2009年11月15日日曜日

(思い込み古代史) 5.出雲王国

 弥生時代後期、2世紀半ばに出雲に王国がてきていました。紀元前後あたり、出雲地区には北九州から海路、陸路をとおって移動してきた農耕技術をもった人達や直接、半島から日本海を渡ってきた渡来人たちが小規模のムラを作って稲作を展開していました。精霊崇拝の縄文人も混血しながら合流したことでしょう。しだいにムラムラは農耕祭祀の中心に刀をあがめるようになりました。出雲の国々を統轄する王が出て島根県斐川町の荒神谷で祭祀を行ったのでしょう、同谷丘陵斜面の地中に丁寧に4列、358本の銅剣と近くに銅鐸6ケ、銅矛16本をうずめたのが1984~5年に発掘されました。出雲地区には銅剣と同数の358の神社があったとみられています。邪馬台国より約30年前のことでした。

 出雲神社を造りますが、16丈(48メートル)の社であったいわれています。有力者は高句麗に原形のあります四隅突出型の墳墓を作ります。

 後のヤマトの勢力は出雲より国譲りをせまり、4世紀半ば、ヤマト政権は出雲を傘下におくようになります。前方後方墳であった古墳も、その後はヤマトの影響を受けて前方後円墳となっていきます。ヤマトの祖霊祭祀の対象は鏡でした。やがてヤマト王権の即位の象徴を3種の神器として、ヤマトの鏡、イズモの剣、(イセ?の)勾玉と、勢力を統合をした象徴としていきます。


 ヤマトの古墳の周りを囲む埴輪の特殊基台は吉備で発祥したものであり、図のような出雲・吉備・ヤマトの一連のつながりが見えるのも興味深いことです。09年11月の朝日新聞報道で、卑弥呼の宮殿跡か?とセンセーショナルな報道のありました。奈良県桜井市巻向に3世紀の巨大神殿跡と想定される建物群が発掘されていますが、その内の一つが出雲大社の構造と似ているとの文言があったと記憶しています。古代史を揺るがしかねない発見であったと思われます。

 邪馬台国はどこにあったか、古代史最大の謎を次回以降にとりあげる予定です。(図は大塚初重・吉村武彦「必携古代史ハンドブック」)(参考図書 竹光 誠著「一冊でつかむ天皇と古代信仰」)

2009年11月6日金曜日

(思い込み古代史) 4.弥生人の生活

 
 紀元前300年ころから紀元後2-300年ころを弥生時代といわれています。東京都文京区弥生2丁目から出土した無紋壺型土器の普及する時代を弥生時代といい、大陸ルートから主として朝鮮半島から、稲作・青銅器・鉄器文明が渡来人と共に入ってきました。弥生人の顔は面長一重まぶたで、縄文人の四角、ひげが濃い人々と違っています。図は埴原和郎「日本人の顔」より拝借しました。弥生土器は、質実で、機能本位でした。保存する、煮炊きする、食物をのせる、水。湯をそそぐ、・・・・縄文時代は土器にさまざまな祈りを込めました。弥生時代は器をさまざまな機能としてのみとらえ、祈りは銅製品の銅鐸、銅剣、銅矛や銅鏡や鉄剣という大陸・半島渡来のものに移っていきました。 


 食料を自分達で作れるようになり、一定の土地に定着していきます。北九州に入ってきた渡来人たちは、既住の縄文人と混血しながら、東へ陸路と海路より稲作文明を携えて日本列島の北の端まで、驚くべきスピードで伝播していきます。稲作は、水利、田植え、刈り取りといった共同作業が発生するため、集団で住み、差配するものが出て、貧富の差ができてきます。集団の人々はムラを形成し、他のムラとの争いも発生し、外敵侵入防止のため堀をもうけるようになります。紀元後57年九州北部に「奴国」があったころ100余国にわかれていたといわれ、「後漢書」東夷伝によると紀元後147年から189年の間、「倭国大いに乱れ」とあります。
 

