最近、妻が熱心に勝間和代さんのことを、小生に2度語った。1度目は「勝間和代さん知ってる。本屋に本がつんでいるよ」というと、聞く気がないと見て、「あなた聞いてる?」といって話を中断した。
次の日、「勝間和代さんは3つのことを奨めているのよ。①自分と気が合う人たちだけでなく、気があわなかっても、それなりにつきあうこと。何かはプラスになるとのことよ。 ②勝間さんは本を50冊1ケ月に読み、トイレにも置いているのよ。③一旦はじめたことは続けることよ。」
「ウーン、なるほど。参考になった。有難う。」
妻が、これほど熱心に有名人のことを語ったことはない。同性として、共感しているのだろう。
私も勝間さんの3つの奨めを実行したいと思っている。(WELL BE)
2009年3月23日月曜日
2009年3月22日日曜日
映画『シリアの花嫁』を観ました。【ゴラン高原の現在を知りました】
2004年イスラエル・フランス・ドイツ製作映画 エラン・リクリス監督「シリアの花嫁」はゴラン高原の現在の姿、シリアはシリア領土としているし、イスラエルは占領した領土であると考えている現実を一人の花嫁の一日を通じて語ってくれます。
登場人物の言語は、アラビア語・ヘブライ語・英語・ロシア語・フランス語と国際色が豊かです。ゴラン高原のマジュダルシャムス村のイスラムの少数派とされるドゥルーズ派の一家族の結婚式に親類縁者が集まってくる。花婿はシリア側、花嫁はゴラン高原のその村にいる。村の人々は無国籍となっている。ゴラン高原から出るともう、戻れない。
出国に際して、お互いの国(シリア・イスラエル)の面子のはりあいがある。
わが国の近くでも、南北朝鮮の境界線、尖閣列島周辺、竹島周辺、北方領土周辺とニュアンスは違うが、国々のにらみ合いはある。世界市民という感覚を作らない限り解消しないのだろうか。
「シリアの花嫁」の現実は、形を変えてどこにでもあるといえる。見ごたえがあり考えさされた一本の映画でした。(WELL BE)
登場人物の言語は、アラビア語・ヘブライ語・英語・ロシア語・フランス語と国際色が豊かです。ゴラン高原のマジュダルシャムス村のイスラムの少数派とされるドゥルーズ派の一家族の結婚式に親類縁者が集まってくる。花婿はシリア側、花嫁はゴラン高原のその村にいる。村の人々は無国籍となっている。ゴラン高原から出るともう、戻れない。
出国に際して、お互いの国(シリア・イスラエル)の面子のはりあいがある。
わが国の近くでも、南北朝鮮の境界線、尖閣列島周辺、竹島周辺、北方領土周辺とニュアンスは違うが、国々のにらみ合いはある。世界市民という感覚を作らない限り解消しないのだろうか。
「シリアの花嫁」の現実は、形を変えてどこにでもあるといえる。見ごたえがあり考えさされた一本の映画でした。(WELL BE)
2009年3月13日金曜日
⑲人の性は悪なり[荀子]⑳木を北面に移す[商鞅]
BC300年ごろ、斉王はさかんに学者を集めた。その最たるものが荀子であった。儒家の性善説が孟子に引き継がれ、性悪説が荀子に引き継がれた。「人は生まれながらにして、耳目の欲あり、声色を好むことあり。これに順(したが)うゆえに、淫乱しょうず。」だからこそ、「礼儀」で人間しばらねばならない。それを一言であらわせば、「人の性は悪なり、その善なるものは偽なり」ということで「これはやってはならない」というおきてができた。「先聖・後王の法」という。
『荀子』の「修身」「勧学」2編には、教育によって本性をねじまげることが説かれている。また、ことばに表すことと、迷信を否定している。この考えを進化させて商鞅、韓非子の法家思想ができる。
秦の商鞅は度量衡を統一し、さまざまな法を施行した。法の徹底を図るため、約7メートルの大木を南門に立て「北門に移したものに十金をあたう」と宣告した。ところが、民は半信半疑、誰も信用しなかった。そこで、「五十金」をあたうとふれを出した。ある男がこわごわ北門に移した。たちどころに商鞅はその男に、「五十金」を与えた。ようやく人々は法の値打ちを信じ始めた。やがて商鞅は、その法で命を落とすが、法の整備は秦を強国にしていき、始皇帝の出現となり、中国は統一された。その段階では、古のことを良しとする儒家思想は否定され、「焚書坑儒」(儒家の本が焼かれ、儒家が生き埋めとなる)する。
