BC310年、斉の宣王によって薛(せつ)に封ぜられたのが孟嘗君(もうしょうくん)である。大きな包容力をもった人物で、食客3000人を養ったといわれている。食客の中には、どろぼうの類や、鶏のまねの上手な人もいた。孟嘗君の名は幾多の功によって中華を動かすのは孟嘗君であるというほどになっていた。
当時の強国秦は孟嘗君を招いた。臣下と食客を引き連れて孟嘗君は秦に向かった。昭王は相(しょう)の席を与えた。昭王に孟嘗君を殺させようとした臣下がいた。「後顧の憂いとなりますぞ」昭王も考え直して、孟嘗君を捕らえようと孟嘗君の邸を包囲した。孟嘗君はひそかに昭王の寵姫の幸姫に使いを送って、包囲を解いてもらおうとした。幸姫は「狐白裘(こはっきゅう=狐の皮衣=)」を要求した。狐白裘は天下に二つとないもので、すでに秦に入ったときに昭王に提供してしまっている。
困っていると、食客の中より「私に任せてください」と狗盗といわれている狗のようにすばしこく走り巧みにものを盗み出せる人が狐白裘を昭王から盗むことを提案した。「たのむぞ」と孟嘗君は依頼して、狐白裘を蔵より盗み出し、幸姫に提供して、とりあえず囲いを解いてもらった。
孟嘗君は秦を脱出しょうと、函谷関(かんこくかん)に急いだ。ところが夜がまだ明けない。「こまった」と一行は夜明けを待とうとした。鶏が鳴かなければ、門は開かない。「私がやってみましょう」鶏鳴の上手な食客が言った。「ようし、たのんだぞ」「コケコッコー・・・」と鶏のまねをした。周りの鶏たちも夜明けが来たと思い、一斉にコケコッコーと鳴き、関守は少し早いが、門を開けた。孟嘗君はほうほうの体で函谷関を通り過ぎ無事帰国できた。後世、この2つの故事を取って「鶏鳴狗盗」といって、無用・害のあるものでも役に立つことの例えとした。
わが国でも、祇園祭の2番目の鋒に函谷鋒があり、孟嘗君の故事をしのんでいる。
また、和歌としても清少納言「夜をこめて 鳥の空音(そらね)は はかるとも よに逢坂の関は ゆるさじ」と孟嘗君の故事を踏まえて歌をつくっています。中国の故事がゆかしく日本に伝わり、日中の奥の深い関係がわかるようです。以上は宮城谷 昌光「孟嘗君と戦国時代」を参考としました。(WELL BE)
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