 3世紀、「魏志倭人伝」による邪馬台国は、みはり小屋があり、卑弥呼が呪術的権威で30ケ国の上にたち、男子が補佐し治めていたと記されています。また、刺青をして、よく水没して魚を取るともあります。刺青については、縄文時代の発掘された土器で全国にひろがっていたことを確認できますし、水没して魚に対する際の魔よけと考えられます。紀元前の中国南部の越でも入れ墨をしていたという「史記」「越世家」の記録(BC5-6世紀ごろ越王こうせん、文身断髪し、雑草をひらきて邑をつくる=文身=入れ墨)が残っています。佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、環濠集落を形成し、周囲を濠でかこみ、広いところで巾、6.5メートル、深さ3メートルもあります。物見やぐら(図参照)もありました。静岡県の環濠遺跡では、何重も堀をつくり、一番外の堀には逆茂木をおいていました。稲作の定期的な収穫で、豊かになったのですが、水利などのことにより争いが、たえなくなったことは皮肉なことです。このころに、もし住んでいれば、大変緊張した人生をおくった事でしょう。でも、食生活は結構豊かとなり、縄文時代食事に主食のご飯に家畜となったブタが加わり、お箸が発掘されていませんので、(朝鮮式の食べ方 茶碗を持たずに食台において箸等を動かして食べる)食器にごはん(おこわ・・・アズキが食されたいました。)、おかず(マメ類、南京、大根、いも類、豚肉や、冬場は鮒ズシもあったと思います。)がのり、手でとって口に運び、熱い物はスプーンを使ったものと思われます。着るものはカラムシやタイマによって織られた貫頭衣でアクセサリーは貝や、地位の高い人達は勾玉やヒスイでネックレス等をしていたことでしょう。住は縦穴式で1㍍ほど地面を掘り下げ、まわりをすこし高くして水の浸入を防ぎ、屋根は萱やヨシで屋根を葺き、真ん中にいろりがあった1LDKでしょう。魚の干物はつりさげて保存していたでしょう。お米は高床式の倉庫を造って保存していましたし、クリやどんぐりやトチの木の実を地下に埋めて保管していました。

 次回は出雲王国、次次回は邪馬台国と更に弥生時代の探索を続けていきたいと思っています。

(参考図書 人物往来社「日本史」 金達寿「渡来人と渡来文化」 藤堂明保「中国名言集(上)」 大塚和重 吉村武彦「必携古代史ハンドブック」 大塚和重「弥生時代の時間」)

2009年11月1日日曜日

「思い込み古代史」 3.縄文時代の衣食と住


 1879年、E.S.モースが大森貝塚を発見した際、出土した土器に世界でも類例の無い縄目模様が入っていたことで、(cord marked pottery)と名づけ、縄文土器と称するようになった。縄文土器が発掘されたBC10,000年からBC300年を縄文時代という。 

(衣)植物の繊維で布を織り、衣服を作っていたが、寒い時期は動物の皮を人間の歯でなめして衣服としていた。そのため、歯は道具の一つとなり歯は極端に磨耗していた。 


(食)食は、採集でドングリ、トチ・栗の実くるみや、クズ、ワラビ、ヤマイモ等のいも類、狩猟は、鹿、猪などであった。漁労では鮭、鱈、コチ、ハモ、クロダイ等魚類や貝類であった。
<中国大陸東北部、朝鮮半島から列島中央以北のコナラやブナの落葉広葉樹帯をナラ林文化圏>ドングリは深鉢の縄文土器により、列島中央以北は、あく抜きを煮炊きによっていました。
<シイ、カシ等常緑照葉樹帯は東南アジアや中国雲南から長江下流域から列島中央部以西を照葉樹林文化圏> 列島中央以西では、どんぐりは水でさらしていました。なれずしや、鵜飼、納豆、歌垣の照葉樹林文化の芽生えがこのころにあったのでしょうか。(これらは朝鮮半島ではみられませんでした。)(図は佐々木高明「日本史誕生」より)
 不思議に思うことは、時代が下た江戸時代の一般庶民のほうが、縄文人より栄養状態が悪かったことです。歯のエナメル質の形成が江戸時代の庶民より、縄文人の方がよく形成されていたというデーターがあります。江戸時代は平均寿命30歳くらいだったようですから、
縄文時代はもう少し長生きでしたでしょうか?福井県の鳥浜縄文人の生活は発掘されたものから図(池田次郎「日本人の起源」より)のようなものであったと想定されています。春夏秋は魚の季節、春は山菜取り、秋は木の実取り、冬に向けて貯蔵し、冬は狩の季節だった。案外、快適であったようです。花粉分析によると、BC4,500年ごろ、温暖化し、この地域ではブナ等の落葉広葉樹からしだいにシイ・カシの照葉樹やスギの花粉が増えてきたとのことでした。照葉樹林帯は焼畑で、二次林が生育し、ひょうたんやリョクトウ、エゴマやシソが栽培されていました。

