうできないか?と思っている娘とそうはしたくないと思っている?母親の心理がこまやかな包丁さばきに織り成されている。

 息子夫婦は、失業中をかくして、両親と対話しながらとりつくろう。親父のがんこさ加減、息子の意地の張りようが会話と態度ににじんでいる。

 私はこの映画を観ながら、小津 安二郎の手法が入っていると思った。海のアル丘の上の風景、電車が丁度頃よい時に視界に入ってくる。また、去っていく。小津と違うところは、静と動が画面で混在していること。これにより、画面に躍動感と観る人に少々のいらだちを与える。若い躍動感を感じ、是枝監督の可能性を見出すことが出来る。

 お正月も上映しています。(WELL BE)

2008年12月11日木曜日

関大二階堂 善弘教授の「日本禅宗寺院に残る宋代の神々」受講しました

 渋沢栄一記念財団寄附講座 関西大学  二階堂 善弘教授の「日本禅宗寺院に残る宋代の神々」を12.10(水)、受講しました。

 中国から渡った神々は日本ではそのままの当時の姿を残していますが、中国・チベット・朝鮮においてはともに変化し、その変化はほぼ同一とのことでした。例えば4天王の持ち物・・・現在では・・・

     日本         中国他大陸
多聞天 宝塔と三叉の戟    傘
広目天 筆と巻物 戟槍    蛇または龍
持国天 刀・槍・戟 金剛杵  琵琶
増長天 刀・槍・戟 金剛杵  剣

(私見)日本は物持ちが良いのか? 変更を嫌うのか? 外来文化に畏敬の念があるのではないでしょうか?これらは唐の時代からの到来物と思います。多少当時はキナくさかった(刀・槍・戟をもっていらっしゃる)のでしょうか?その後、大陸では平和がおとづれ、傘や琵琶をもつことに変化したと思います。青森の「ねぶた祭り」も中国からの輸入のもので、現在の中国ではなくなっていて、日本で見れる喜びを王敏さんが書いておられました。

  現在の中国では、三国志の関羽を神格化した関帝を祭っていることが多く、当家でも横浜で買い求めた関帝像が矛をもっていらっしゃいます。

 二階堂教授は当講演会シリーズの司会をされていますが、中国の神様他、ITにも強い方と知りました。いつも、ひょうひょうと司会されている二階堂教授には中国の神々が守護され、中国の神々の研究を進めておられるように思いました。(WELL BE)
          

2008年12月8日月曜日

関大3研究所合同シンポジゥムに出席しました。

 12.6(土)関大東西学術研究所、経済・政治研究所、法学研究所の合同シンポジゥム「アジアにおける経済・法・文化の展開と交流」に出席しました。概要をお知らせしましょう。

 KARIMOVA Surayoさん(ウズベキスタン科学アカデミー副所長)の発表
 ギリシャの科学の伝承者として中世の時代を通してインドの0の概念をくわえた数学・天文学・航海術等の研究が盛んで、後にヨーロッパ社会に諸技術を伝播させた。蒙古の襲来、植民地時代、ソビエト連邦では有益な発展は出来なかった。(通訳 神戸大学磯貝さん)

 徐 国君さん(中国海洋大学学長補佐・教授 ハイアール他社外取締役)の発表
 現在の財務会計は、資金・資本の管理が基本となっている。行為価値を加えた立体会計が必要である。行為とは人間の行為のことで、人間の創意工夫による価値創出が会計として含めねばならない。尚、具体化に向けて緒に就いたばかりとの事でした。発表後、価値の追求は資本主義でないか との質問に対して、資本・お金に主眼をおかず、人間に置くところが違うとの事であった。(通訳 唐 楽丁寧さん)

 杜 鋼建さん(汕頭大学法学院院長・教授)の発表 
 中国政府のトップ層に、儒家思想(日本では儒教)の大切さが理解されてきつつあり、「公」から「民」へ流れが変わっていくだろう。
 現在の問題は「公」が「公の権益」を増やすため「規制」をかけ、「公」の人達の出世につながるような制度を作ってきた。杜さんの主張にようやく誤りに気がついて、政治のTOP層が耳を傾けているとのことでした。発表後、武士道は儒教思想に裏付けられているとの質問に「侍は刀を抜かないことを旨としている。儒家の思想は「徳」を大切にしている。」との回答をされていました。(通訳 白 巴根さん)

