先日、中国映画ダニエル・リー監督の「三国志」を観ました。
常勝将軍と呼ばれた、3国(魏蜀呉)蜀の趙雲の物語です。
AD201年の「赤壁の戦い」以降、20年経過し、軍師諸葛孔明は、魏に徐々に侵食されている状況から蜀として魏に攻め入るしかないと判断して、5将軍のうち最後まで生き残っていた趙雲を大将にして、戦いをいどみます。この頃には、蜀王劉備、猛将、関羽、張飛はなくなっており、後継者の時代となっていた。
この映画で感じたことは、3つあります。1つは、中国の人たちが、特別な友人に特別の情をもっていることです。故郷を共にでてきた、常勝将軍と畏敬された趙雲(趙子龍)とうだつのあがらぬ平安の嫉妬をものみこむ生死を越えた友情の強さです。
2つ目は魏王曹操から趙子龍が奪った剣に彫られていた、"孟徳"という言葉です。孟子の徳が剣にまでほられて、孟子の徳を標榜していることです。3国時代の儒家思想をかいまみました。
3つ目は、趙子龍がなくなるとき「わが人生は円であった」というせりふです。人生を一回りしてきて元に戻ったということなのでしょう。私は老荘思想が現れていると思いました。
レッドクリフ(赤壁)前編も観ましたが、これはこれでよかったとして、「三国志」という物語はどこを切り取っても魅せるものを持っています。その根幹は中国の人たちがもつ人と人との友情の強さ美しさのような気がします。(WELL BE)
2009年2月23日月曜日
2009年2月14日土曜日
中国名言集 ⑪断髪文身⑫臥薪嘗胆

BC5Cのころ長江下流でいがみあいをはじめた呉越の両国は原住民の層においては同種であった。
「越王勾践(こうせん)禹の子孫で会稽に封ぜられ禹の祀りをし、文身(いれずみ)断髪 (髪はざんぎり)し、雑草をひらきて邑をつくる」(史記)越人は水の神、禹をまつる水の民であった。
時代は下るが、3Cの「魏志倭人伝」に倭人のことを「男子は大小となく、みな鯨面(顔に入れ墨)・文身(体に入れ墨)す、倭の地は温暖にして冬も夏も生菜をくらう。・・・」人種的に関連があるのだろうか?
BC496年呉王・闔閭(こうりょ)は大軍を率いて太湖のほとりを南下し今日の嘉興に進出した。越は決死隊をつのって、呉軍の前に3列となり、呉人の漢語がわかるものがきいてもわからない、えたいのしれない叫び声を挙げて次々と自殺する。その内に越の勇者の放った毒矢が呉王・闔閭(こうりょ)の中指を吹き飛ばした。呉王は都のある蘇州に引き返したが、毒が回って、死の苦しみにあった。太子の夫差(ふさ)に
「越王勾践(こうせん)が汝の父を殺したことをわすれるか」太子の夫差(ふさ)は
「忘れません。誓って仇をとります。」
やがて呉王・闔閭(こうりょ)は死んだ。呉の太子の夫差(ふさ)は薪の中に寝て復讐心を燃やし、3年の後、会稽山に越王勾践(こうせん)を打ち破った。
敗れた越王勾践(こうせん)は呉王夫差(ふさ)に妻妾を差し出し呉王につかえまつるといって、許しをこうた。呉王夫差(ふさ)は越王勾践(こうせん)を許した。
越王勾践(こうせん)はこの敗北を忘れず復讐を誓って、鹿のにがい胆を毎日なめて、敗戦の苦しみを思い出してやがて21年後、BC473年、呉を滅ぼした。
このことをもって「臥薪嘗胆」という故事が残ったということです。以上は藤堂明保著「中国名言集」(上)を主に転載し、一部三省堂「ことわざ慣用句辞典」を引用しました。(WELL BE)
2009年2月11日水曜日
中国名言集 ⑩鼎(かなえ)の軽重を問う
BC6Cのころ南方の楚が力をつけてきた。楚とは疎林(まばらな照葉樹林)という意味で、その林にわけいって木の実をとりヤマイモを掘り焼き畑耕作をいとなんでいた人たちであった。
BC4世紀の頃、楚の荘王が洛水のほとりまで勢力を伸ばし周の都の郊外に迫った。そこで盛大な観兵式をおこなって、周に圧力をかけた。周の王室は、王孫満という人を使者に立て、荘王をもてなした。荘王は「夏」から「殷」「周」と伝わっている宝鼎を見てみたいと王孫満に次のように行った。
「鼎の軽重はいかほど?」すると王孫満は次のように答えた。
「夏の昔、鼎を鋳て百物を象る。のち鼎は殷に移り、600年をへたり、殷の紂王、暴虐にして、鼎は周に移る。徳の立派なる時は、国小なるといえども鼎は必ず重く、国乱れる時は、鼎は軽し。周の成王、鼎を洛北に定めてより30世700年、これ天の命ずるところなり。周の徳、衰えたりといえども、鼎の軽重は尚、問うべからざるなり。」
