BC5-4Cころ大国同士の戦争ならばひどい状態となる。「地を争うに戦いを持ってし、人を殺して野に満つ。城を争うに戦いをもってし、人を殺して城に満つ。これ、土地のためとて。人の肉を食らうもの、死をのがれず。」(「孟子」離婁篇上)大変な時代だったようだ。孟子は「民を尊しとし、社稷(国の守護神)はこれに次ぐ、君を軽しとす。このゆえに、丘民(山野の人民)に得られしものは天子となり、天子に得られし者は諸侯となり、諸侯に得られし者は大夫(家老)となる。諸侯もし社稷を危うくすれば、諸侯を変地する。」(「孟子」尽心篇)と。
尭舜の古い時代を賛美し、その時代のあり方にかえることを諸国を歩いて説いてまわっていた。この中で、民に得られし者は天子となるところがミソで民に得られなければ、天子も交代せざるを得ない。だから民の幸せ念頭に置いた政をせよと、当時の諸国の王に苦情を言ってといて回っていたのだ。実際は、王―諸侯―大夫―士-庶民の基本上下は決まった上での話であった。船の難破等で「孟子」の書(しょ)がなかなか日本へ渡ってこなかったのはこの辺りにあり、万世一系の天皇制をも否定する論理だからと中国でうわさされたとのことだ。幕末の志士、吉田松陰は「孟子」を信奉したとのことであった。(WELL BE)
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