孟子は君臣の義について次のように言っている。「君から与えられた十という待遇があれば、臣は十だけお返しすればよい、君がマイナスの扱いをしたら、かたきとして仕返しをせよ(それだけ君は下を遇せよという意味)」と。日本人の忠義とは忠臣蔵等を見ていると「下は上には盲目的に従う」と信じられているので、少し違うようだ。
今の山西省に「晋」という大国があった。BC376年、内戦が起こり韓・魏・趙に分かれた。晋の代官職の智伯に使えていたのが予譲であった。智伯は趙の晋陽城を水攻めして苦しめたが、やがて韓・魏・趙連合軍に敗退する。勝った趙襄子は智伯の頭蓋骨にウルシをぬり、便器とした。よほど智伯がにくかったとみえる。主人を失った、予譲は「士は己を知るもののために死し、女は己を悦ぶもののために容(かたち)すとかや、われ必ず智伯のあだを報いんがために死して、あの世にて智伯につげんとす。(史記)」といったとのことだ。
予譲は趙襄子の宮中の雑役に身を変えて、趙襄子を狙ったが、目の険しさでとらまえられた。ひったてられた予譲に趙襄子は言った。
「滅んだ主君のため、旧臣があだを報じようとする。こやつは義士じゃ。こちらが用心して避ければ良い。はなしてやれ。」
釈放された予譲は、体にウルシをぬって膿だらけの身となり、炭を飲んで声をつぶして、趙襄子を橋の下で待った。趙襄子の乗った車に襲い掛かったが、近習にとりおさえられた。
趙襄子「おぬしは智伯の前の主人に仕えたときはそれほどでもなかったのに、智伯に仕えた後は何故に智伯のためにそれほどあだを返さそうとするのか」
予譲「智伯どのの前の主人は人並みに扱ってくれたから、人並みに仕えた。智伯どのは国士として扱ってくれた。私も国士として智伯どのに報いるのです。」
趙襄子「では覚悟をされよ」
予譲「しばしまたれよ。最後の望みを聞いて欲しい。趙襄子どのの衣をあたえてくれないですか。」
趙襄子「・・・・よかろう」
予譲は趙襄子の衣を切り裂いて、後、自ら果てた。
趙国の志士、この話を聞いて皆涙したと、「史記」に載っているとのことです。何ともすさまじい友情だろうか。日本人には想像の範囲を超えている。中国映画を観ていると、真の友に出会うと、生死を超えた友情があることがわかる。現在にも繋がっている。(WELL BE)
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