その答えを聞いて、荘王は軍を引き返したという。南方の人たちは、金と石の文化で鍛えられた北人の強引さが欠けている。植物文化の「押しの弱さ」がやがて楚を滅亡へ向かわせる。以上は藤堂明保著「中国名言集」(上)より転載しました。南の植物文化がひっかかります。(WELL BE)
BC4世紀の頃、楚の荘王が洛水のほとりまで勢力を伸ばし周の都の郊外に迫った。そこで盛大な観兵式をおこなって、周に圧力をかけた。周の王室は、王孫満という人を使者に立て、荘王をもてなした。荘王は「夏」から「殷」「周」と伝わっている宝鼎を見てみたいと王孫満に次のように行った。
「鼎の軽重はいかほど?」すると王孫満は次のように答えた。
「夏の昔、鼎を鋳て百物を象る。のち鼎は殷に移り、600年をへたり、殷の紂王、暴虐にして、鼎は周に移る。徳の立派なる時は、国小なるといえども鼎は必ず重く、国乱れる時は、鼎は軽し。周の成王、鼎を洛北に定めてより30世700年、これ天の命ずるところなり。周の徳、衰えたりといえども、鼎の軽重は尚、問うべからざるなり。」
その答えを聞いて、荘王は軍を引き返したという。南方の人たちは、金と石の文化で鍛えられた北人の強引さが欠けている。植物文化の「押しの弱さ」がやがて楚を滅亡へ向かわせる。以上は藤堂明保著「中国名言集」(上)より転載しました。南の植物文化がひっかかります。(WELL BE)
2009年2月8日日曜日
チェコ映画「英国王給仕人に乾杯」を観ました。
チェコのイジー・メルツェル監督の映画「英国王給仕人に乾杯」を観ました。
ある給仕人の若い頃から、年老いるまでのおりおりの就職したホテルの様々な客の動向を見せながら、第二次世界大戦でドイツに占領され、戦後の労働党の支配まで飽きさせず描いていきます。
ある給仕人は年老いて引退した状態と、若いときから壮年までを2人の俳優が演じる。
タイトルの英国王給仕人とは、気骨のある人で、主人公の上司にあたる。ナチスに支配されても、その気骨は揺るがず、ドイツ語には聞こえぬフリをする。イジー監督は、主役ではない英国王給仕人を誇りとしているのがわかる。主役の給仕人は時流に右顧左眄する。多くの人々の代表として。
チェコは1993年チェコスロバキアから分離された。これらのボヘミア地方には複数の人種が住んでいる。戦争前、チェコスロバキアにはドイツ人も住んでいた。映画を観て始めて知った。
映画を観ていて、ラストらしいシーンでは「オワって欲しくない!」と思った始めての映画でした。
イジー・メルツェン監督のことは、公開講座フェスタ2008で「映画における人生の時間~その縮小と拡大~」として羽衣国際大学安東教授から「老優の一瞬」(人生は10分以上は長くない、老優の若い頃と現在を対比して10分で描かれていた。)の紹介を受けて非凡な才能に感心していました。妻の主張する映画は監督で見るべしということも満更誤っていなかった。(WELL BE)
ある給仕人の若い頃から、年老いるまでのおりおりの就職したホテルの様々な客の動向を見せながら、第二次世界大戦でドイツに占領され、戦後の労働党の支配まで飽きさせず描いていきます。
ある給仕人は年老いて引退した状態と、若いときから壮年までを2人の俳優が演じる。
タイトルの英国王給仕人とは、気骨のある人で、主人公の上司にあたる。ナチスに支配されても、その気骨は揺るがず、ドイツ語には聞こえぬフリをする。イジー監督は、主役ではない英国王給仕人を誇りとしているのがわかる。主役の給仕人は時流に右顧左眄する。多くの人々の代表として。
チェコは1993年チェコスロバキアから分離された。これらのボヘミア地方には複数の人種が住んでいる。戦争前、チェコスロバキアにはドイツ人も住んでいた。映画を観て始めて知った。
映画を観ていて、ラストらしいシーンでは「オワって欲しくない!」と思った始めての映画でした。
イジー・メルツェン監督のことは、公開講座フェスタ2008で「映画における人生の時間~その縮小と拡大~」として羽衣国際大学安東教授から「老優の一瞬」(人生は10分以上は長くない、老優の若い頃と現在を対比して10分で描かれていた。)の紹介を受けて非凡な才能に感心していました。妻の主張する映画は監督で見るべしということも満更誤っていなかった。(WELL BE)
