2009年3月10日火曜日

中国名言集⑯合従連衡[蘇秦、張儀]

 戦国時代の蘇秦は洛陽の生まれで斉に行き、鬼谷先生につき学習した。卒業後、困窮して帰郷した。みなに笑われて、一念発起し、秦王にバカにされ、趙でもうまくいかず、燕王をようやく説得できた。燕王の正式な使者として、各国をといて回ったのが、強国秦に対し、他の国が共同でコトにあたる合従策でした。BC318年6ケ国の連合軍が秦に対しましたが、連合の弱さがで、敗退します。

 張儀は魏の人ですが、東に行ってやはり鬼谷先生に学び、諸国遊説のたびに出て、楚に入った。その相(しょう)の客となった。楚の相と酒を飲んでいたが、大事な宝がなくなる事件が起きました。相の臣下は一様に張儀を疑い、数百回鞭をうったのち解きはなしました。故郷に帰ると、妻が「読書して遊説しなければかくもならなかったものを」と張儀は妻に「わが舌はまだあるか」といいました。妻は「まだありますよ」張儀は「それなら、十分だ」―――張儀の生涯の主題は定まった。―――楚を滅亡させること。

 張儀は秦の恵文王に取り入り、各国と「秦と仲良くするのが肝要でござる」とといてまわり秦と各国という横の同盟を推し進めた。特に楚については策略をつかい、BC223年に滅亡させる。

 楚の屈原は何度も王をいさめるが、流れを帰ることが出来ず、洞庭湖にさまよい泊羅(べきら)に身を投げた。後世の「続斉諧記」に「5月5日、泊羅(べきら)に身を投じた屈原の悲憤をいたみ楚の人々は5月5日には竹筒に米を入れ水際に投じて祭るようになった。後漢のころから粽(ちまき)を供えるようになった。」とあるそうです。端午の節句に粽を食べる習慣ははるかな屈原の故事に由来しているのは日中の縁を感じます。

 屈原は「楚辞」(わが国の万葉集のようなものか)を残した。後世、朱子がその注釈「楚辞集注」を表した。

 日中国交回復を果たした田中首相(当時)に毛沢東主席(当時)は「楚辞集注」をおくった。この意味は、楚が滅亡するまでは本来、天真爛漫な楚の国があった。が、日本の侵略戦争で塗炭の苦しみを負った。それは屈原の気持ちにも重なる。日本よ、この苦しみがわかるか!ということだったのでしょうか。

 当時、田中首相は「大変ご迷惑をおかけしました」といったと新聞報道にありました。周恩来首相が「ご迷惑といったそんなものではない(苦しみだった)」と後日言ったとのこと。それを聞いた田中首相は日本では「ご迷惑をおかけしました」という、とも新聞報道にありました。侵略された痛みは侵略した側ではわからないのではないでしょうか。心したいです。(WELL BE)

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