藤堂明保著「中国名言集」(上)によると、「周のはじめ、成王を助けて摂政の役についた周公はこわいおじ様であった。「書経」の「無逸篇」はその周公が建国当初、成王以下の周の王族たちを戒めた訓示である。「父母は農耕に勤労すれど、その子は農耕の艱難を知らず、・・・昔、殷の中宗は小民を治めてひたすら恐れ、あえて怠らず国をうくること75年なり。殷の高宗は久しく、外に労して民とともにせり、故に国をうくること59年なり・・・・これより後は農耕の艱難を知らず、故にひさしきことあたわず、10年もしくわ7,8年あるいは5,6年もしくは4,3年にして滅びたり」
殷の西部に勢力をおいていた周の武王が殷が滅ぼしたのは、紀元前11世紀の半ば、山東半島にいた太公望の助力を得た。先出の周公は武王をも助けた。「殷鑑遠からず」とは、周の時代になって、殷が滅んだことを鑑とせよ、そんなに遠い昔のことではないといつているのである。殷といい、周といい、直接支配しているのは小さな範囲で、封建領主の支配者となっていた。
古い時代のことわざだが、毛沢東の文化大革命でも、知識人の農村下放があったが、根本の考えは時代を超えて戻ってくるようだ。
余談ですが、滅んだ殷は養蚕・陶器・漆器・青銅器等の文明が栄えていた。殷人は特産物を、各地に売り歩くこととなる。これを「商」と呼び、勝った周も殷人の力を必要としたが、これをさげすんで、「商」人の位置を最下層とした。殷のことを中国では「商」とよんでいる。
後に、日本でも江戸時代に士農工商と「商」人は最下位の位置づけとなったのは、中国の古い時代からの考え方のマネであったと思われる。(藤堂明保著中国名言集(上)他を参考としました。WELL BE)
0 件のコメント:
コメントを投稿