2009年1月31日土曜日
中国名言集⑧上善如水⑨足るを知る者は富む
いずれも老子の言葉です。
「史記」によると孔子が洛陽に周の蔵書かがりをしていた老子を訪れ「礼」を教えもらったと記述されています。老子の活躍時代はいろんな説がありますが、孔子と同時代とも考えられ、紀元前の中国の墳墓より「老子」の言葉を書き付けた布片が出土しています。その言葉は5000字強で、函谷関の関守の依頼で「道」と「徳」81章を作成し、関守に渡し、どこともしれず去ったと記録されています。
⑧「上善(若)如水」(原書には若とありますが如としました、)とは小川環樹訳注「老子」によると「最上の善とは水のようなものだ。」(水のよさは、あらゆる生物に恵みを施し、しかもそれ自身は争わず、それでいて、すべての人がさげすむ場所に満足していることにある。(水を)「道」にあれほど近いものにしている。)ということです。・・・水は高きところから低きところへ流れていきます。似ている名言に「水は方円の器に随(したが)う」(韓非子)というのがあります。水は柔軟で四角の器にも、丸い器にもおさまる、つまり、上しだいで下がついていくという意味です。わが国の戦国時代の知将、黒田如水もここから名づけています。
⑨「足るを知る者は富む」同訳注によると「(もっているだけのもので)満足するのが富んでいることであり・・・」ことわざ慣用句辞典によると「満足することを知っているものは、たとえ貧しくとも精神的には富んでゆたかである。」とあります。この考え方からでたと思われるのがロを真ん中に吾、唯、足る、知るという円形の字体です。
老子は現状を満足、何かするよりも何もしない方へ、大よりは小へ、高いところより低いところへ自分をおくといった考え方で、まず個人の健康であることがなりより大切であるという主張です。
「道」を標榜し、人より「地」が、「地」より「天」が。「天」より「道」が上位で、「道」の上位は「自然」すなわち何もしない天真爛漫の赤子の状態とのことです。国で言えば、治めず、自然のままがよい、上の人は下の人に干渉しない、それ故、国は小がよい。儒教思想がやかましく人倫を説く時、その反動として、ほっとする中国の人々の心のよりどころが、老子そして後に紹介したいと思っている荘子だったようです。老荘思想はやがて道教となっていきます。(WELL BE)
「史記」によると孔子が洛陽に周の蔵書かがりをしていた老子を訪れ「礼」を教えもらったと記述されています。老子の活躍時代はいろんな説がありますが、孔子と同時代とも考えられ、紀元前の中国の墳墓より「老子」の言葉を書き付けた布片が出土しています。その言葉は5000字強で、函谷関の関守の依頼で「道」と「徳」81章を作成し、関守に渡し、どこともしれず去ったと記録されています。
⑧「上善(若)如水」(原書には若とありますが如としました、)とは小川環樹訳注「老子」によると「最上の善とは水のようなものだ。」(水のよさは、あらゆる生物に恵みを施し、しかもそれ自身は争わず、それでいて、すべての人がさげすむ場所に満足していることにある。(水を)「道」にあれほど近いものにしている。)ということです。・・・水は高きところから低きところへ流れていきます。似ている名言に「水は方円の器に随(したが)う」(韓非子)というのがあります。水は柔軟で四角の器にも、丸い器にもおさまる、つまり、上しだいで下がついていくという意味です。わが国の戦国時代の知将、黒田如水もここから名づけています。
⑨「足るを知る者は富む」同訳注によると「(もっているだけのもので)満足するのが富んでいることであり・・・」ことわざ慣用句辞典によると「満足することを知っているものは、たとえ貧しくとも精神的には富んでゆたかである。」とあります。この考え方からでたと思われるのがロを真ん中に吾、唯、足る、知るという円形の字体です。
老子は現状を満足、何かするよりも何もしない方へ、大よりは小へ、高いところより低いところへ自分をおくといった考え方で、まず個人の健康であることがなりより大切であるという主張です。
「道」を標榜し、人より「地」が、「地」より「天」が。「天」より「道」が上位で、「道」の上位は「自然」すなわち何もしない天真爛漫の赤子の状態とのことです。国で言えば、治めず、自然のままがよい、上の人は下の人に干渉しない、それ故、国は小がよい。儒教思想がやかましく人倫を説く時、その反動として、ほっとする中国の人々の心のよりどころが、老子そして後に紹介したいと思っている荘子だったようです。老荘思想はやがて道教となっていきます。(WELL BE)