漢代に入ると、儒家思想は復活していく。宋代の朱熹により儒家思想が理論化される。隋から清末まで、儒家思想の記憶は官吏登用試験「科挙」の必須項目となり浸透していった。現在の中国・韓国・日本の冠婚葬祭の共通の部分に儒家思想は残っていますし、さまざまな考え方の共通部分にある思想が中国の古代にうまれたものと考えています。一旦、中国名言集の連載をこの回をもって終了します。(WELL BE)
『荀子』の「修身」「勧学」2編には、教育によって本性をねじまげることが説かれている。また、ことばに表すことと、迷信を否定している。この考えを進化させて商鞅、韓非子の法家思想ができる。
秦の商鞅は度量衡を統一し、さまざまな法を施行した。法の徹底を図るため、約7メートルの大木を南門に立て「北門に移したものに十金をあたう」と宣告した。ところが、民は半信半疑、誰も信用しなかった。そこで、「五十金」をあたうとふれを出した。ある男がこわごわ北門に移した。たちどころに商鞅はその男に、「五十金」を与えた。ようやく人々は法の値打ちを信じ始めた。やがて商鞅は、その法で命を落とすが、法の整備は秦を強国にしていき、始皇帝の出現となり、中国は統一された。その段階では、古のことを良しとする儒家思想は否定され、「焚書坑儒」(儒家の本が焼かれ、儒家が生き埋めとなる)する。
漢代に入ると、儒家思想は復活していく。宋代の朱熹により儒家思想が理論化される。隋から清末まで、儒家思想の記憶は官吏登用試験「科挙」の必須項目となり浸透していった。現在の中国・韓国・日本の冠婚葬祭の共通の部分に儒家思想は残っていますし、さまざまな考え方の共通部分にある思想が中国の古代にうまれたものと考えています。一旦、中国名言集の連載をこの回をもって終了します。(WELL BE)
⑱鶏鳴狗盗[孟嘗君]
BC310年、斉の宣王によって薛(せつ)に封ぜられたのが孟嘗君(もうしょうくん)である。大きな包容力をもった人物で、食客3000人を養ったといわれている。食客の中には、どろぼうの類や、鶏のまねの上手な人もいた。孟嘗君の名は幾多の功によって中華を動かすのは孟嘗君であるというほどになっていた。
当時の強国秦は孟嘗君を招いた。臣下と食客を引き連れて孟嘗君は秦に向かった。昭王は相(しょう)の席を与えた。昭王に孟嘗君を殺させようとした臣下がいた。「後顧の憂いとなりますぞ」昭王も考え直して、孟嘗君を捕らえようと孟嘗君の邸を包囲した。孟嘗君はひそかに昭王の寵姫の幸姫に使いを送って、包囲を解いてもらおうとした。幸姫は「狐白裘(こはっきゅう=狐の皮衣=)」を要求した。狐白裘は天下に二つとないもので、すでに秦に入ったときに昭王に提供してしまっている。
困っていると、食客の中より「私に任せてください」と狗盗といわれている狗のようにすばしこく走り巧みにものを盗み出せる人が狐白裘を昭王から盗むことを提案した。「たのむぞ」と孟嘗君は依頼して、狐白裘を蔵より盗み出し、幸姫に提供して、とりあえず囲いを解いてもらった。
孟嘗君は秦を脱出しょうと、函谷関(かんこくかん)に急いだ。ところが夜がまだ明けない。「こまった」と一行は夜明けを待とうとした。鶏が鳴かなければ、門は開かない。「私がやってみましょう」鶏鳴の上手な食客が言った。「ようし、たのんだぞ」「コケコッコー・・・」と鶏のまねをした。周りの鶏たちも夜明けが来たと思い、一斉にコケコッコーと鳴き、関守は少し早いが、門を開けた。孟嘗君はほうほうの体で函谷関を通り過ぎ無事帰国できた。後世、この2つの故事を取って「鶏鳴狗盗」といって、無用・害のあるものでも役に立つことの例えとした。
わが国でも、祇園祭の2番目の鋒に函谷鋒があり、孟嘗君の故事をしのんでいる。