(住)保存用の縄文式土器が作られて、BC9000~8000年頃から定住をはじめており、縦穴式住居に住み、最初は数戸からしだいに戸数を増やし、20戸くらいでムラをつくっていました。

(祈り)発掘された土偶は破損されていて、女性をイメージされ、粉砕して埋められていました。貝塚も捨てられた貝や骨などは、単にゴミとして捨てられたのではなく、土偶も共に、再生して欲しいという祈りがあったのではないでしょうか。

世界でも珍しい縄目を利用した装飾土器は呪術の対象ともなる土器も作っていました。火炎型土器や踊る精霊を描いたと思える土器が発見されています。縄文人の根底には、精霊に対する祈り、それらが描かれた土器等のものへの執着と再生への祈りの心が芽生えていたと思われます。青森県にあった三内丸山遺跡では共同で集落を営んでいたことがわかっています。
(差別化はじまる)縄文晩期には、歯を抜く風習が見られます。広く中国でもあったようですが、歯の抜き方で地位をあらわしていると学者は指摘しています。共同生活によって支配するものと支配されるものが分化してきます。
縄文人の歯は木の実をすりつぶして食べていたので磨耗が激しかったことが知られています。現在のように前歯の上下が前後に交合せず、向かい合っていました。
やがて、稲作技術をもった渡来人が日本列島にやってきて縄文人と混血しながら西から東へ定着していきます。[約1万年も続いた縄文時代は、土器の開発により定住が可能となり、狩猟・漁労・採集で比較的、豊かで静かな平和な時代であったようです。列島中央以西地域の照葉樹林帯では今につながる、なれずしや納豆、歌垣が中国大陸南部地方からもたらされたと想定されます。以降に稲作文明が登場しますが、支配と被支配の社会に変容していきます。]
 (参考図書 佐々木高明「日本史誕生」、池田次郎「日本人の起源」、埴原和郎「日本人の骨とルーツ」土器イラストは関係HPより借用しました。BLOG上からお礼申し上げます。)

2009年10月24日土曜日

「思い込み古代史」2.日本にどこから人はやってきたのでしょうか?


 中国南部を含む東南アジアに生存していた古モンゴロイド人が島嶼づたいにも、中国大陸を北上し陸続きの日本列島へ南から九州へも、シベリア方面から北海道へもやってきました。(図 池田次郎「日本人の起源」参照ください。)タミール古語に57577の和歌の形式があることによって、日本語はタミール古語に起源があると大野晋氏が発表しています。更に古くは、東南アジアへはインドから移動したのかもしれません。

 旧石器時代から縄文時代草期には小山修三氏の遺跡等からの人口試算によると約2万人住んでいたことになりますが、近畿以西では約3,000人弱(15%)となります。縄文時代を通じて15-25万人の人が住んでいたとのことですが、縄文晩期には7万6千人が住んでいたと試算されています。ちなみに近畿以西には約11,000人(15%)です。近畿以西の人口比率は15%程度で縄文時代を通じて、変わらなかったことになります。(ちなみに縄文時代の区分は草創期BC10000-8000年、早期BC8000-4000年、前期BC4000-3000年、中期BC3000-BC2000年、後期BC2000-BC1000年、晩期BC1000-BC300年)

 BC4500年頃、気温が現代より2度ほど上昇し(その後しだいに下がっていきます。)、海水面も現在より2~3メートルも上昇していたとされる。(その後しだいに低下していきます。)本州の中央部以北は針葉樹林が北へ移動し南にあった落葉広葉樹林が北上してきて、ブナ・ナラ林のどんぐりが豊富でした。また、鮭、鱒の漁獲にも恵まれ北の地域に人々が多く住んでいました。本州中央部より南はシイ・カシ照葉樹林でした。人口は食環境に影響されます。狩猟採集による移動中心から食糧を保存するワザを開発して、しだいに定着へ向かっていきます。時代がBC500-BC300年頃になると大陸で稲作が開発されて大陸から朝鮮半島へ、更に、弥生時代(BC300ころ-)、本格的に、朝鮮半島から稲作文明を持った人々が移住してきます。これらの人々は新モンゴロイドといわれる東北アジア人です。縄文人は四角な顔で眉が濃いのですが、弥生人の顔は面長で一重まぶた、まゆはそれほど濃くはありません。寒冷仕様といった顔の骨がそなわっていました。食糧が安定的に確保されるようにより、弥生時代(BC300-AD300年ころ)の人口は約60万人となり、近畿以西は約30万人で50%を占めるに至りました。森を切り開き、稲作用の田んぼにして、人々は一定の土地に定着していきました。弥生時代の終りには、発掘頭骨の調査により当時の日本人は弥生人が7:縄文人が3の比率になっていたと推計されています。旧モンゴロイドの縄文人は新モンゴロイドの弥生人と混血しつつ弥生人に吸収され、混血をしない旧モンゴロイドの縄文人は、北と南に押しやられていきました。北はアイヌとして、南は熊襲として現在その痕跡が見られます。