2009年1月30日金曜日
中国映画「戦場のレクイエム」を観ました。
フォン・シャオガン監督の「戦場のレクイエム」を観ました。中国の1948年当時の国民党と共産軍の戦い、広大な中国の中での1小隊48名が死守を命じられた炭鉱の防衛戦の物語。
集合ラッパが鳴るまで、死守せよ。ラッパが鳴ったか、鳴らなかったか。48名は敵に蹂躙される。・・・
国共内戦は知識では知っていたが、現実は映画で想像できる。大変な戦いをしてきたようだ。その後、中国は共産軍が勝利して現在に至っている。
その国を理解するのに、映画のイメージがよいようだ。この映画は韓国の北と南の戦争の物語を撮ったスタッフの協力を得て作ったとのこと。原作は3ページの実話で内容をふくらませていった。出来上がりはアメリカ映画のようだった。見終わった今、映画の内容の前と後の中国に展望が広がっている。(WELL BE)
集合ラッパが鳴るまで、死守せよ。ラッパが鳴ったか、鳴らなかったか。48名は敵に蹂躙される。・・・
国共内戦は知識では知っていたが、現実は映画で想像できる。大変な戦いをしてきたようだ。その後、中国は共産軍が勝利して現在に至っている。
その国を理解するのに、映画のイメージがよいようだ。この映画は韓国の北と南の戦争の物語を撮ったスタッフの協力を得て作ったとのこと。原作は3ページの実話で内容をふくらませていった。出来上がりはアメリカ映画のようだった。見終わった今、映画の内容の前と後の中国に展望が広がっている。(WELL BE)
2009年1月28日水曜日
中国名言集⑦詩書礼楽をもって治む
藤堂明保「中国名言集」(上) 「詩書礼楽をもって治む」より主たるところを引用してご紹介しましょう。図は春秋時代の中国を大づかみのため"晋"を加えました。当時の。春秋五覇=黄河下流の山東省に斉、その西隣の黄河北に晋、揚子江の南に越、その西北揚子江沿いに呉、揚子江上流北に楚がありました。
孔子生誕より約100年前、BC659年秦の王位に繆公(ビュウコウ)がついた。当時の中国は春秋五覇(斉・晋・楚・呉・越)が周王をみかけ上の盟主としていた。秦は黄河のコの字を左90度回転させた下部にあり、当時「夷狄(いてき)」と見られていた元遊牧民でした。中央の勢力に関心を持ち、紆余曲折を経て2人の政客を採用しました。それが蹇叔(ケンシュク)と百里奚(ヒャクリケイ)でした。この「二老」をブレーンとして、その知恵と情報を利用してついに黄河の岸(山西-陝西の境)までを勢力に収めて「わが馬に黄河の水をのましめん」という野望を実現したのでした。
繆公(ビュウコウ)の晩年、遊牧民「西戎」のところから由余(ユウヨ)という漢人が使者としてやってきました。
繆公「中国は、詩書・礼楽・法渡で政治をしているが、時に乱れることがある。夷狄にはこれがない、何をもって国を治めているのですか?」
由余「これこそが中国が乱れるゆえんです。上古聖帝の時代は別として、後世に及んでは、貴族は豪奢に流れ、法はいきわたらず、責任を下にかぶせています。上下恨みあいて、殺しあっています。しかるに、夷狄の人たちは上は徳をもって下に遇し、下は忠信をいだきてその上に仕えていますね」
夷狄からみれば「詩書礼楽の文明」は封建貴族の退廃と、はてしない消費の競争にすぎないと思われたようですね。繆公は文明とはおそろしい毒をもつものだ、と思ったようです。東方の毒気にあたらないように注意をして政治をおこなったとのことです。
最近のTVニュースに北朝鮮の金正男が流暢な英語で、つやのある風貌をみせていましたね。本国では対照的に質実に生きている2000万人余の同胞がいます。北朝鮮のリーダーがこの名言を見れば胸をなでおろすかもしれません。結局は、いずれの陣営の国も、国民に十分な「職」と「食」を提供でき「希望」を与えられるよう、指導者が情熱をもって指針を出し、国民もボトムアップする英知を発揮していかねばならないと思います。アメリカのオバマ大統領の決意と国民の熱気、わが日本では大阪府橋下知事の熱意のリーダーシップと府民の支持、地球の処々で変革の動きがでていることは頼もしいことです。(WELL BE)
登録:
投稿 (Atom)