2009年7月29日水曜日

村田喜代子「龍秘御天歌」を読みました。=文禄慶長の役の渡来陶工子孫、葬送の物語=

 時は徳川三代将軍家光が亡くなり、四代家綱となつたばかりのころ、所は九州黒川藩、人々は1592,97年の文禄・慶長の役で朝鮮からの陶工たち、葬送される人、渡来人の子孫の辛島十兵衛。龍釜と名づけられた登り窯に働く渡来陶工の人々は約700名となっていた。よい陶磁器をつくるには土と、ワザがいる。当時、中国の技術も入っており、赤絵といわれる塗り物は日本人が担当していた。ベースは朝鮮からの渡来人の焼き物である。

 焼き物は黒川藩の財政にとっても貴重なもので、外国にも輸出されていました。

 村田喜代子さん(1945-福岡県八幡生まれ、「鍋の中」で芥川賞をとる‘99年「龍秘御天歌」で芸術選奨文部大臣賞受賞)は、龍釜の主催者、辛島十兵衛の葬送を日本風の火葬でなく朝鮮風に寝棺で埋葬しょうとして画策する妻百婆の奮闘を、ユーモラスな筆致で描いています。結末にむけて、推理小説風に読者を誘い込んでいきます。

 朝鮮と日本の違い「朝鮮:崇拝すべきもの、先祖(は絶対)、長幼の順序、哀号・・・・と哭する、・・・・」をしらしめ、民族の悲痛を浮かび上がらせている。続編というべき百婆が亡くなって、子孫たちの結婚話を語る「百年佳約」も引き続き読みました。次回に、ご紹介しましょう。(WELL BE)

2009年7月27日月曜日

「中国という世界」(竹内 実著)を読みました。=中国は歓楽と文明に向かう=

 中国の人・風土・近代を叙述した本でした。人について大家族制がベース、今でもきっちり守っている家族がある。(先祖崇拝は、日本:せいぜい2-3世代だが、中国:始祖からまつる) 国土は高低差6000メートル、3つ文化ブロック、北方・南方・西方 にわかれる。近代では 上海の戦前戦後の推移をとりあげている。結語の中国はどこにゆくについて2つの方向を示唆しています。

①大分、古いが後藤朝太郎が各地を旅して「歓楽の支那」を大正14年にまとめた中に「チュウゴクの社会は礼学を尊び、歓楽気分で統一でき、また妥協も成立している。」また別の講演会で「チュウゴクと戦争するのは間違っている。すれば負ける」と特高警察を気にしていったとのこと。

 この歓楽とは、「人生を楽しむこと」といっていいと思います。正月になると赤い紙にめでたい言葉をつらねて各戸に2枚、張っています。また、食べることを楽しみ、どの国の人も思いつかない北京ダックも考案しました。NHK中国語ラジオ会話では郭春貴先生は、「毎日楽しく中国語会話を勉強しましょう」といつも、笑顔で!と言っておられます。賄賂がはびこるのも、楽しく生きるにはお金がいるということなのでしょう。
人生は楽しむこと、と表立って言わなくともベースが楽しむことに向かっています。

②竹内実さんはもう一つ中国は「文明に向かう」といっておられます。北京オリンピックで市民に配布された資料に(1)マナーに文明的行動を(2)環境に文明的であれ(3)秩序に文明的であれ(4)競技場で文明的行動を(5)サービスは文明的行動を とあったとのことからの発想のようです。

 日本の「文明」の意味と中国の「文明」の意味が異なると思いますので、中国での意味で理解せねばなりません。中国人に求められることが「文明」という言葉に集約されていると思います。

 竹内実著「中国という世界」(岩波新書)は、チュウゴクを平たく理解する意味で、よい本と思いました。(WELL BE)

2009年7月4日土曜日

「ディア・ドクター」を観ました。=温かいまなざしがそそぐ映画でした=

 西川美和監督の最新作出演:笑福亭鶴瓶、瑛太、井川遥、八千草薫他。とある山の村の愛すべきお医者さんの物語でした。

 冒頭のシーンは夜のしじまを破って、1台のオートバイのライトが山間の道を移動する、途中白衣を拾って、村の詰め所で警官の尋問を受ける。・・・一枚の写真に警官のライトが当たる・・・その男は失踪した笑福亭鶴瓶演じるディア・ドクターだった。プロローグから断片的な山村の人々と一体となった、医者を浮かび上がらせる。導入の手法はみごとだ。一気に医者の失踪の謎に観客を連れて行く。