 故鳥越憲三郎氏は揚子江下流から中国南部にした「倭族」が紀元前10世紀以降に中国沿岸部を北上し、山東半島から朝鮮南部に住み着き、日本に渡ってきたといっておられます。神社の原形も東南アジアにあるとのことです。古日本語は仮にタミール語~タイ等を含む東南アジア語であったとしても、半島からきた人々は古代朝鮮語を話したはずですから、古日本語に古代朝鮮語が交じり合ってきたのではないでしょうか。

 [日本人はどこからきたのでしょうか?時代と共に次のようにやってきたと思われます。BC3-1万年頃、東南アジアから古モンゴロイドが大陸づたいに北と南から、また島嶼づたいでも日本にやってきた。縄文時代の人口は約5-25万人と推計されている。BC5-3世紀ごろから新モンゴロイドが半島から九州に稲作文明を持つて渡来してきた。稲作文明は人と共に東へ、中国地方、近畿、東海、関東に移動していった。弥生時代の終りには食糧事情好転で人口は約60万人と急増し比率は弥生人7:縄文人3となっていた。](参考図書文春文庫「エッセイで楽しむ日本の歴史(上)」 鳥越憲三郎「古代朝鮮と倭族」 池田次郎「日本人の起源」佐々木高明「日本史誕生」他)

2009年10月17日土曜日

歴史を辿るエッセー(上)「思い込み古代史」はじめに 1. 日本にいつごろから人が住みはじめたのでしょうか?

はじめに

 中国、朝鮮を勉強するうちに、日本の古代に興味をもつようになって、関連する本を読んでいます。日本にはいつごろから人が住み始め、その人たちはどこから来たのたのでしょうか?縄文時代の人々はどのような生活をしていたのでしょうか?稲作技術をもってきた弥生人の生活はどうであったのでしょうか?「後漢書」によりますと1-2世紀倭国は乱れるとありますがどうであったでしょうか?「魏志倭人伝」に登場する邪馬台国は何処にあったのでしょうか最大の疑問です。そして、大和に展開された纏向(まきむく)遺跡の意味するものは?倭の五王と古代朝鮮の関係、巨大な堺の古墳の意味、継体天皇の継体とはどのような“体”を継いだのでしょうか。6-7世紀大和朝廷の成立の過程は、「大化改新」「壬申の乱」とぎくしゃくしますが、その実相は?天皇の権力が如何に作られていったのでしょうか。縄文時代からの精霊信仰(アミニズム)がどのように残り、また変容していったのでしょうか。仏教の受容の動向は? 少し飛躍しますが、日本のきめ細やかな「もののあわれの文化」、微細技術の伝統や「もったいない」の思想の原点は奈良時代までの古代の歴史に痕跡があるのでしょうか。

 順を追って粗い読書による先達の知識の収集と近場の博物館通いからの雑駁な知識で(上)として奈良時代までを1週間に1回づつで17回掲載していきます。平安時代以降は(中)(下)として勉強しつつ準備していきます。

1. 日本にいつごろから人が住みはじめたのでしょうか?
・ ウルム氷期の極相期、日本は大陸とほぼつながっていた
200万年前にはじまった氷河期の中の最終氷期が約7万年前に始まり、約1万年前に終わっています。日本にいつごろから人が住みはじめたのでしょうか?12万年前の島根県出雲市の地層から旧石器とみられる長さ5~1.5cmの石片が発見されたという報道が09年9月、朝日新聞であった。しかし、人工品かどうかの判定には資料が少ないとのコメントが識者によりなされていた。
一般的には、旧石器時代の黒曜石の石器が群馬県岩宿で発見されています。3万年以前にに人が住んでいたと考えられる。豊橋市牛川町、静岡県三ヶ日町、同県浜北市でも一部の骨が発見されているが、身長男性150cm女性134cmと背の低いピグミー的な人達であった。