また、和歌としても清少納言「夜をこめて 鳥の空音(そらね)は はかるとも よに逢坂の関は ゆるさじ」と孟嘗君の故事を踏まえて歌をつくっています。中国の故事がゆかしく日本に伝わり、日中の奥の深い関係がわかるようです。以上は宮城谷 昌光「孟嘗君と戦国時代」を参考としました。(WELL BE)
当時の強国秦は孟嘗君を招いた。臣下と食客を引き連れて孟嘗君は秦に向かった。昭王は相(しょう)の席を与えた。昭王に孟嘗君を殺させようとした臣下がいた。「後顧の憂いとなりますぞ」昭王も考え直して、孟嘗君を捕らえようと孟嘗君の邸を包囲した。孟嘗君はひそかに昭王の寵姫の幸姫に使いを送って、包囲を解いてもらおうとした。幸姫は「狐白裘(こはっきゅう=狐の皮衣=)」を要求した。狐白裘は天下に二つとないもので、すでに秦に入ったときに昭王に提供してしまっている。
困っていると、食客の中より「私に任せてください」と狗盗といわれている狗のようにすばしこく走り巧みにものを盗み出せる人が狐白裘を昭王から盗むことを提案した。「たのむぞ」と孟嘗君は依頼して、狐白裘を蔵より盗み出し、幸姫に提供して、とりあえず囲いを解いてもらった。
孟嘗君は秦を脱出しょうと、函谷関(かんこくかん)に急いだ。ところが夜がまだ明けない。「こまった」と一行は夜明けを待とうとした。鶏が鳴かなければ、門は開かない。「私がやってみましょう」鶏鳴の上手な食客が言った。「ようし、たのんだぞ」「コケコッコー・・・」と鶏のまねをした。周りの鶏たちも夜明けが来たと思い、一斉にコケコッコーと鳴き、関守は少し早いが、門を開けた。孟嘗君はほうほうの体で函谷関を通り過ぎ無事帰国できた。後世、この2つの故事を取って「鶏鳴狗盗」といって、無用・害のあるものでも役に立つことの例えとした。
わが国でも、祇園祭の2番目の鋒に函谷鋒があり、孟嘗君の故事をしのんでいる。
また、和歌としても清少納言「夜をこめて 鳥の空音(そらね)は はかるとも よに逢坂の関は ゆるさじ」と孟嘗君の故事を踏まえて歌をつくっています。中国の故事がゆかしく日本に伝わり、日中の奥の深い関係がわかるようです。以上は宮城谷 昌光「孟嘗君と戦国時代」を参考としました。(WELL BE)
2009年3月12日木曜日
中国名言集⑰彼を知り、己を知れば百戦危うからず[孫子]
⑯の蘇秦、張儀の師匠鬼国先生とは斉の国に隠居していた兵法家らしい。その斉の兵学の元祖が紀元前6C末の孫武であった。孫武は呉の王闔閭(こうりょ)のもとに押しかけて軍師となり、楚の都までふみいって諸国を震え上がらせた。その後100年ほど経って、孫武の子孫に孫臏という人が現れた。斉軍の軍師として、韓を破った魏と対決する。孫臏の進言を入れて、兵の竈の数を進軍先で一日単位で減らしていった。魏の龐涓(ほうけん)は竈の数がだんだん減っていっていることを見て、脱走兵が増えたと判断して、かくる考えて、騎兵のみとし、急追した。一方の斉軍は孫臏の教えを入れて、道の険しい馬稜で兵を隠し、道の左右に1万の弩を伏せさせた。それから大樹を削って「龐涓この樹の下で死せん」と大書した。果たして日没後、魏の騎兵が馬稜に到着し、文字を見つけたが読めないので火を鑽(き)って照らしてみた。そこに矢が伏所から一斉に発せられた。魏の騎兵は進むことも出来なくなって、龐涓は自殺した。
孫子の兵法とは孫武、孫臏のそれをさす。
「彼を知り、己を知れば百戦危うからず。」
「用兵の法は、国をまっとうするを上とし、国を破るはこれに次ぐ、軍をまっとうするを上とし、軍を破るはこれに次ぐ。・・・・この故に百戦百勝するは善の善なるものにあらず、戦わずして、人の兵を屈することこそ善の善となす。」
この前半を日本に当てはめれば、日清・日露・第1次世界大戦で全勝したが、太平洋戦争に敗れた。この反省の元に、現在は専守防衛で戦わずして、人の兵を屈している。防衛幹部も孫子の兵法を学びなおして欲しい。(WELL BE)
孫子の兵法とは孫武、孫臏のそれをさす。