 八千草薫の控えめな好演が光っている。その背中、笑顔が人生を静かに語っている。動の鶴瓶、静の八千草の各々の笑顔がこの映画の虚実を映し余韻多いものにしていますし、久し振りの快作を観た、というのが率直な印象です。バックのハーモニカの音楽も良かったです。八千草さんの笑顔にやすらぎを覚えました。(WELL BE)

2009年6月19日金曜日

「幻の加耶と古代日本」文春文庫ビジュアル版を読んで


 江上波夫氏(1906-2002)他、分担して朝鮮半島南の加耶と古代日本のかかわりをまとめた本で吹田図書館で借りてよみました。その内の、江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝」説をご紹介しょう。

 「日本の大和朝廷をつくった天皇族は中国の東北地方(旧満州)北部の騎馬民族扶余が南下したものだという。戦後、発表された。南下した騎馬民族の一族は高句麗をつくり、もう一族は朝鮮半島の南部に辰王国を建てた。辰王国は百済に残り、他の一部は加耶を本拠として、対馬、壱岐、筑紫にわたり、5Cの初め、応仁天皇の頃に大阪平野から、大和の豪族と合体して大和朝廷をつくったというのが、「騎馬民族征服王朝」説の概要です。

 牧畜騎馬民族は歴史的記念物を作らず、パオでは異人でも歓迎する。横に広がっていく。

 農耕民族は、城壁をめぐらし、伝統的な固定した悠久の文明を築く。家に門を持ち異人は門前払いをする。縦に深める。

 日本は熟成しない農耕民族の上に立った騎馬民族が建てた国だろうか。農耕民族の集団主義の上に騎馬民族の武が立った国なのかもしれない。(WELL BE)

定訳「菊と刀」ルース・ベネディクト長谷川松治訳 を読んで

 ルース・ベネディクト(1887-1948)は第2次世界大戦の折、米軍の委嘱を受けて、日本及び日本人のことを研究した。その研究成果が「菊と刀」として戦後出版された。日本人の捕虜や日系人の取材を重ねて、日本の歴史を勉強してとりまとめたもの。本題は「菊」に代表する文化の伝統と「刀」に代表する武・鍛錬が表裏のように織り成しているのが日本人だとしている。戦後の日本人の特質を以下に5つご紹介しょう。

① 日本人は天皇の命(めい)をうけ、戦争をやめることができた。しかも、とりたてて何の混乱もなく。戦争に負けたのを、誰も天皇のせいにしなかった。
② 鬼畜米英と叫んでいたのに、コロッと態度を変え、アメリカ軍に好意的であった。このことをアメリカ人は予期できなかった。
③ 「各々ソノ所ヲ得」と階級を是認し、世界に適用しょうとして戦争をはじめたが、失敗した。(世界の国々を序列して、その場所を得さしめると、日本の理屈を強要)
④ 恩の貸し借りで常に緊張している。(ちいさな貸し借りを覚えイーブンとしょうとする。)
⑤ 日本人の幼児期は、天真爛漫に過ごし、年を取るに従い、自己を抑圧(しんぼう)する。(西欧人は逆で、幼児期はしつけられ、年を取ると自由。)時として、二重性(従順にして傲岸)となる。

 日本人としてドッキリする指摘をされている。戦後65年経ったが、コロッと考え方
変える点、ビジネスで革新を叫び、過去の常識は、現在の非常識として変えようとするエネルギーが今も存在する。ニートのように生き方を知らない若者が、ある日、突然にめざめ、変身することがある。日々、恩の貸し借りで計算し疲れ、無礼講として大騒ぎする。我々日本人には根本的な宗教的な精神の支えがなく、それはアニメに解を求めにいったり、村上春樹の小説に向かったりする。つまり「道標」を探しているのだ。われわれ日本人は、現在のところ経済のグローバリズムをむかい、個人さえよければ他人はどうなってもよいとなっているようである。

 日本人とは何かを知るのによい今や古典的書籍である。(WELL BE)

2009年6月14日日曜日

高島俊男著「漢字と日本人」を読みました=日本人は漢字の輸入により精神的発達をとめられた=

 興味深い内容のある本でした。いくつかの高島さんの主張のポイントをご紹介しましょう。

1 民族の発展段階があり、「先に開けた」からといって「優れている」わけでない。
⇒中国は文明が先に開けたからといって、日本は後からだといって民族としての優劣は「早い」「遅い」にない。