 中国の変わりゆく現状を認識しました。行為価値会計の導入の目論見、「公」から「民」へ、香港・マカオ・台湾統合を意識した「儒家の思想」による政治がじわじわ進んでいくのでしょう。この先は国家の代表が選挙で選ばれることも遠い先に意識されていると思いました。中央アジアの科学の貢献については忘れられがちなことで東洋と西洋をつなぐ意味でも伝播する意味でも大切な地域だと思いました。(WELL BE)

2008年12月4日木曜日

王柯先生の(歴史の和解・民族思想の超越)講座を受けました

 12月3日関大、渋沢栄一寄附講座で神戸大学王柯先生の「歴史の和解・民族思想の超越」講座を受講しました。次の通りでした。

○民族について
1 「民族」とは 日本製漢語 族が矢という字を含み潜在的に戦闘性がある。明治時代の国粋主義者が考案したのを、日清・日露戦争で勝利した日本に中国の当時の最高級の識者が来日して日本知識人(主に国粋主義者多い)と筆談をもって交流してこの語を中国に広めた。

2 その一人、魯迅は「藤野先生」で謙虚・勤勉の日本人を知る一方、日露戦争で勝利した、日本学生の戦場での残虐性を指摘している。

3 孫文は東京で夫妻の写真を撮っている。民族を当時支配していた、満州族から漢族の国にすべきと「民族意識」を高揚し、辛亥革命で「中華民国」を樹立した。樹立後は、歴史的、地理的要因で満州族を除外しなかった。モンゴル・チベットはいずれ回復するとの路線をひいた。

4 その後の日本の中国侵略で初めて「異族」を認識した。中華民族という概念が出てきた。

5 戦争時代、競って「百人切り」とかの言葉が新聞にみられた。中国人がもしそんなことをしていたら、日本人はそのことを知ってどう思うだろうか?やはりむごいことが国民の意識としてあった。。

○北京オリンピック後のある対日意識と中国の反省
1 2008.9.17 杭州 日本女性サッカーがドイツと対戦、中国の観客はドイツを盛大に応援した。

2 屈辱感を味わったその戦いの後、日本女性サッカーチームは 謝謝 中国の 横幕を用意し、中国観客に礼を表明した。

3 このことで、中国の人は自分達の 不明 恥を知った。 
・・・9.18が満州事変の起こった日であることに原因しているようです。

(中川私感)
1 中国の人々に抜き差しならない戦争に起因する反日感情がある。 

2 王柯先生には、日本に侵略された被害者意識がみられた。

3 我々は、中国人に接する時、潜在観念の中で「日本人は残酷、侵略性がある」と思っていると考えた方がよい?と思います。

4 我々日本人には他に向かう、残虐性があるのだろうか?・・・韓国の金先生のいわれるように、四界、海に閉ざされているために知らず知らず内向き指向となり、逆切れが外に向かうと残虐性になるかも。日頃からホンネレベルで自己の表出が必要なようです。

◎結論 日本と中国は、「民族」と「国家」の枠をはずして、交流すべきである。その心は「友好」。

○台湾のこと 質問で台湾学生から、本土との民族意識について王柯先生に質問がありました。「台湾と原住民を除けば同じ(漢)民族、政治家ではないので、発言に責任がありませんが、50年後統一されているでしょう」と。・・・すっと50年という言葉が出た。日本の総理にしても一般人にしても、すっと50年後という言葉がでるだろうか?と思いました。時間をかけて解決する問題が日本にないのと、思考形態が短期的ではないでしょうか。

王柯先生のまじめな、どこまでも日本に一部の警戒するような眼があることを感じ取ったのは、いきすぎた見方でしょうか?漢奸(日本びいきの漢人として本国人から白い眼を向けられる)にならないようにと注意されているようです。検討中の「日中の歴史とりまとめ」の10人の中国人学者の8人までをご存知とのことです。(WELL BE)