「彼を知り、己を知れば百戦危うからず。」
「用兵の法は、国をまっとうするを上とし、国を破るはこれに次ぐ、軍をまっとうするを上とし、軍を破るはこれに次ぐ。・・・・この故に百戦百勝するは善の善なるものにあらず、戦わずして、人の兵を屈することこそ善の善となす。」
この前半を日本に当てはめれば、日清・日露・第1次世界大戦で全勝したが、太平洋戦争に敗れた。この反省の元に、現在は専守防衛で戦わずして、人の兵を屈している。防衛幹部も孫子の兵法を学びなおして欲しい。(WELL BE)
2009年3月10日火曜日
中国名言集⑯合従連衡[蘇秦、張儀]
戦国時代の蘇秦は洛陽の生まれで斉に行き、鬼谷先生につき学習した。卒業後、困窮して帰郷した。みなに笑われて、一念発起し、秦王にバカにされ、趙でもうまくいかず、燕王をようやく説得できた。燕王の正式な使者として、各国をといて回ったのが、強国秦に対し、他の国が共同でコトにあたる合従策でした。BC318年6ケ国の連合軍が秦に対しましたが、連合の弱さがで、敗退します。
張儀は魏の人ですが、東に行ってやはり鬼谷先生に学び、諸国遊説のたびに出て、楚に入った。その相(しょう)の客となった。楚の相と酒を飲んでいたが、大事な宝がなくなる事件が起きました。相の臣下は一様に張儀を疑い、数百回鞭をうったのち解きはなしました。故郷に帰ると、妻が「読書して遊説しなければかくもならなかったものを」と張儀は妻に「わが舌はまだあるか」といいました。妻は「まだありますよ」張儀は「それなら、十分だ」―――張儀の生涯の主題は定まった。―――楚を滅亡させること。
張儀は秦の恵文王に取り入り、各国と「秦と仲良くするのが肝要でござる」とといてまわり秦と各国という横の同盟を推し進めた。特に楚については策略をつかい、BC223年に滅亡させる。
楚の屈原は何度も王をいさめるが、流れを帰ることが出来ず、洞庭湖にさまよい泊羅(べきら)に身を投げた。後世の「続斉諧記」に「5月5日、泊羅(べきら)に身を投じた屈原の悲憤をいたみ楚の人々は5月5日には竹筒に米を入れ水際に投じて祭るようになった。後漢のころから粽(ちまき)を供えるようになった。」とあるそうです。端午の節句に粽を食べる習慣ははるかな屈原の故事に由来しているのは日中の縁を感じます。
屈原は「楚辞」(わが国の万葉集のようなものか)を残した。後世、朱子がその注釈「楚辞集注」を表した。
日中国交回復を果たした田中首相(当時)に毛沢東主席(当時)は「楚辞集注」をおくった。この意味は、楚が滅亡するまでは本来、天真爛漫な楚の国があった。が、日本の侵略戦争で塗炭の苦しみを負った。それは屈原の気持ちにも重なる。日本よ、この苦しみがわかるか!ということだったのでしょうか。
当時、田中首相は「大変ご迷惑をおかけしました」といったと新聞報道にありました。周恩来首相が「ご迷惑といったそんなものではない(苦しみだった)」と後日言ったとのこと。それを聞いた田中首相は日本では「ご迷惑をおかけしました」という、とも新聞報道にありました。侵略された痛みは侵略した側ではわからないのではないでしょうか。心したいです。(WELL BE)
張儀は魏の人ですが、東に行ってやはり鬼谷先生に学び、諸国遊説のたびに出て、楚に入った。その相(しょう)の客となった。楚の相と酒を飲んでいたが、大事な宝がなくなる事件が起きました。相の臣下は一様に張儀を疑い、数百回鞭をうったのち解きはなしました。故郷に帰ると、妻が「読書して遊説しなければかくもならなかったものを」と張儀は妻に「わが舌はまだあるか」といいました。妻は「まだありますよ」張儀は「それなら、十分だ」―――張儀の生涯の主題は定まった。―――楚を滅亡させること。
張儀は秦の恵文王に取り入り、各国と「秦と仲良くするのが肝要でござる」とといてまわり秦と各国という横の同盟を推し進めた。特に楚については策略をつかい、BC223年に滅亡させる。