2 日本に「孝」とか「信」とか「仁」とかの思想が人々によって作られていない時期に紀元後500年ころ漢字として入ってきた。
⇒そのため、「孝」とか「信」とか「仁」という概念がつくりこまれなく、借り物の概念としてはいり、人々の間で熟成されることがとまってしまった。

3 江戸時代に考えられた熟語は音と漢字がリンク。聞いてそのままわかる言葉が多く、中国人には意味がわからない。
⇒野暮、世話、心中、無茶、家老、家来、勘当、所帯。立腹、粗末・・・
(江戸時代につくった熟語は漢字が意味を表さない。心中とは心の中ではないし、野暮とは野が暮れるわけでもない。)

4 明治時代に英語を翻訳した熟語は、字義によっ漢字をつくった。そのため字義を瞬時に前後の脈絡から判断して漢字を思い浮かべてしゃべっている。中国がその多くを輸入することとなった。
⇒政治、法律、裁判、産業、建築、交通、機関、通信、金融、輸送、陸上、審判・・・
“シンバン”と聞いて審判と解釈するか新盤と解釈するかは、前後の話による。野球のシンバンといえば“審判”と解釈し、レコードのシンバンといえば新盤と解釈する。“シンバン”という言葉からは2種の熟語からどの漢字の言葉かを判断して、話をしている。 

5 明治時代以降、西欧が優れ、東洋が劣るとして過去を払拭しょうとした一環で漢字を排する考え方があった。その流れで戦後、1850字の当用漢字を使い、いずれ かな またはローマ字に移行しょうとした。
⇒国語審議会は当初の思想を忘れてしまい、今では かな ローマ字に移行する考えはなくなっている。言語は民族の考え方がつまっていて、表記する かな も同様である。敗戦で過去を抹殺しょうとしたが、幸いそうはならなかった。

 どうやら日本人には、つらいことが起こった後、過去を簡単に捨てようとする傾向がある。明治維新で西洋に遅れを感じたとき、「脱亜入欧」アメリカに敗れた時、国粋主義から180度転換し「アメリカ崇拝」へ。
どうやら根本のこれだけは動かない、というものが民族発展段階で止まっている可能性がある。

 ともかくも、幾多の示唆に富んだ本です。(WELL BE)

 

2009年6月2日火曜日

吉川幸次郎著「漢文の話」=漢文は近代まで95%、白話(口語)文は5%、現在はその逆(中国でのおはなし)=

 自家の書庫から、ちくま文庫の吉川幸次郎(1904-1980 京大教授)著「漢文の話」を取り出して毎日少しづつ読み進め、ようやく読了しました。中国では、漢文は近代まで95%、白話(口語)文は5%、現在はその逆の口語文95%、漢文5%とのことです。

 漢文とは何かを原文を中国の歴史から「史記」「資治通鑑」等サンプリングし解説し、伊藤仁斎等の日本人の漢文までを論評している。その中より司馬遷「史記」(人物ごとの編集で、年代別ではない)の「呂后本紀」から恐ろしい話を要約して記してみましょう。

 紀元前202年、漢の高祖(劉邦)が天下をとり、安泰となると戚姫を妾とした。本妻の呂后には孝恵皇太子がいた。高祖は戚姫の間に如意がさずかったが、戚姫は孝恵皇太子を排し、如意を替わりに皇太子とするよう、ひつこく高祖に迫っていた。とりあえす、趙王としたが、高祖は崩御してしまった。皇帝に孝恵皇太子がついたが、呂太后はここぞとばかり、戚姫と趙王に仕返しをしていく。詳細は省きますが、すさまじい権力者の業によって、呂太后は戚姫と趙王を滅ぼし、この一部始終を知った息子の孝恵帝も政務をみず、自暴自棄となり、病を得たということでした。

 中国の歴史家は時の王朝から命じられ、前王朝の時代をそれぞれ書き残し、24紀の漢文で書かれた歴史書をつくっています。。今後、先に滅んだ清が書かれると第25紀となります。清の歴史書は口語体となるのでしょうか。司馬遼太郎さんのペンネイムが司馬遷にはるかに及ばないとのことでつくられた由です。司馬遼太郎さんもなくなられてからも、日本人の心に生きていますが、司馬遷も中国人のこころの中に2000年も生き続けているのでしょうが、中国文明とは、およそ3500年前の漢字の発明一つとって見ても、すごいものだと思います。日本は漢字の恩恵を受けておよそ1500年です。感謝したいですね。公害防止技術等日本の先進技術部門で少しはお返しせねばならないのではないでしょうか。(WELL BE)