⑯の蘇秦、張儀の師匠鬼国先生とは斉の国に隠居していた兵法家らしい。その斉の兵学の元祖が紀元前6C末の孫武であった。孫武は呉の王闔閭(こうりょ)のもとに押しかけて軍師となり、楚の都までふみいって諸国を震え上がらせた。その後100年ほど経って、孫武の子孫に孫臏という人が現れた。斉軍の軍師として、韓を破った魏と対決する。孫臏の進言を入れて、兵の竈の数を進軍先で一日単位で減らしていった。魏の龐涓(ほうけん)は竈の数がだんだん減っていっていることを見て、脱走兵が増えたと判断して、かくる考えて、騎兵のみとし、急追した。一方の斉軍は孫臏の教えを入れて、道の険しい馬稜で兵を隠し、道の左右に1万の弩を伏せさせた。それから大樹を削って「龐涓この樹の下で死せん」と大書した。果たして日没後、魏の騎兵が馬稜に到着し、文字を見つけたが読めないので火を鑽(き)って照らしてみた。そこに矢が伏所から一斉に発せられた。魏の騎兵は進むことも出来なくなって、龐涓は自殺した。
孫子の兵法とは孫武、孫臏のそれをさす。
「彼を知り、己を知れば百戦危うからず。」
「用兵の法は、国をまっとうするを上とし、国を破るはこれに次ぐ、軍をまっとうするを上とし、軍を破るはこれに次ぐ。・・・・この故に百戦百勝するは善の善なるものにあらず、戦わずして、人の兵を屈することこそ善の善となす。」
この前半を日本に当てはめれば、日清・日露・第1次世界大戦で全勝したが、太平洋戦争に敗れた。この反省の元に、現在は専守防衛で戦わずして、人の兵を屈している。防衛幹部も孫子の兵法を学びなおして欲しい。(WELL BE)
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