 ウルム氷期の極相期の約2万年前頃、気温が現在より6-7度低いと仮定して、海水は現在より110-120m低かった。大陸とほぼつながっていたと考えられる。北と南から中国雲南から東南アジアにいた古モンゴロイド人が日本に渡ってきた。ウルム氷期の極相期が過ぎると、海面上昇により日本はしだいに大陸ときり離された列島になっていく。日本人の痕跡としては沖縄の港川原人の16000~18000年前ころの骨が見つかっている。顔の骨から四角型あごの骨の張った人が図のように復元されている。(埴原和郎「日本人の顔」より)身長は男性156cm女性144cmであったと推定されています。川や海から漁労し原生林の中より動物を狩猟し木の実等を採取して生活していたものと想像されます。[約4万年前頃から人が生息していた可能性があります。極寒な環境で生き抜くことが困難だったでしょう。]
(参考図書 池田次郎「日本人の起源」、埴原和郎「日本人の骨とルーツ」他)

2009年9月25日金曜日

「東アジアの宗教と思想」-仏教からイスラムを見る-東大寺 森本公誠長老の講義を関大で受けました。

 渋沢栄一記念財団関西大学寄附講座第1回を「東アジアの宗教と思想」-仏教からイスラムを見る-東大寺 森本公誠長老の講義を9.24(木)に受けました。この講座は概ね毎木曜日14回にわたり、1月14日まで関西大学で開催されます。「」イスラム教とはどんな宗教かという観点で受講しました。以下はその要旨です。

1. イスラム教信徒は世界で13億人(キリスト教徒20億人、仏教徒3億数千万人)
2. イスラム教は、キリスト教とともに唯一神を信ずる。
3. ムハンマド(570年ころ-632年)は40過ぎより、神のお告げを聞き、人々に伝えた。その内容が「コーラン」
4. 当時、商業での詐欺がはやっていたが、これを戒める言葉がある。神に祈っている間は商売を離れなさい、祈りが終われば、正しい商売に打ち込みなさい、と。
5. 正しい戦いはしてもよいが、戦利品の1/5は神、貧しい人達に権利がある。・・・よいことがおこると思って信者が増えていった。
6. 戦いで信者が人を殺すのは、神が殺しているのだ。
7. 来世観:最後の審判の日・・・いつくるかはわからない・・の後に人間は、一度きりの人生の帳簿(誰のものも作られている)により、黒字・・・平和な永続する生、赤字・・・苦しみの続く煉獄、がある。
8. 6信:神(アッラー)、啓典、預言者、天使(アッラーの命で動く)、来世(審判の日、死後の生命)、神の定め(天命)
9. 5行:信仰告白「アッラー以外に神なし、マホメットは神の使徒」、礼拝、喜捨、断食、巡礼。

 世界観は仏教が円または球(慈悲の心、空の思想、縁起の考え)とすれば、イスラム教は三角(神の唯一帰一、独自の法、固有の共同体観)とのことです。

 国連総会における核処理の正当性を訴えるイラン大統領の主張も、イスラム教理からすれば、絶対的なもので後に引かないと思えます。融通無碍の仏教世界観の日本が説得する道はあるのでしょうか。尚、上記講義抄録誤りがあるかもしれませんので、割り引いてお読みくだされば幸いです。(WELL BE)

2009年9月8日火曜日

映画「南極料理人」観ました。=大いに笑いました。=

 テアトル梅田で 沖田修一監督「南極料理人」を観て、大いに笑いました。

 物語は南極観測隊員8名の料理をつくる主人公(堺 雅人)を取り巻く日々こもごもの物語でした。零下50度にも達する南極大陸の基地の気候では、ペンギンももオットセイも生き物自体がいません。ウイルスも死んでしまいます。

 人間単調な中にいると、つまるところ食事が唯一の楽しみとなるようです。8名の一人一人は決して「おいしい」との言葉は発しません。たべっぷりをみて、おいしいんだなあ、と理解します。この映画を観て、料理をつくる楽しみを感じました。食べることの出来る幸せも理解できました。家庭では、妻との共同料理人(?)となっていますので、今後も料理作りの作業者として励みたいと思いました。

 ラーメンをおいしそうに食べているのを観て、ラーメンが無性に食べたくなりました。大いに笑わしてもらったことをご報告します。(WELL BE)