楚の屈原は何度も王をいさめるが、流れを帰ることが出来ず、洞庭湖にさまよい泊羅(べきら)に身を投げた。後世の「続斉諧記」に「5月5日、泊羅(べきら)に身を投じた屈原の悲憤をいたみ楚の人々は5月5日には竹筒に米を入れ水際に投じて祭るようになった。後漢のころから粽(ちまき)を供えるようになった。」とあるそうです。端午の節句に粽を食べる習慣ははるかな屈原の故事に由来しているのは日中の縁を感じます。
屈原は「楚辞」(わが国の万葉集のようなものか)を残した。後世、朱子がその注釈「楚辞集注」を表した。
日中国交回復を果たした田中首相(当時)に毛沢東主席(当時)は「楚辞集注」をおくった。この意味は、楚が滅亡するまでは本来、天真爛漫な楚の国があった。が、日本の侵略戦争で塗炭の苦しみを負った。それは屈原の気持ちにも重なる。日本よ、この苦しみがわかるか!ということだったのでしょうか。
当時、田中首相は「大変ご迷惑をおかけしました」といったと新聞報道にありました。周恩来首相が「ご迷惑といったそんなものではない(苦しみだった)」と後日言ったとのこと。それを聞いた田中首相は日本では「ご迷惑をおかけしました」という、とも新聞報道にありました。侵略された痛みは侵略した側ではわからないのではないでしょうか。心したいです。(WELL BE)
2009年3月8日日曜日
中国名言集⑭朝三暮四(何事も相対的)⑮万物斉同(生も死も同じ)[荘子]
サルを飼っている人がいました。あるときサルに言いました。「朝は3つ、夜は4つだ」サルたちはギャーギャー文句を言いました。
そこで、飼い主は「朝に4つ、夜に3つだ」といい直しました。するとサルたちはキャッキャ、キャッキャと喜びました。これを「朝三暮四」といいます。
BC4Cの初め頃、宋の国で荘周が釣り糸をたれて、のんびりと世の中は相対的なのだといっていました。思い方で気持ちが違うだけで、結果は7つで同じです。「荘子」という書となり、孔子・孟子の難しい話から「老子」も含めて、ほっとする思想をまとめました。他に、有名な「胡蝶」の夢というのがあります。荘周が夢で胡蝶になったのか、胡蝶が夢で荘周になったのか。それはどちらも正しいといえる。・・・とらえ方によるということで、事実は変わらず、人の思い込みで荘周が胡蝶になったと思いがちになりますが、逆も真なりです。
また、こんな話もあります。個人が喧嘩し傷つけると罪となりますが、国家が戦争で大義名分を立てると、人を傷つけることが正当化されます。つまり、罪であることが罪でなくなる理屈で、人々は何とも思わない。ものごとは、相対的だとこんなことも荘周は言っています。
生きるも死ぬも状態が変わるだけ、万物は皆同じ「万物斉同」といっています。生きるものは全て死ぬ、そのことは自然、死んだらそのからだを大自然にまかせればよい。2,300-2,400年前の中国の生んだ荘周という思想家の考えがその後の中国の人々に加筆修正され今日に「荘子」として残っています。運命論というものが、ありますが、「荘子」がルーツであるようです。ジタバタしても始まらない、過去も未来もない、今ここにある巡り合わせが運命である、と私たち東洋人は考えがちですが、その根源が「荘子」に由来するものなのでしょうか。
仏教がインドから中国に紀元後はいってきて、「荘子」の思想のあった中国の人々に仏教の「無」という原理が共感を覚えられて、受け入れられました。結局は「禅宗」(自力本願で座り無に同化する)、「浄土宗」(他力本願、南無阿弥陀仏と唱えて全てお任せ)が混然なってと中国に残りました。(WELL BE)
そこで、飼い主は「朝に4つ、夜に3つだ」といい直しました。するとサルたちはキャッキャ、キャッキャと喜びました。これを「朝三暮四」といいます。
