2009年3月13日金曜日

⑲人の性は悪なり[荀子]⑳木を北面に移す[商鞅]

 BC300年ごろ、斉王はさかんに学者を集めた。その最たるものが荀子であった。儒家の性善説が孟子に引き継がれ、性悪説が荀子に引き継がれた。「人は生まれながらにして、耳目の欲あり、声色を好むことあり。これに順(したが)うゆえに、淫乱しょうず。」だからこそ、「礼儀」で人間しばらねばならない。それを一言であらわせば、「人の性は悪なり、その善なるものは偽なり」ということで「これはやってはならない」というおきてができた。「先聖・後王の法」という。

 『荀子』の「修身」「勧学」2編には、教育によって本性をねじまげることが説かれている。また、ことばに表すことと、迷信を否定している。この考えを進化させて商鞅、韓非子の法家思想ができる。

 秦の商鞅は度量衡を統一し、さまざまな法を施行した。法の徹底を図るため、約7メートルの大木を南門に立て「北門に移したものに十金をあたう」と宣告した。ところが、民は半信半疑、誰も信用しなかった。そこで、「五十金」をあたうとふれを出した。ある男がこわごわ北門に移した。たちどころに商鞅はその男に、「五十金」を与えた。ようやく人々は法の値打ちを信じ始めた。やがて商鞅は、その法で命を落とすが、法の整備は秦を強国にしていき、始皇帝の出現となり、中国は統一された。その段階では、古のことを良しとする儒家思想は否定され、「焚書坑儒」(儒家の本が焼かれ、儒家が生き埋めとなる)する。

 漢代に入ると、儒家思想は復活していく。宋代の朱熹により儒家思想が理論化される。隋から清末まで、儒家思想の記憶は官吏登用試験「科挙」の必須項目となり浸透していった。現在の中国・韓国・日本の冠婚葬祭の共通の部分に儒家思想は残っていますし、さまざまな考え方の共通部分にある思想が中国の古代にうまれたものと考えています。一旦、中国名言集の連載をこの回をもって終了します。(WELL BE)

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