BC4Cの初め頃、宋の国で荘周が釣り糸をたれて、のんびりと世の中は相対的なのだといっていました。思い方で気持ちが違うだけで、結果は7つで同じです。「荘子」という書となり、孔子・孟子の難しい話から「老子」も含めて、ほっとする思想をまとめました。他に、有名な「胡蝶」の夢というのがあります。荘周が夢で胡蝶になったのか、胡蝶が夢で荘周になったのか。それはどちらも正しいといえる。・・・とらえ方によるということで、事実は変わらず、人の思い込みで荘周が胡蝶になったと思いがちになりますが、逆も真なりです。
また、こんな話もあります。個人が喧嘩し傷つけると罪となりますが、国家が戦争で大義名分を立てると、人を傷つけることが正当化されます。つまり、罪であることが罪でなくなる理屈で、人々は何とも思わない。ものごとは、相対的だとこんなことも荘周は言っています。
生きるも死ぬも状態が変わるだけ、万物は皆同じ「万物斉同」といっています。生きるものは全て死ぬ、そのことは自然、死んだらそのからだを大自然にまかせればよい。2,300-2,400年前の中国の生んだ荘周という思想家の考えがその後の中国の人々に加筆修正され今日に「荘子」として残っています。運命論というものが、ありますが、「荘子」がルーツであるようです。ジタバタしても始まらない、過去も未来もない、今ここにある巡り合わせが運命である、と私たち東洋人は考えがちですが、その根源が「荘子」に由来するものなのでしょうか。
仏教がインドから中国に紀元後はいってきて、「荘子」の思想のあった中国の人々に仏教の「無」という原理が共感を覚えられて、受け入れられました。結局は「禅宗」(自力本願で座り無に同化する)、「浄土宗」(他力本願、南無阿弥陀仏と唱えて全てお任せ)が混然なってと中国に残りました。(WELL BE)
中国名言集⑬女は愛人のために容(かたち)す(中国人の友情-「義」)
孟子は君臣の義について次のように言っている。「君から与えられた十という待遇があれば、臣は十だけお返しすればよい、君がマイナスの扱いをしたら、かたきとして仕返しをせよ(それだけ君は下を遇せよという意味)」と。日本人の忠義とは忠臣蔵等を見ていると「下は上には盲目的に従う」と信じられているので、少し違うようだ。
今の山西省に「晋」という大国があった。BC376年、内戦が起こり韓・魏・趙に分かれた。晋の代官職の智伯に使えていたのが予譲であった。智伯は趙の晋陽城を水攻めして苦しめたが、やがて韓・魏・趙連合軍に敗退する。勝った趙襄子は智伯の頭蓋骨にウルシをぬり、便器とした。よほど智伯がにくかったとみえる。主人を失った、予譲は「士は己を知るもののために死し、女は己を悦ぶもののために容(かたち)すとかや、われ必ず智伯のあだを報いんがために死して、あの世にて智伯につげんとす。(史記)」といったとのことだ。
予譲は趙襄子の宮中の雑役に身を変えて、趙襄子を狙ったが、目の険しさでとらまえられた。ひったてられた予譲に趙襄子は言った。
「滅んだ主君のため、旧臣があだを報じようとする。こやつは義士じゃ。こちらが用心して避ければ良い。はなしてやれ。」
釈放された予譲は、体にウルシをぬって膿だらけの身となり、炭を飲んで声をつぶして、趙襄子を橋の下で待った。趙襄子の乗った車に襲い掛かったが、近習にとりおさえられた。
趙襄子「おぬしは智伯の前の主人に仕えたときはそれほどでもなかったのに、智伯に仕えた後は何故に智伯のためにそれほどあだを返さそうとするのか」
予譲「智伯どのの前の主人は人並みに扱ってくれたから、人並みに仕えた。智伯どのは国士として扱ってくれた。私も国士として智伯どのに報いるのです。」
趙襄子「では覚悟をされよ」
予譲「しばしまたれよ。最後の望みを聞いて欲しい。趙襄子どのの衣をあたえてくれないですか。」
趙襄子「・・・・よかろう」
予譲は趙襄子の衣を切り裂いて、後、自ら果てた。
趙国の志士、この話を聞いて皆涙したと、「史記」に載っているとのことです。何ともすさまじい友情だろうか。日本人には想像の範囲を超えている。中国映画を観ていると、真の友に出会うと、生死を超えた友情があることがわかる。現在にも繋がっている。(WELL BE)
今の山西省に「晋」という大国があった。BC376年、内戦が起こり韓・魏・趙に分かれた。晋の代官職の智伯に使えていたのが予譲であった。智伯は趙の晋陽城を水攻めして苦しめたが、やがて韓・魏・趙連合軍に敗退する。勝った趙襄子は智伯の頭蓋骨にウルシをぬり、便器とした。よほど智伯がにくかったとみえる。主人を失った、予譲は「士は己を知るもののために死し、女は己を悦ぶもののために容(かたち)すとかや、われ必ず智伯のあだを報いんがために死して、あの世にて智伯につげんとす。(史記)」といったとのことだ。
予譲は趙襄子の宮中の雑役に身を変えて、趙襄子を狙ったが、目の険しさでとらまえられた。ひったてられた予譲に趙襄子は言った。
「滅んだ主君のため、旧臣があだを報じようとする。こやつは義士じゃ。こちらが用心して避ければ良い。はなしてやれ。」
釈放された予譲は、体にウルシをぬって膿だらけの身となり、炭を飲んで声をつぶして、趙襄子を橋の下で待った。趙襄子の乗った車に襲い掛かったが、近習にとりおさえられた。
趙襄子「おぬしは智伯の前の主人に仕えたときはそれほどでもなかったのに、智伯に仕えた後は何故に智伯のためにそれほどあだを返さそうとするのか」
予譲「智伯どのの前の主人は人並みに扱ってくれたから、人並みに仕えた。智伯どのは国士として扱ってくれた。私も国士として智伯どのに報いるのです。」
趙襄子「では覚悟をされよ」
予譲「しばしまたれよ。最後の望みを聞いて欲しい。趙襄子どのの衣をあたえてくれないですか。」
趙襄子「・・・・よかろう」
予譲は趙襄子の衣を切り裂いて、後、自ら果てた。
趙国の志士、この話を聞いて皆涙したと、「史記」に載っているとのことです。何ともすさまじい友情だろうか。日本人には想像の範囲を超えている。中国映画を観ていると、真の友に出会うと、生死を超えた友情があることがわかる。現在にも繋がっている。(WELL BE)
2009年3月7日土曜日
中国名言⑫民を尊しとなす(孟子)
BC5-4Cころ大国同士の戦争ならばひどい状態となる。「地を争うに戦いを持ってし、人を殺して野に満つ。城を争うに戦いをもってし、人を殺して城に満つ。これ、土地のためとて。人の肉を食らうもの、死をのがれず。」(「孟子」離婁篇上)大変な時代だったようだ。孟子は「民を尊しとし、社稷(国の守護神)はこれに次ぐ、君を軽しとす。このゆえに、丘民(山野の人民)に得られしものは天子となり、天子に得られし者は諸侯となり、諸侯に得られし者は大夫(家老)となる。諸侯もし社稷を危うくすれば、諸侯を変地する。」(「孟子」尽心篇)と。
尭舜の古い時代を賛美し、その時代のあり方にかえることを諸国を歩いて説いてまわっていた。この中で、民に得られし者は天子となるところがミソで民に得られなければ、天子も交代せざるを得ない。だから民の幸せ念頭に置いた政をせよと、当時の諸国の王に苦情を言ってといて回っていたのだ。実際は、王―諸侯―大夫―士-庶民の基本上下は決まった上での話であった。船の難破等で「孟子」の書(しょ)がなかなか日本へ渡ってこなかったのはこの辺りにあり、万世一系の天皇制をも否定する論理だからと中国でうわさされたとのことだ。幕末の志士、吉田松陰は「孟子」を信奉したとのことであった。(WELL BE)
尭舜の古い時代を賛美し、その時代のあり方にかえることを諸国を歩いて説いてまわっていた。この中で、民に得られし者は天子となるところがミソで民に得られなければ、天子も交代せざるを得ない。だから民の幸せ念頭に置いた政をせよと、当時の諸国の王に苦情を言ってといて回っていたのだ。実際は、王―諸侯―大夫―士-庶民の基本上下は決まった上での話であった。船の難破等で「孟子」の書(しょ)がなかなか日本へ渡ってこなかったのはこの辺りにあり、万世一系の天皇制をも否定する論理だからと中国でうわさされたとのことだ。幕末の志士、吉田松陰は「孟子」を信奉したとのことであった。(WELL BE)
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